彼の心を理解するのは、不可能だ。

受け入れ、この腕に抱きしめても、彼の心は安らぎを得ない。

求めるのは、“今”を“生きている”と感じさせてくれる、刹那の破壊。


あぁ、狂っている―――。


「あ!」


月野を捕まえよう、静貴が手を伸ばす。

逃げようと背を向ければ、遅かった。

白く無垢な手は、狂った男に捕まえられた。


「離してっ」

「君は奇跡だよ。僕達の運命を、こんなにも変えたんだ」


そう、運命は変わった。

月野があの日、電車から下り、この地を踏み締めたあの瞬間から。

運命の輪は、大きく動き出したのだ。


「お願い! 離して!!」


痛む腕から新たな血が流れ伝い、教会の床に落ちる。

ナイフを持つ手が震える。

この手に持った刃なら、彼に再び、癒えぬ傷を負わせることができる。

しかし、また傷つけてしまうという恐怖が、迷いを生む。


奇跡だとかそんなんじゃない。

自分は普通の―――。



紡ぎ出そうとした心の叫びは、扉を開け放つ音に掻き消えた。


「花村、さん・・・・・・?」


涙で潤む視界に映るのは、よく知った顔。

メイド服と乱れぬ髪と、いつも自分を励ましてくれた、優しいお姉さん。


「月野ちゃん!」

「邪魔が入ったか」


静貴の顔から笑みが消え、月野を掴んでいた手が離される。

椿は月野に駆け寄ると、静貴を殺意に満ちた目で睨んだ。

瞳は既に、赤い。


「でも、君なら大歓迎だよ、椿」


再び浮かんだ笑顔は、月野に向けられたものとは違っていた。


「月野ちゃん、ナイフを」

「は、はい」

「・・・・・・悪いんだけど、月野ちゃんの血を刃に塗ってもらえる?」

「え?」


よくわからない願いだが、椿の言う通り、腕から流れる自分の血を、ナイフの刃に塗った。


「ありがとう。さぁ、逃げなさい」

「で、でも・・・・・・」


迷う月野に、椿は笑いかける。


「大丈夫よ」



椿の笑顔は、いつもと何一つ変わらないもの。

月野は胸の苦しさに目を背けて、教会の外へと走り出した。


「―――覚悟はできてる?」

「君と殺し合えるなんて、幸せだよ」


嬉しそうな静貴に反して、椿は真剣そのもの。

ナイフを握る手は、無駄な力を込めない。

獲物から目を逸らさない。

一瞬の油断もするな。


感覚のすべてを研ぎ澄ますこの緊張感。


「・・・・・・」

「君と僕は、“同じ”だよ」


静貴の囁きに耳を傾けながらも、仕留める最大の好機を探る。

命のやり取りは、いつだって彼女を美しくさせた。


「君だって、気づいてるはずだ。自分の中の、破壊と生を求める、狂った性を」

「・・・・・・そうね。確かにあんたは私と同じかもしれない」


椿の目は、静貴の隙を見逃さない。

それが、椿を誘うための罠だったとしても、知りつつ乗るのが、花村 椿という女。


「でも、あんたが私と同じでも、私はあんたと違う!」



ナイフを、心臓目掛けて躊躇いなく突き刺す。

だが、その手を静貴が素早く掴んだ。


「甘いのよ!」


手を掴まれるなんて、予想の範疇だ。

体を回転させて放つ蹴りは、静貴の頭部を見事に直撃した。


「―――!!!」


静貴の体が吹き飛び、ワイングラスが割れた。

燭台が倒れ、蝋燭の炎が広がっていく。


「ふふふ・・・・・・君と心中するのも、良いかもしれないね」


傷はすぐに癒え、静貴は燃え広がる教会を恍惚とした顔で見つめた。


「死ぬならひとりで死になさい」


慈悲の一欠けらさえない、椿の言葉。

静貴は笑いながら、のろのろと立ち上がる。


「こんなにも楽しいなんて、初めてだよ」


今、自分は生きてる。

それを、全身で感じれている。

この瞬間が、永遠に続けばいいのに。


「ゴホッ・・・・・・」


煙りに噎せて、咳が出る。

早目に終わらせないと、自分の身も危ない。



「御託はいい。終わらせましょう」


月野の血を纏ったナイフ。

考えが正しければ、このナイフでヴァンパイアを殺せるはず。


椿は、覚悟を決めた。

刺し違えても、なんて考えは胸に抱かない。

こんな男と燃え上がる教会で死ぬなんて、笑えもしない陳腐な三文芝居だ。


「・・・・・・ふふふ」


赤く染まる互いの瞳。

勝負は一瞬で決めなければ。


―――!!!


