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その日の夜。
キッチンを挟んだ歩太の部屋を気にしながら、僕はなかなか寝付けなかった。
彼女が、一人で泣いているような気がしてならなかったからだ。
けれどももちろん、僕にはドアをノックする勇気などない。
悶々とした時間を、何度も寝返りをうちながら過ごした。
それでも時折、僕は気付かないうちに浅い眠りに落ちていた。
その眠りの間で、僕は確かに歩太の夢を見た。
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歩太は相変わらず、縁なし眼鏡の奥で神秘的な笑顔を湛えていた。
薄くて形のいい歩太の唇は、まるでマネキンのそれのように完璧だ。
『久しぶりだね、歩夢』
完璧な唇はそう言ってからスーッと閉じた。
まるで腹話術のような動きだった。
『……久しぶりだね』
僕もできるだけ丁寧にそう答える。
そういえば僕は、歩太の前ではひどく言葉に気を使っていたように思う。
美しい言葉に、美しい発音、美しい唇の動き。
おそらく、歩太が完璧にそれらを備えていたからだろう。