ナイフを、心臓目掛けて躊躇いなく突き刺す。
だが、その手を静貴が素早く掴んだ。
「甘いのよ!」
手を掴まれるなんて、予想の範疇だ。
体を回転させて放つ蹴りは、静貴の頭部を見事に直撃した。
「―――!!!」
静貴の体が吹き飛び、ワイングラスが割れた。
燭台が倒れ、蝋燭の炎が広がっていく。
「ふふふ・・・・・・君と心中するのも、良いかもしれないね」
傷はすぐに癒え、静貴は燃え広がる教会を恍惚とした顔で見つめた。
「死ぬならひとりで死になさい」
慈悲の一欠けらさえない、椿の言葉。
静貴は笑いながら、のろのろと立ち上がる。
「こんなにも楽しいなんて、初めてだよ」
今、自分は生きてる。
それを、全身で感じれている。
この瞬間が、永遠に続けばいいのに。
「ゴホッ・・・・・・」
煙りに噎せて、咳が出る。
早目に終わらせないと、自分の身も危ない。
「御託はいい。終わらせましょう」
月野の血を纏ったナイフ。
考えが正しければ、このナイフでヴァンパイアを殺せるはず。
椿は、覚悟を決めた。
刺し違えても、なんて考えは胸に抱かない。
こんな男と燃え上がる教会で死ぬなんて、笑えもしない陳腐な三文芝居だ。
「・・・・・・ふふふ」
赤く染まる互いの瞳。
勝負は一瞬で決めなければ。
―――!!!
懐に飛び込んだのは、ほぼ同時。
ナイフが突き刺さる。
「グホ・・・・・・ッ」
静貴の苦しげな声に、自分の考えは正しかったと知る。
傷は、癒えていない。
(チッ、ズレた。心臓を狙ったのに)
椿の狙いを定めたナイフを、静貴はギリギリで躱した。
さすがと言うべきか。
「今、僕は生きてる・・・・・・」
「―――いいえ。今、あんたは死ぬのよ」
ナイフが刺さったまま、椿から離れる静貴。
その身を染めるのは、炎のような赤い血。
「あ、あはは・・・・・・痛い、痛いっ」
苦痛に歪みながらも、生を実感できる。
今、僕は生きてる―――。
哀れみさえ覚える命の灯火が、消えかかる。
「・・・・・・」
「椿!」
燃え落ちる柱が、頭上から降り注ぐ。
「・・・・・・秦。なんであんたが・・・・・・」
間一髪、秦が椿を引き寄せた。
柱は、静貴と椿を分かつ。
「静貴・・・・・・」
秦の瞳に映った静貴の最後は、狂った男とは思えない程、荘厳さに満ちていた。
「あはは・・・・・・あははっ」
痛みと熱さは、彼の心を満たした。
静貴が、炎に包まれて、見えなくなる。
「椿、出るぞ!」
「・・・・・・えぇ」
振り返っても、見えない。
もう一人の自分。
少し違えば、あの場に立っていたのは、静貴ではなく、自分だったのかもしれない。
奥底に眠るのは、同じ破壊衝動。
(でも、私はあんたと違う)
椿は、自分の手を引く秦の手を、離さぬようしっかりと握りしめた。
「教会が・・・・・・」
燃え上がる教会を、離れた場所から見つめる月野。
椿は大丈夫だろうか?
やはり、様子を見に行くべきでは?
