あれは事故のようなものだと、頭を振って忘れようとすればするほど唇に柔らかな感触が蘇ってしまい、咄嗟に立ち上がってキッチンへ逃げた。

「あれは意識が朦朧としていたせいよ。ちょっと何か間違えたのよ」

でも和音くんは、しっかり私の名前を呼んでいた。

……まさか。

まさかまさか。


『アンタにその気がなくても向こうもそうだとは限らないからね』

アキちゃんの声がまた頭の中に蘇る。

『まさか橘和音に惚れてるってことはないよね?』


「ないないないない! ありえないそんなこと!」


だけど。

ああ、だけど。


……嫌じゃ、なかった。

抱きしめられたことも、滑るように触れた唇も。

嫌では、なかったんだ……。


「いやいやいやいや、ないないないない!」


それでも頭を振る。

そんなことはあってはならない。

だって私は。

あたたかいショパンの雨を、振り返ることは出来ないのだから。