たたき落とされた手が、ヒリヒリと痛む。


「大丈夫かい?」


目の前に差し出されたのは、男の人の手。

月野が顔を上げれば、中性的な男性が立っていた。


「あ、大丈夫です」


月野は男性の手を借りず、立ち上がる。

幼い頃から、母に言われてきた。

【人の手ばかり借りていては駄目。自分の足で立ちなさい】

母は、精神的なことを言っていたのだろうが。


「母が失礼なことをしたね。代わりに謝るよ」

「母?」

「さっきの女性だよ。僕の母で、君の叔母にあたるのかな」


では、先程の女性が梨瀬なのだろう。

十夜の言っていた通り、華やかで蝶のような人だった。


「僕は音無 静貴。君の従兄弟だよ、月野ちゃん」

「私の名前・・・・・・」

「今、君の存在は有名だよ。知らない者など、いないほどに」


それは、月野がダンピールだから。

俯く月野に、静貴が穏やかな声をかける。



「手は大丈夫? かなり大きな音がしていたし、痛むんじゃないかな?」


そう言って、静貴は月野の手を取った。


「あぁ、赤くなってる」


まるで、自分のことのように心配してくれる静貴に、月野は頬を赤らめてしまう。


「綺麗な白い手なのに。・・・・・・可哀相に」


―――チュッ。


赤くなった手の甲に、静貴が慣れた仕草でキスを落とす。


「な、何・・・・・・」


驚いた月野が、咄嗟に手を引っ込めた。


「あぁ、ごめんね。いきなりこんなことをしたら、驚くよね」

「い、いえ・・・・・・」


キスされた手の甲が熱くて、月野は戸惑う。

この人からは、今のところ恐怖は感じない。


「何日かはここに泊まるから、その間に是非とも、仲良くなりたいな」

「は、はぁ」


何と言えばいいのか。

優しいその笑顔と雰囲気に、たらしこまれそう。



「月野」


聞き慣れた声に名前を呼ばれて、月野は振り返る。


「やぁ、十夜くん。久しぶりだね」

「お久しぶりです」


静貴と義務的な握手を交わすと、十夜は月野の手を握る。


「失礼します」

「あぁ。月野ちゃん、いつでも部屋に遊びにおいで」


笑顔で手を振る静貴に、月野は小さく会釈を返した。





部屋に連れていかれ、月野は十夜が怒っているような気がして、声をかけれずにいた。


「手は大丈夫なのか」

「あ、うん。大丈夫」


もう痛みは引いている。

少し赤い気もするが、直に赤みも引くだろう。


「・・・・・・なら、いい」


十夜が部屋を出ていくと、月野はやっぱり怒っているのだと、うなだれた。





「十夜、暇なら洗い物手伝ってくれない?」


キッチンに入ったところで、椿に仕事を与えられてしまった。



無言で洗剤を手に取る十夜を、椿が不思議そうに見つめる。


「何、機嫌悪いわね? 月野ちゃんと喧嘩でもしたの?」

「そんなんじゃない」


喧嘩などしていない。

ただ、胸の中が得体の知れない感情で掻き混ぜられて、苛立たしいだけだ。


静貴はフェミニストだ。

手の甲にキスするのだって、彼からすれば特に騒ぎ立てる程のことでもない。


「部屋に戻る」

「ちょっと!」


洗い物の半分も終えぬまま、十夜はキッチンを出ていく。


「もうっ! こっちはただでさえ、あの傲慢我が儘女に苛立ってる、っていうのに!」


椿は割りそうな勢いで、溜まった洗い物を片付けていった。










美鶴の自室を訪れたのは、梨瀬とその弟―――伊織。

美鶴は寝間着姿で、ハーブティーを飲んでいた。


「椿、お前は下がって」

「・・・・・・失礼致します」


梨瀬の言葉に、一瞬だけ眉間に皺を寄せて、椿は部屋を出た。



「こんな時間に、何の用です?」


カップを置き、美鶴はふたりを見ずに問う。


「あの娘、ダンピールのことですわ、お母様」


美鶴に歩み寄り、梨瀬は怒りにも似た視線を向ける。


「あんな娘を屋敷に入れるなんて、気が知れません! お兄様は音無を捨てたというのに、その娘を呼ぶだなんて」


激昂する梨瀬を、美鶴は落ち着いた目で見つめ返す。


「お前には関係のないことです」

