『歩太』
その言葉一つで、彼女のさっきまでの現実の笑顔は一瞬にして消え去ってしまった。
それほどまでに強い歩太の影は、どんなに温かい景色の前であっても、彼女の中で揺らぐ事はないのだろうか。
「とにかく、もう決めたんだからっ……う、うぐっ……」
ガタン。
尚子はそう言いかけて、すぐに口許を抑え込んで立ち上がった。
そのままバタバタとキッチンを走り、トイレへと駆け込んで行く。
「ううっ……はっ……うっ……」
しばらくして、キッチンまで響いてくる尚子の苦しそうな嗚咽。
よくある事だ。
尚子が食べながら話す事に夢中になると、よく悪阻がくる。
「……まったく。歩太の子だなんてバカバカしい事を言い出すから」
僕がそう言って、ビールをもう一本飲もうと立ち上がった時。