その目に、月野は言葉を失う。

浦部が自分に向けた、獲物を狙う獰猛なあの目を、思い出した。


「もう少し優しくしてからにしようと思ったんだけど」

「は、離しなさい!」


顎を掴まれて、月野は足をばたつかせる。

ベッドが軋んだ音をたてるけど、月野の抵抗する声の方が大きい。


「離して! やめて! お願いだから―――ッ」


うるさい、とでも言いたげに、桜太が月野の唇を塞いだ。

自分の唇で。


「ん――――――!!!」


固く閉じた唇を、桜太が強引に開かせようとする。


(いやっ、気持ち悪い!)


開かせられた口腔に、桜太の舌が侵入してくる。

その感覚は、決して気持ちの良いものではなく、むしろ不快感しか感じない。


―――ガリッ。


「痛ッ」


桜太が素早く、月野から唇を離した。

切れた互いの唇に、桜太の顔が歪む。



舌も切ったらしく、口の中に血の味が広がる。


「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・」

「桜太、くん?」


呼吸の荒くなる桜太に、月野が恐る恐る声をかける。


―――ゴクリ。


離れていても聞こえた、桜太の唾を飲む音。

瞳から、理性が消えている。


「あ・・・・・・」

「お姉さん、ちょうだい」


首筋に、桜太が顔を埋める。

軽く歯で噛むのは、まるでどこから血を吸おうか、品定めしているようで。

月野の呼吸が、恐怖で早くなる。


(やだ、やだっ。綾織くん! 綾織くん!!)


牙が、見えた。

尖った、血を吸うための牙が。


「あ、綾織くん!!」


叫んだ瞬間、勢いよく開け放たれた扉。

息を切らせ、乱れた制服姿の十夜。


「何をしている、お前」


ベッドに縛り付けられた月野と、そんな彼女に覆いかぶさる桜太。



空気が変わった、ような気がした。

凍るような、それでいて焼くような、鋭い空気。


「何をしている、と聞いている」

(綾織くん? 目が・・・・・・)


十夜の目が赤い。

血のように、ルビーのように。


「月野から離れろ。触るな、触るなっ」


一瞬のうちに間合いを詰め、十夜が桜太の首を掴んだ。


「う・・・・・・あ・・・・・・お、姉さん・・・・・・」

「!」


苦しげな桜太の声に、月野は我に返る。


「やめて! 死んじゃう!」

「!」


月野の声を聞き、十夜の手から力が抜けた。


「ゲホッ・・・・・・!」


咳込む桜太を、十夜は黙って見下ろす。

瞳はもう、赤くない。


「月野ちゃん、大丈夫?」


少し遅れて、椿が部屋へやって来た。


「花村さん・・・・・・」

「・・・・・・ひどい格好」


椿は縄を解き、月野の素肌を隠そうとする。



「・・・・・・」


十夜が黙って、自分の上着を差し出す。


「ありがと。十夜、あんたは後から来なさい。今のあんたを、月野ちゃんの傍にはいさせられない」

「・・・・・・あぁ」


月野に上着を着せて、椿は部屋を出る。

部屋を出たところに、小野瀬がいて、月野の体を軽々と抱き上げ、外に止めた車まで、運んでくれた。


「俺・・・・・・」


十夜は、気を失った桜太を見て、自分の手の平を見た。

まだ、うっすらと月野が爪で引っかいた傷が残っている。


月野を守ると言いながら、なんだ、この有様は。


桜太に襲われる月野の姿を見た瞬間、感情の波が押し寄せてきて、止められなかった。

こんな失態、ありえない。


「俺は、どうしたんだ・・・・・・?」


感情を抑え切れない、初めての感覚に、十夜は戸惑っていた。



紅玉館に帰ると、椿が体を洗って綺麗にしろと言い、月野をバスルームへ押し込んだ。

言われた通り体を隅々まで洗った月野は、何度も何度も、うがいを繰り返していた。


「初めてのキスが、あれだなんて・・・・・・」


救いは、相手が美少年だったことだ。

それでも、気持ち悪いことに変わりはないが。


「はぁ・・・・・・」


鏡に映る自分の姿を見つめ、月野はため息を漏らす。


襲われたことより、今は十夜のことが気になる。

赤く染まった瞳と、桜太を殺してしまいそうな勢い。

月野の知る十夜じゃなかった。


(怖い、って思った)


浦部や桜太に抱いた恐怖とは、違う恐怖。

あれが、ヴァンパイアの十夜なのだろうか?


