♦
仕事の食事休憩を、吉永と2人きりでとるようになったのは、私が育休を明けてしばらくして、一度仕事を頼んだことがあってからだと思う。
オフィスの端の簡易テーブルと椅子に手作りの弁当を並べ、2人で45分話し込むのが日課になっていた。
吉永は実家の母が作った弁当。私は、自分で朝急ぐ間にこしらえた、昨日の残り物の弁当だ。
だが、彼と食事をするようになって、弁当の彩が劇的に良くなった。少し高いミニトマトも買うようになったし、ふりかけも色鮮やかな物を選ぶようになった。
「野菜、少ないですよ」
対面して座る、細身の吉永は、私の弁当を見てから言う。
「嫌いなのよねー。……今日はカイワレだけ……」
「そんな細い線みたいなのだけじゃなくて、緑黄色野菜摂った方がいいですよ。かぼちゃ、人参……あと何かな」
「ホウレンソウはまあまあ好き」
「それもいいですね」
特にベジタリアンではないが、食に拘りがない吉永は、何の調味料もついていないブロッコリーをパクリと食べる。
「ブロッコリーってマヨネーズ欲しくない?」
「ちょっと塩味ついてるからいけます。けど、味なしでもいけますよ」
「へー、優秀!」
「普通ですよ」
彼は機嫌よく笑った。
「この前式場を見に行ったんですけどね」
そう話題を変えられると、わりと平常心でいられず、無心を装ってしまう。
「どこかいいところあった?」
「迷います。たくさんありすぎて。彼女も迷うし」
吉永は弁当を見たままだ。
「……それにしても、君が結婚するなんてね。プロポーズとかどんな感じでしたの?」
私はにやけて聞いた。
「まあまあ、そこは……」
苦笑して、前髪をさらりと払う。
「だって最初は全然しそうになかったのにね。しないの一点張りだったじゃん」
「まあ、ねえ……けど彼女も年だし」
「私と同じ年だもんね。私ももう子供がいるし、結婚したいよねえ」
「でしょうね。30すぎて独身なんて、いきおくれですよ、全く」
「でも良かったじゃん。年下の旦那さんなんて、自慢だよ」
「そうですか?」
吉永は少し驚いた顔をして聞いた。
「うんうん、若い方がいいに決まってる。彼女も多分自慢してるよ」
「……そうかなあ」
「こんな若いイケメンの旦那さんに『結婚してくれ』って言われたんだよーって」
私は、冗談のつもりで笑ったが、図星だったのか。彼は少し顔を赤らめ、目を伏せたのを見逃さなかった。
「……君も、そういう顔するんだね」
「いつもの顔ですよ」
そう言い返した時には、確かにいつもの顔だったかもしれない。だけど、あの一瞬の、照れたような表情は初めて見た。これが、いつも彼女の前で見せている表情か、と思う。
そして同時に、二度と見られない表情なのかもしれないな、と思った。
♦
「僕は尊敬してますよ、上司として」
自分の夫をこのように褒められ、悪い気がするはずもなかったが、これといって、良い気分になれるようなものでもないのが不思議だった。
本日も目の前には、2つの弁当がある。彼の弁当は毎度のことながら丁寧に作り上げられており、それが、手間暇をかけて育てられた息子の証だとでもいうようだった。
「だから、園田 (そのだ)さんも、毎日お弁当作ってあげてるんじゃないですか?」
彼に苗字を呼ばれることがほとんどなく、一瞬他人を呼んでいるように聞こえた。
「えっ、えーとまあ、いろんなついでで……」
夫を尊敬しているからお弁当を作ってあげているということにしっくりこなかったので、適当に答えただけだが、吉永はそこを逃さず、
「そういう時は、そうですよ、の一言でいいんですよ」
と、ふふんと言ってのけた。
「そうですねー」
私は少しふてくされてみせる。
「結婚式のスピーチ、お願いします。また園田部長にも言いますけど」
「うん、一応は伝えておく」
彼の結婚式に、まさか夫がスピーチを任されるなんて……けど、流れ的には合ってるか。上司だもんなあ。
「けど、すごいと思いますよ、毎日弁当。しかも綺麗に作ってるし」
ここにきて、初めて弁当を褒められたことに驚いた。今まで弁当を散々見ていたのに、何も言わなかったのに。
「え、まあ……」
「お菓子も時々作ってくるじゃないですか」
「うんまあ、たまにね……」
「そういうの、いいと思います」
彼女の料理の腕と比べてるのか……。
まあ、仕方ない。私の方が主婦歴は2年も先輩だし、確かに家事もそれほど苦にはなっていないから、腕は上がっているのかもしれない。
「結婚で大事なのってやっぱ料理ですよね。僕も料理ができる人で良かったです」
「……」
あれ、そういう流れ?
