あらわになる、白い首筋と胸元。

月野は顔から血の気が引いていく感覚というものを、初めて経験した。


(そんなことより逃げないと!)


立ち上がろうにも、浦部が覆いかぶさっているので、動けない。

足をばたつかせるが、抵抗には及ばない。

手首を押さえ込まれ、月野は唯一自由になる口で叫ぼうと決意する。


「―――ヒッ」


そう思ったのに、口から漏れたのは不快感を含んだ短い悲鳴だった。


首筋を、舐められた。


「な、なな・・・・・・ッ!!」


恐怖を遥かに凌ぐ不快感に、月野の口はパクパクと声にならない悲鳴を繰り返す。


「綺麗な白い肌だ。・・・・・・他の男の匂いが全くしない、無垢な肌」


確かに、月野にそういった類の経験はない。

けれど、それって肌を見ただけでわかるもの?

というか、匂いってなんだ、匂いって。



「は、離し・・・・・・ッ」


首筋を舐められ、ふと動きを止めた浦部と目が合う。


(何? 目が、赤い・・・・・・?)


浦部の目は、黒だった。

なのに、今見る浦部の目は、血のように真っ赤だ。


―――怖いっ。


これは、捕食者の目だ。

月野は恐怖に震えながらも、声を上げようと口を開く。


しかし、月野が悲鳴を上げる前に、浦部が行動を起こした。

浦部の歯が、月野の柔肌をなぞる。

痛みはないが、背筋にゾワッと悪寒が走る。


(歯が、尖ってる・・・・・・?)


チラッと見えたのは、多分、犬歯だと思う。

月野も多少尖っているが、浦部の尖りかたは異様だ。

まるで、物語に出てくる、血を吸う化け物のようだ、と思った。


「・・・・・・僕が初めて、君に傷をつけるんだね」


規則性のない荒い息に、月野は抵抗を激しくする。



(やだやだやだやだっ。助けて―――!)


堪えていた涙が、一筋、頬に伝う。

唇を噛み締めると、微かに血の味がしたけど、痛みなんてわからない。


怖い!
怖い!!
怖い怖いっ!!!


浦部の尖った歯が、首筋に突き刺さる、その直前。


月野の視界を覆ったのは、黒くて暖かい、闇だった―――。



「グホッ―――!」


耳に聞こえたのは、浦部の苦しげな声だった。

気づいた時には、十夜の腕の中にいた。


視界を覆った黒の正体は、十夜の制服だ。


「汚い手で、月野に触るな」


低く怒りを孕んだ声は、決して大きくはない。

けれど、浦部を怯えさせるには、十分過ぎる程、冷ややかな声だった。


「あ、あ・・・・・・綾織くん・・・・・・」


縋るように、浦部が十夜の足を掴む。

その手を、十夜は無慈悲に一蹴した。


「鷹斗、連れていけ」

「はいはい。人使い荒いな。月野ちゃん、またね」


状況が未だ理解できない月野に、鷹斗の笑顔は異質に見えた。

慌てる様子のない、十夜と鷹斗。


(何? 何が・・・・・・?)


わからなくて、頭が混乱する。

浦部は何をしようとした?

どうして、ふたりは平然としている?



十夜は腕の中で大人しくしている月野を、保健室のベッドに座らせた。


―――ビクッ。


十夜の指が首筋に触れる瞬間、月野の体が強張った。

わかってる。

今目の前にいるのは、自分を押し倒した浦部じゃない。

でも、無意識の内に体が恐怖を訴えた。


「少し待ってろ」


十夜は嫌な顔ひとつせず、消毒液を染み込ませたガーゼを持って、戻ってきた。


「首、拭いてやるから」

「う、うん・・・・・・」


舐められた現場を目撃したからこその配慮だろう。

十夜は優しい手つきで、月野の首筋から胸元までを拭いてくれる。

消毒液の臭いは好きじゃないけど、今は浦部の名残を消してくれる。


「手」

「え?」

「血がついてる」

「・・・・・・うん」


自分の血だ。

いつの間にか、血は止まっていたけど。


「・・・・・・ごめんなさい」



手を拭き終えて、十夜はガーゼを近くのごみ箱に捨てた。


「綾織くんの言ったこと、守らなくて・・・・・・」


涙が流れそうになるのを、必死に我慢する。

せめてもの意地だ。


「ごめん、なさい・・・・・・っ」


声が震えるのは、今更ながらに、恐怖がジワジワと足元から這い上がってくるから。

怖かった。

あんなことが起きるなんて、思いもしなかった。


「気にするな。お前が無事だったんだ。それでいい」

「・・・・・・うん、ありがとう」


十夜が手を握るから、我慢していた涙が溢れ出した。

冷たくて固い床と違って、十夜の手は温かくて柔らかい。


「ご、ごめんなさい・・・・・・」

「いいよ。俺の方こそ、悪かった。ひとりにして」


抱き寄せられ、月野は十夜の胸に顔を埋める。

背中に回された十夜の手が、月野の背中を優しくさすってくれる。



ううん、十夜は悪くない。

そう言いたかったけど、漏れるのは押し殺した泣き声ばかりだった。





「・・・・・・ぐすっ」


鼻をすすり、涙がもう出なくなった頃。


「いい雰囲気のとこ、邪魔するよ」

「鷹斗」


月野の髪を撫でていた十夜の手が止まる。


「あ、ごめんなさいっ」


気づいた月野が、慌てて十夜から離れる。


「なんだ、その態度は」

「えっと・・・・・・」


不満顔の十夜を直視できなくて、月野は顔を逸らす。


「話してもいいか?」

「ん? あぁ」


十夜の視線が、自分から鷹斗に移り、ひとまず月野は落ち着く。

男の人に抱きしめてもらったのは初めてで。

父親とは違う匂いとか胸板に、心臓がドキドキとうるさい。


「とりあえず、判断は綾織に任せるってさ」

「そうか、わかった」



(何の話だろう? それにしても、さっきの・・・・・・)


浦部の行動の理由は、なんだったのだろう?

血は舐めるし、目は赤くなるし、歯は尖ってるし。


(吸血鬼みたい・・・・・・)


でも、それは物語の中の、架空の生き物。

現実にいるはずがない。


「月野、帰るぞ。美鶴さんが待ってる」

「おばあちゃんが?」


何故ここに、祖母が出てくるのだろう?

理解できぬまま、月野は立たされる。


「じゃあね、月野ちゃん」

「さ、さよなら」


笑顔の鷹斗に見送られ、月野は保健室を出ていく。


「これから、楽しくなるな」


ペろりと、鷹斗は楽しげに唇を舐めた。










紅玉館に帰ると、部屋よりも先に、中庭へと連れていかれた。


「十夜、あなたは下がっていいわ」

「はい」



中庭で、ふたりきりになる。

美鶴の横顔を、月野は黙って凝視する。


「首は噛まれた?」

「は?」

「襲われたのでしょう?」


美鶴の視線が、月野を捉える。

逸らせなくて、月野は返答のための言葉を探す。


「か、噛まれてません」

「そう、良かったわね」

「あ、あのっ」


気になって、月野は美鶴に質問する。


「浦部先生は、どうして・・・・・・」


祖母は何かを知っている?

だとするなら、今聞かなくては。

月野は自分の手を握りしめ、答えを待った。


「仕方がないわ。彼は、ヴァンパイアだから」

「ば、ヴァンパイア?」


それはつまり、吸血鬼とか、ドラキュラとか呼ばれるアレ?

月野が目を丸くしながら、美鶴を見つめている。


「そう。吸血鬼とかドラキュラとか呼ばれている、それよ」