十夜が頼み事なんて、初めてじゃないだろうか。
「抱きしめていいか?」
「・・・・・・私を?」
頷く十夜に、月野は一瞬迷ったが、コクリと頷き返した。
「ん・・・・・・」
椅子から立ち上がった月野を、十夜が優しく抱きしめた。
腰と背中に回る手が、徐々に強くなり、ふたりの隙間を埋めていく。
(綾織くんの匂い・・・・・・)
肩に顔を寄せる形で、十夜の香りが鼻を通り抜ける。
「・・・・・・んっ」
十夜が強く抱きしめると、月野は小さく声を上げる。
何も言わない十夜に、月野は戸惑ってしまい、ある言葉を思い出してしまった。
【好きな奴、いる?】
鷹斗に言われた言葉を、何故、今思い出すのか。
月野は頬を赤らめ、目を伏せた。
「ありがとう。行ってくる」
「う、うん」
何事もなかったかのように部屋を出ていく十夜。
心臓が激しく鳴って、月野はしばらく、課題をする気分になれなかった。
綾織本家は、紅玉館と違い純和風。
中庭に見えるのは薔薇ではなく、よく手入れをされた松の木が見え、池には錦鯉。
「お前は、十夜・・・・・・か」
「お久しぶりです、光彦さん」
廊下で出くわしたのは、従兄弟の立花 光彦。
恐らく、光彦は十夜が嫌いだ。
幼い頃から、なんとなく感じていた。
「何故、お前がいるんだ?」
「自分の家に帰ってきて、何の不都合があるんですか?」
十夜の冷たい視線に、光彦はたじろぐ。
いつだって、光彦は虚勢ばかり。
年下の十夜に怯えているくせに。
「坊ちゃん、お帰りですか?」
「秦」
十夜は久しぶりに会う友人に、表情を和らげた。
如月 秦。
十夜より年上で、幼い頃の世話役でもあった彼は、今でもよき友だ。
「お久しぶりです、坊ちゃん」
秦は優しい笑みを浮かべて、十夜に歩み寄る。
「僕は失礼する」
光彦はあからさまに不機嫌な顔で、立ち去っていく。
光彦がいなくなると、十夜は疲れたようなため息を漏らした。
「坊ちゃんが紅玉館へ住みだして、光彦さんは頻繁に本家へ足を運ぶようになりました」
十夜の部屋へ向かいながら、秦は語る。
「あの人は、当主になりたいらしいからな」
「当主への媚も、あからさまで」
秦は苦笑し、襖を開けた。
十夜の部屋は、綺麗に掃除されており、出ていった時と何も変わらない状態だった。
「朧村正」
部屋の奥に置かれた、一本の刀。
綾織家の家宝とも言える名刀・朧村正だ。
「坊ちゃんがいない間も、きちんと手入れをしていますよ」
「そうか・・・・・・」
嬉しそうに刀身を見つめ、十夜は顔を上げた。
「秦。以前、咎堕ちが逃げ出した件だが」
「・・・・・・」
話を切り出すと、秦は苦い顔をした。
「実は、逃がしたのは音無 伊織ではないか、という話が・・・・・・」
「どういうことだ?」
美鶴から聞いていた、伊織が綾織本家へ出入りしている話。
しかし、咎堕ちと関係があると断定するのは早計だと思っていた。
「近頃、伊織さんが出入りしているのですが、場所が―――“檻”なんです」
檻とは、咎堕ちを閉じ込めるための牢だ。
地下牢も存在しており、幾人かの咎堕ちが捕らえてある。
「まさか、中へ入れたのか?」
「いえ、入れてません。ただ、手引をした者がいると」
秦の話を聞いていた十夜は、気配を感じて襖に視線を向けた。
「帰っているのなら、顔を見せたらどうだ?」
「・・・・・・父上」
襖を開け見えたのは、父親の顔だった。
綾織家当主にして、十夜の父・綾織 時臣。
着物を纏い、厳格さを漂わせる時臣は、秦に目配せをする。
「・・・・・・失礼します」
秦は一礼すると、部屋を出ていく。
ふたりになると、十夜は微かに眉間が険しくなる。
昔から、父親が苦手だった。
当主として綾織家をまとめることは尊敬できても、決して父親とは呼べない。
「音無の次男が不審な動きをしていることくらい、わかっている」
十夜の前に腰を下ろし、時臣は淡々と告げる。
「手引した者も、おおよその判断はついている」
「では―――」
「私の懸念は別にある」
時臣が、十夜の言葉を遮った。