「あそう……」
「料理してくれないと自分がするハメになりますから」
「けど、課長は自分でしてるらしいよ」
「あぁいうのは、僕には向かないです。半々くらいまらまだマシかな」
今時だなあ。既に40近い上司と結婚した私は、半亭主関白の状態なので、こういう今時のイクメンやら何やらが、羨ましくも思える。
「けど、一番はそうやって奥さんが全部してくれることです」
そう言われると、顔を上げられなかった。顔が赤面しているのが、自分でも分かる。
落ち着いて、ゆっくり弁当を食べるふりをする。
次の違う話題を探さなければいけない。
なのに彼は、
「なかなかできませんよね、きちんとした人じゃないと」
と、更に続けた。
♦
彼と私の関係を一言で表すのならば、同僚。
今、パートの身分の私からすれば、正社員の彼を後輩とは言い難い。
仕事をこなし、日々成長する彼を見ていると、分かる。
結婚を決めてから、変わったなあ、と。
仕事をしている時の目つき、顔つきはどんどん鋭くなっていくのに、彼女の話をしている目は逆に、どんどん穏やかになっていく。
今までずっと見てきた顔とは違う顔になっていく。
逆に、私が結婚した時はどうだっただろう。
公認で付き合っていた上司と結婚した時は、準備が忙しくて、仕事がどうだったかほとんど覚えていない。その後すぐに妊娠して、育休をとって、それからはつまり、忙しすぎて仕事を休んでいる状態。
そんな中で、今仕事に復帰し、冷静に彼を見ていると、彼が私など見ていないことがよく分かる。
なのに、何がつまらなかったんだろう。
休憩の間、まだディスプレイの前で作業途中の彼にふっと近づき、私ってば何の前後もなく、
「結婚やめたら?」
と、言ってしまった。
ただ、2人きりの場で言う勇気がないのが幸いだった。
隣から先輩が、
「人の幸せ壊しちゃダメだよ」
と、面白そうに笑いかけてくれる。
「……」
彼は仕事の片手間のせいか、ディスプレイに目を落としつつ、笑うとも笑わないともとれない微妙な表情でいる。
しまった、言葉を間違えた、と即後悔しつつ、
「結婚やめたら、なんて、誰も言ってくれないよ?」
といつものように茶化した。
「それはそうかもしれませんね、そんなこと、初めて言われましたよ」
やはり笑顔が微妙だ。
いくら仲が良いといえど、このセリフはさすがになかったかもしれない。
逆に自分が言われたことを想像すればどうだろう。
酷い冗談だなと思うに違いない。
その晩、ずっと後悔した。
だけど、いづれ言ってしまう一言であるような気はした。
それくらい、本音に近い言葉だった。
翌日、彼が朝早く出社することを知っていたので、それに合せて出社した。
「おはよう」
「おはようございます。早いですね、どうかしたんですか?」
周りには誰もいない。私は、まだ手にバックを持ったまま近づくと、まず、謝罪の意を述べた。
「ごめんね、昨日。ずっと考えてた。結婚やめたらって言ったこと。もし、自分が言われたら嫌だろうなって、考えてた」
彼はディスプレイを前に、座ったままこちらを見上げた。
そして、見つめて言った。
「やめようか、結婚」