「月野ちゃん?」

「あ、今出ます」


椿に呼ばれ、月野は慌てて外へ出た。


「紅茶飲んで、落ち着いてね」



部屋まで月野を送ると、椿は熱い紅茶を入れて、部屋を出ていった。


「・・・・・・美味しい」


また襲われた。

どうして、こんなにも狙われるんだろうか?


(・・・・・・キスって、あんなにも気持ち悪いものなのかしら?)


自分の唇に触れ、月野は思い出す。

浦部に触られた時も、今回も、嫌悪と不快しか抱かなかった。


「・・・・・・」


―――コンコン。


小さなノックの音に、月野はハッとして顔を上げた。


「・・・・・・俺だ」

「綾織くん?」


先程の十夜が脳裏に浮かび、月野は知らず体が強張る。


「入っても、いいか?」

「・・・・・・うん」


大丈夫。

十夜は十夜だ。


月野は紅茶を置いて、立ち上がった。


「寝てなくていいのか?」

「平気。怪我とかしたわけじゃないから」



赤くなった手首を隠し、月野は笑顔を返す。


「・・・・・・」

「・・・・・・す、座る?」


ばつが悪いとでも言うのか。

そんな表情の十夜を、月野はベッドに座らせた。


「月野、隣に」

「あ、うん」


隣に座ると、十夜が月野の手を掴み、眉間に皺を寄せた。


「痛むか?」

「ちょっと・・・・・・」


縄で擦れて、皮が剥けている部分もあるが、我慢できない程じゃない。


「守るって言ったのにな」

「守ってくれたでしょ? 私、血吸われなかったし」


月野の言葉に、十夜は視線を逸らす。


「気にしないで。私、大丈夫だから」


十夜が悪いわけじゃない。

そう言っても、十夜は自分自身を許せないのだろう。


「綾織くん」


月野が、十夜の手を握り締める。


「私、綾織くんを怖いと思った」



血のように赤い目で、桜太の首を絞めた十夜。


「私を助けてくれたのに、怖いと思ったの」

「それが普通の反応だ」


手を離そうとする十夜を、月野は力いっぱい握り締めて、逃がさない。


「ヴァンパイアとか、そういうのは、まだ良くわからない。でも、綾織くんは綾織くんだもの」

「月野・・・・・・」

「助けてくれて、ありがとう」


そう、言わなきゃいけないのは、この一言。

怖いとか、そういうのは後回しだ。


「・・・・・・月野。あいつに、何もされなかったか?」


シャツを切られ、素肌を晒されたあの状況。

何かされたと考える方が、自然だ。


「何も・・・・・・あ」

「何かされたのか?」


言い淀む月野に、十夜が顔を近づける。


「えっと、その・・・・・・キス、された、かな」


視線を泳がせて、月野は自分の口元を隠す。



「キス?」

「まぁ、大したことじゃないよね」


傷も残らないし、うがいをたくさんしたから。


「キス、されたのか?」

「う、うん」


そんなに何度も聞かないで。

やっぱり女の子だし、初めてのキスがあんな形で終わったのは、ちょっと不本意だけど。

キスだけで済んだんだ。

それを喜ばないと。


「・・・・・・」

「・・・・・・月野」

「何? ―――あ」


顔を向けた瞬間、十夜と唇が重なっていた。

形の良い十夜の唇と、自分の唇が触れている。


「!!!」


驚きすぎて、声も出ない。

目も開けたままで、間近にある十夜の顔が、よく見える。

長い睫毛に、きめ細やかな肌。


「目、閉じて」

「ん・・・・・・」


言われるがまま、月野は目を閉じた。

十夜がぺろっと唇を軽く舐めるから、月野は驚いて口を開けてしまった。