「ダンピール―――あの混血児のことだ」
月野の話が出るとは予想外で、十夜は一瞬、目を見開いた。
「お前も知っているだろう。ダンピールは、ヴァンパイアを殺せる。いとも容易くな」
時臣の声が、重くなる。
「あの娘は、災いだ。音無の当主は、運命を変え、ヴァンパイアを救うというが、私には信じられん」
確かに、美鶴の言うダンピールに殺されたヴァンパイアは救われる、というのは伝承でしかない。
しかし、本人の意図しないところで、他者の運命を変えているのも確かだ。
「あの娘の匂いに惹かれ、咎堕ちが生まれてしまったのも事実」
「すべての咎堕ちが、彼女のせいではありません」
十夜の反論に、時臣は怪訝な顔をした。
「お前―――」
「父上。彼女は美鶴さんの孫です。手を出せば、調停の怒りを買うでしょう」
冷ややかな目に、時臣は肩を落とす。
こういう目をした時の十夜に何を言っても無駄だ。
十夜は意思が強い。
それは長所でもあり、時として短所だ。
「しばらくは、居るのだろう?」
「そのつもりです」
「なら、朔に顔を見せてやれ」
時臣は部屋を出ていき、十夜は息をつく。
時臣は、月野に対して好意的な印象を抱いていない。
それが、十夜の胸をざわつかせる。
「坊ちゃん」
「秦、か。ちょうどいい、母上に会いに行く」
十夜は秦を伴って、母屋ではなく離れへと向かった。
十夜の母・朔は、体が弱い。
ヴァンパイアの血が極めて濃く、妻にと娶られたが、体の弱さ故に、母屋ではなく離れで生活をしている。
一族の中には彼女を疎んじる者もいるが、表だって口にしたりはしない。
「母上、十夜です」
「まぁ、十夜! いつ帰って来たのです?」
襖を開けた先には、布団の上で上半身だけ起こした母がいた。
今日も体調が良くないのだろう。
顔色が悪い。
「いらっしゃい」
秦は外で控え、十夜は朔の傍に寄った。
母の香りは、柔らかな桜のようで、懐かしい。
「背が伸びたのではない? それに、また色男に磨きがかかったわ」
「母上・・・・・・」
照れたような顔をする十夜の頬を、優しく撫でる。
(母上、また痩せた・・・・・・?)
浴衣の袖から出る、細く白い母の腕。
十夜は悲しくなったが、心配させまいと微笑みを浮かべた。
「・・・・・・血は飲んでいますか?」
朔の問い掛けに、十夜は目を伏せた。
月野の血を一度飲んだだけで、あれ以来、口にしていない。
「十夜。血を飲まねば死ぬのです。本来の力も出せません。・・・・・・お前の気持ちもわかりますが、私は心配でならないわ」
「・・・・・・申し訳ないです」
「愛理さんから、血をいただいては?」
朔の提案に、十夜は首を振る。
「秦から聞きましたが、紅玉館が襲撃された時、かなり危険だったとか」
「それは・・・・・・」
「その時、血を飲んだのでしょう? 名前は確か―――月野。そう、音無 月野さんね」
朔は微笑み、十夜の手を取った。
朔の手は冷たく、十夜の手も冷たい。
あたためてあげたいけれど、叶わないようだ。
「安心しました。お前が血を飲んだと聞き」
「仕方なくです」
「それでも、飲まぬ時は頑なに飲まぬお前です。その子は、十夜の特別ですか?」
朔の目を見れば、濁りがない。
母は昔から、清らかな人だった。
それが眩しくもあり、安らぎでもあり、十夜は母が大好きだった。
朔の前で、嘘はつけない。
「―――はい」
「良い子ですか?」
「はい。俺は、彼女の前で浦部を殺しました」
朔は浦部を知らないが、黙って十夜の話を聞いていた。
「血で汚れた俺の手。こんな手で彼女を触りたくない。でも、彼女は俺の手を握ってくれた」
「とても大切な子なのですね。是非、会ってみたいわ」
「・・・・・・」
朔の言葉に、十夜は俯く。
「どうしました?」
「俺は、綾織家の次期当主だから」
月野をどれ程愛したとしても、父親が認めるはずがない。
かといって、月野の父親のように家を捨てる覚悟もない。
「十夜」
朔が、十夜を自分の膝の上に横たわらせる。
髪を撫でられると、幼い頃に戻ったような気持ちになる。