そんな考えを振り払い、月野は痛む腕に視線を落とす。
「・・・・・・!」
嫌な気配に、月野は素早く振り返った。
「摩耶、さん・・・・・・」
闇の中、白いワンピース姿の摩耶が、背後に立っていた。
手には、抜き身の刀。
「静貴の嘘つき。殺すって言ったのに!」
悲鳴にも似た声が、闇に響き渡る。
月野は唾を飲み込み、真っ直ぐ摩耶を見た。
逃げてばかりはいられない。
「・・・・・・」
「そんな目で、私を見るな! あんたさえいなければ!!」
月に照らされた抜き身の刀は、ため息を漏らすほど美しい。
「殺してやる! 私は、十夜さえいればいいの!」
他に何も望まない。
家族の愛もいらないし、友達もいらない。
唯一、愛する人―――十夜だけを求める。
なのに、あの人は私を見てくれない。
「そんなのは嫌っ! あんたがいなければ、十夜は私を見るわ。そうでしょう?」
純粋な愛は、いつしか本人を蝕む程に、いびつに姿を変えた。
月野は、目を逸らさなかった。
「私は・・・・・・綾織くんが好き」
口にした言葉は、摩耶の叫びより小さい。
けれど、彼女と同じくらい強い思いだと、自信を持って言える。
「やめて・・・・・・。やめて! やめてっ!!」
「ううん、やめない。私は綾織くんが好き。だから、あなたから逃げない」
ヴァンパイアのように強くない自分。
それでも、彼女の前から逃げたくない。
今逃げたら、十夜に気持ちを伝える資格を失ってしまう。
―――自分の足で立つ。
それは、月野の小さくも強い覚悟だった。
誰かを愛した経験はない。
だから、美鶴の気持ちがわからなかった。
でも、今なら何となくわかる。
誰かを愛する気持ち。
温かくて、嬉しくて、少し苦しい。
愛した人は、ヴァンパイア―――。
刀を喉元に突き付けられ、月野はごくりと唾を飲み込む。
摩耶の瞳は、ルビーのように真っ赤。
美しいその瞳に宿るのは、美しいとは言い難い感情の渦。
「・・・・・・摩耶さん」
「私を気安く呼ばないでっ」
刀を持つ手に力が入る。
「綾織くんが、好きですか?」
それは、素直な問いかけだった。
「・・・・・・好きよ。大好き。愛してる」
だから、自分だけを見てほしい。
愛してる、と彼にも言ってほしい。
それは、我が儘?
「私も好きです」
「うるさい」
相手が自分のことをどう思っているかわからない。
だから、気持ちを伝えるのを躊躇った。
それに、十夜は自分と違い過ぎる。
綺麗で、優しくて、頭も良くて、次期当主。
わかりきった未来に夢を見れるほど、自分は子供じゃない。
かと言って、思いを断ち切れるほど、大人でもない。
「うるさいっ、うるさいっ。あんたなんか、死んじゃえばいいのよ!!」
「―――!」
振り下ろされる刀に、月野は目を瞑る。
しかし、いつまでたっても痛みは訪れない。
恐る恐る目を開けてみれば―――。
「離してっ!」
刀を奪おうとする十夜と、それを阻止しようとする摩耶。
「綾織くん・・・・・・」
十夜の瞳も、赤かった。
刀を奪い取った十夜は、月野に歩み寄る。
額に浮かぶ汗と乱れる呼吸が、彼の必死さを伝える。
「綾織くん、あの―――!」
言い終える前に、十夜が無言で月野に口づけた。
「ん・・・・・・!?」
深い口づけは、一瞬で終わり、十夜は力強く月野を抱きしめた。
「よかった、生きてる・・・・・・」
十夜の手は、震えていた。
月野が無事で、ちゃんと生きて、自分の前にいる。
それだけで、こんなにも嬉しい。
「嫌! 嫌嫌嫌!! 私の前で、そんな女と・・・・・・。いやぁ―――!!!」
狂ったような悲鳴は、夜に染まる森に響き渡る。
月野はその叫びに、身を震わせた。
それは、彼女が理性を完全に捨てた瞬間だった。
「月野、ここにいろ」
「でも・・・・・・」
十夜は微笑むと、摩耶に刀を向けた。
もう、迷いはない。
「摩耶。ここでお前を殺す」
それが、自分が彼女に贈れる、せめてもの慈悲と優しさだ。
「嫌・・・・・・いやいや嫌ッ」
流れる涙は、悲しみなのか、怒りなのか、憎しみなのか。
彼女の目に映る世界は、きっと、絶望でできている。
「私を愛してると言って! 私だけを見てるでしょう?」
縋るような願いに、十夜は首を振る。
彼女の前で偽り続けた自分の心。
もう、偽ることはやめたんだ。
十夜は、力強い声で告げる。
「俺は、お前を愛してない」
「違うわ。そんな言葉、聞きたくない! 違う違うっ」
狂った心は、茨の棘を持ちながら、硝子のように脆い。
摩耶は、壊れかかる心で、必死に十夜を見つめた。
「十夜・・・・・・愛してるの。本当よ?」
摩耶が伸ばした手から、十夜は身を引く。
この手を取ることは、もう二度とない。
「・・・・・・あんたさえ・・・・・・あんたさえいなければッ」
「!」
殺意に満ちた目が、月野を捉らえる。
身を硬くする月野に、摩耶が素早く襲いかかった。
「キャア!」
悲鳴を上げたのは、摩耶だった。
十夜は、刀で容赦なく摩耶の腕を切り付けた。
「痛いわ、十夜」
すぐに癒えるが、傷を負えば痛みを感じる。
「十夜が私を攻撃するなんて・・・・・・。その女が、何か十夜に命令してるの? そうよね! 十夜が私を傷つけるはず、ないもの」