という方が気になった。 

 唇はすっと近づき、触れてすぐ離れただけだが、驚きのあまり、手で唇を抑えることしかできなかった。

「……そんな顔しないでくださいよ」

 困ったような彼の声が聞こえて気付き、ふっと顔を上げた。

 彼は普通だ。冗談、とでも言いたげだが、しかし……。

「えっ、いや……」

 何か、言わなければ、この雰囲気をどうにかしなければと頭の中では分かっていたが、実際は何もできず、ただうろたえているだけだった。

「さ、行きましょう」

 彼が先に歩き出す。そうだ、私は電車に乗って家に帰らないといけない。

「まあ、まだ僕も一応独身なので。最後のチャンスかなと思って」

 彼の後を追いながら、その言葉にどんな意味があるのだろうと、ただ背中を見つめて頭を働かせようとする。

「そ……」

 そうだね、とそれらしい相槌を打ち終わる前に彼は振り返り、

「もう1回しますか?」

 と顔を見て、少し笑って聞かれた。

 驚いて、目を見開いてしまう。

「…………冗談ですよ。……僕、不倫はしませんから」

 ふっと、彼はまた前を向く。

 こちらが動揺しすぎていることで、そんなつもりじゃなかったのに、と思ったのかもしれない。
 
「……不倫じゃないでしょ。別に、君は……好きでもなんでもないんだから」