「私は嫌です! あの娘は、あの汚らしい人間の女の子ですよっ?」


梨瀬の綺麗な顔が、怒りと嫉妬で歪む。


「姉さんは、兄さんが大好きだからなぁ」

「伊織は黙っていなさい!」


怒鳴られて、伊織は肩を落とす。


「お母様。まさかとは思いますが、あの娘を当主にさせようなど、思っていませんわよね?」

「それはないわ。私が亡くなった後、あの子を慧の元へ送るよう、小野瀬達に指示している」



美鶴の返答に、ひとまず梨瀬は落ち着いた。

まだ決まったことではないが、次の音無の当主の有力候補は、梨瀬の息子、静貴なのだ。


「でも、ダンピールって危険な存在だよな」


伊織が薔薇の香りを楽しみながら、ふいに呟く。


「あの子がその気になれば、俺達を殺せるんだから」


脳天を貫かれたって、簡単には死なない。

それがダンピールではなく、普通の人間によるものであれば。


「・・・・・・」

「月野に手を出せば、お前達の命は無いものと思いなさい」


美鶴の冷酷な言葉に、梨瀬は唇を噛む。


「用は済んだのでしょう? ならば、出ていきなさい」

「・・・・・・失礼しますわ」

「おやすみ、母さん」


ふたりが出ていくと、美鶴は疲れたようにため息を漏らした。

梨瀬はわかりやすい性格だから、動き出せばすぐにわかる。

厄介なのは伊織だ。

あれは昔から、兄―――慧の言うことしか聞かなかった。



何を仕出かすか、予想するのが難しい。


「ふぅ・・・・・・。慧、お前がいれば―――いいえ、仮定の未来など、口にするだけ無意味ね」


美鶴は席を立ち、暗闇で咲き誇る薔薇達を、見つめ続けた。










「おはよう、月野ちゃん」

「・・・・・・おはようございます」


玄関で、静貴と出くわした。

月野が軽く頭を下げると、静貴は苦笑する。


「警戒してる? 安心していいよ。何もしないから」

「はぁ」


水色のセーターと白のパンツ姿は、実に爽やかだ。


「制服かぁ、懐かしいな」

「同じ高校なんですか?」

「そうだよ。紅玉館には住んでなかったけど」


懐かしそうに制服を見つめる静貴が、視線を感じて振り返る。


「おはよう、十夜くん」

「おはようございます」


心なしか、十夜の声が冷たい。

月野は十夜と目が合い、緊張した面持ちでいた。



(まだ怒ってる?)


黙って部屋を出たのは悪いけど、そこまで怒らなくても。

十夜の真意などわからず、月野は勝手にそう思っていた。


「行くぞ、月野」

「あ、うん」


いってらっしゃいと見送る静貴に頭を下げて、月野は先を行く十夜を追いかけた。


「あら、静貴様。お早いですこと」

「相変わらずみたいだね、椿さんは」


棘のある言葉を向けられても、静貴は笑顔を崩さない。


「ちょうどいいわ。梨瀬様を起こしてきてくださる? 私は、朝から梨瀬様の顔を見たくないので」

「わかったよ。あぁ、そうだ。月野ちゃんの部屋って、2階だよね?」


椿が訝しげな視線を向ける。


「女の子の部屋に勝手に入るほど、常識はずれではないつもりだよ?」

「・・・・・・えぇ、2階ですわ。ちなみに、すぐ隣が十夜の部屋です」


椿は答えると、急ぎ足でダイニングルームへと向かった。



「へぇ、十夜くんが隣の部屋か」


興味深そうに、静貴は2階へ続く階段を見つめた。










昼休みになると、決まって鷹斗と愛理が昼食に誘いに来る。


「梨瀬さんが来たのか。俺、あの人苦手なんだよな」


鷹斗はペットボトルの炭酸を飲みながら、苦笑いを浮かべる。


「そう? 私は憧れるわ。品位も知性もあって、ヴァンパイアとしての誇りも持ち合わせてる」


愛理の言葉に、月野は昨日の出来事を思い出す。


【触らないでっ。汚らわしい!】


あれは、ヴァンパイアの誇りがあるからこそ出た言葉なのだろうか?


「月野ちゃん、暗いね? 慰めてあげようか?」

「・・・・・・いらない」


月野はため息を漏らし、鷹斗から視線を外す。


「じゃあ、月野ちゃんが興味を抱くような話をしようかな」

「・・・・・・?」


何故か月野との距離を詰める鷹斗に、十夜が眉間に皺を寄せた。