懐に飛び込んだのは、ほぼ同時。

ナイフが突き刺さる。


「グホ・・・・・・ッ」


静貴の苦しげな声に、自分の考えは正しかったと知る。

傷は、癒えていない。


(チッ、ズレた。心臓を狙ったのに)


椿の狙いを定めたナイフを、静貴はギリギリで躱した。

さすがと言うべきか。


「今、僕は生きてる・・・・・・」

「―――いいえ。今、あんたは死ぬのよ」


ナイフが刺さったまま、椿から離れる静貴。



その身を染めるのは、炎のような赤い血。


「あ、あはは・・・・・・痛い、痛いっ」


苦痛に歪みながらも、生を実感できる。

今、僕は生きてる―――。


哀れみさえ覚える命の灯火が、消えかかる。


「・・・・・・」

「椿!」


燃え落ちる柱が、頭上から降り注ぐ。


「・・・・・・秦。なんであんたが・・・・・・」


間一髪、秦が椿を引き寄せた。

柱は、静貴と椿を分かつ。


「静貴・・・・・・」


秦の瞳に映った静貴の最後は、狂った男とは思えない程、荘厳さに満ちていた。


「あはは・・・・・・あははっ」


痛みと熱さは、彼の心を満たした。

静貴が、炎に包まれて、見えなくなる。


「椿、出るぞ!」

「・・・・・・えぇ」


振り返っても、見えない。

もう一人の自分。

少し違えば、あの場に立っていたのは、静貴ではなく、自分だったのかもしれない。



奥底に眠るのは、同じ破壊衝動。


(でも、私はあんたと違う)


椿は、自分の手を引く秦の手を、離さぬようしっかりと握りしめた。










「教会が・・・・・・」


燃え上がる教会を、離れた場所から見つめる月野。

椿は大丈夫だろうか?

やはり、様子を見に行くべきでは?


そんな考えを振り払い、月野は痛む腕に視線を落とす。


「・・・・・・!」


嫌な気配に、月野は素早く振り返った。


「摩耶、さん・・・・・・」


闇の中、白いワンピース姿の摩耶が、背後に立っていた。

手には、抜き身の刀。


「静貴の嘘つき。殺すって言ったのに!」


悲鳴にも似た声が、闇に響き渡る。

月野は唾を飲み込み、真っ直ぐ摩耶を見た。


逃げてばかりはいられない。


「・・・・・・」

「そんな目で、私を見るな! あんたさえいなければ!!」



月に照らされた抜き身の刀は、ため息を漏らすほど美しい。


「殺してやる! 私は、十夜さえいればいいの!」


他に何も望まない。

家族の愛もいらないし、友達もいらない。


唯一、愛する人―――十夜だけを求める。

なのに、あの人は私を見てくれない。


「そんなのは嫌っ! あんたがいなければ、十夜は私を見るわ。そうでしょう?」


純粋な愛は、いつしか本人を蝕む程に、いびつに姿を変えた。


月野は、目を逸らさなかった。


「私は・・・・・・綾織くんが好き」


口にした言葉は、摩耶の叫びより小さい。

けれど、彼女と同じくらい強い思いだと、自信を持って言える。


「やめて・・・・・・。やめて! やめてっ!!」

「ううん、やめない。私は綾織くんが好き。だから、あなたから逃げない」


ヴァンパイアのように強くない自分。

それでも、彼女の前から逃げたくない。

今逃げたら、十夜に気持ちを伝える資格を失ってしまう。


―――自分の足で立つ。


それは、月野の小さくも強い覚悟だった。



誰かを愛した経験はない。

だから、美鶴の気持ちがわからなかった。


でも、今なら何となくわかる。

誰かを愛する気持ち。

温かくて、嬉しくて、少し苦しい。

愛した人は、ヴァンパイア―――。





刀を喉元に突き付けられ、月野はごくりと唾を飲み込む。

摩耶の瞳は、ルビーのように真っ赤。

美しいその瞳に宿るのは、美しいとは言い難い感情の渦。


「・・・・・・摩耶さん」

「私を気安く呼ばないでっ」


刀を持つ手に力が入る。


「綾織くんが、好きですか?」


それは、素直な問いかけだった。


「・・・・・・好きよ。大好き。愛してる」


だから、自分だけを見てほしい。

愛してる、と彼にも言ってほしい。

それは、我が儘?


「私も好きです」

「うるさい」


相手が自分のことをどう思っているかわからない。

だから、気持ちを伝えるのを躊躇った。

それに、十夜は自分と違い過ぎる。

綺麗で、優しくて、頭も良くて、次期当主。