紅玉館に帰ると、椿が体を洗って綺麗にしろと言い、月野をバスルームへ押し込んだ。
言われた通り体を隅々まで洗った月野は、何度も何度も、うがいを繰り返していた。
「初めてのキスが、あれだなんて・・・・・・」
救いは、相手が美少年だったことだ。
それでも、気持ち悪いことに変わりはないが。
「はぁ・・・・・・」
鏡に映る自分の姿を見つめ、月野はため息を漏らす。
襲われたことより、今は十夜のことが気になる。
赤く染まった瞳と、桜太を殺してしまいそうな勢い。
月野の知る十夜じゃなかった。
(怖い、って思った)
浦部や桜太に抱いた恐怖とは、違う恐怖。
あれが、ヴァンパイアの十夜なのだろうか?
「月野ちゃん?」
「あ、今出ます」
椿に呼ばれ、月野は慌てて外へ出た。
「紅茶飲んで、落ち着いてね」
部屋まで月野を送ると、椿は熱い紅茶を入れて、部屋を出ていった。
「・・・・・・美味しい」
また襲われた。
どうして、こんなにも狙われるんだろうか?
(・・・・・・キスって、あんなにも気持ち悪いものなのかしら?)
自分の唇に触れ、月野は思い出す。
浦部に触られた時も、今回も、嫌悪と不快しか抱かなかった。
「・・・・・・」
―――コンコン。
小さなノックの音に、月野はハッとして顔を上げた。
「・・・・・・俺だ」
「綾織くん?」
先程の十夜が脳裏に浮かび、月野は知らず体が強張る。
「入っても、いいか?」
「・・・・・・うん」
大丈夫。
十夜は十夜だ。
月野は紅茶を置いて、立ち上がった。
「寝てなくていいのか?」
「平気。怪我とかしたわけじゃないから」
赤くなった手首を隠し、月野は笑顔を返す。
「・・・・・・」
「・・・・・・す、座る?」
ばつが悪いとでも言うのか。
そんな表情の十夜を、月野はベッドに座らせた。
「月野、隣に」
「あ、うん」
隣に座ると、十夜が月野の手を掴み、眉間に皺を寄せた。
「痛むか?」
「ちょっと・・・・・・」
縄で擦れて、皮が剥けている部分もあるが、我慢できない程じゃない。
「守るって言ったのにな」
「守ってくれたでしょ? 私、血吸われなかったし」
月野の言葉に、十夜は視線を逸らす。
「気にしないで。私、大丈夫だから」
十夜が悪いわけじゃない。
そう言っても、十夜は自分自身を許せないのだろう。
「綾織くん」
月野が、十夜の手を握り締める。
「私、綾織くんを怖いと思った」
血のように赤い目で、桜太の首を絞めた十夜。
「私を助けてくれたのに、怖いと思ったの」
「それが普通の反応だ」
手を離そうとする十夜を、月野は力いっぱい握り締めて、逃がさない。
「ヴァンパイアとか、そういうのは、まだ良くわからない。でも、綾織くんは綾織くんだもの」
「月野・・・・・・」
「助けてくれて、ありがとう」
そう、言わなきゃいけないのは、この一言。
怖いとか、そういうのは後回しだ。
「・・・・・・月野。あいつに、何もされなかったか?」
シャツを切られ、素肌を晒されたあの状況。
何かされたと考える方が、自然だ。
「何も・・・・・・あ」
「何かされたのか?」
言い淀む月野に、十夜が顔を近づける。
「えっと、その・・・・・・キス、された、かな」
視線を泳がせて、月野は自分の口元を隠す。
「キス?」
「まぁ、大したことじゃないよね」
傷も残らないし、うがいをたくさんしたから。
「キス、されたのか?」
「う、うん」
そんなに何度も聞かないで。
やっぱり女の子だし、初めてのキスがあんな形で終わったのは、ちょっと不本意だけど。
キスだけで済んだんだ。
それを喜ばないと。
「・・・・・・」
「・・・・・・月野」
「何? ―――あ」
顔を向けた瞬間、十夜と唇が重なっていた。
形の良い十夜の唇と、自分の唇が触れている。
「!!!」
驚きすぎて、声も出ない。
目も開けたままで、間近にある十夜の顔が、よく見える。
長い睫毛に、きめ細やかな肌。
「目、閉じて」
「ん・・・・・・」
言われるがまま、月野は目を閉じた。
十夜がぺろっと唇を軽く舐めるから、月野は驚いて口を開けてしまった。
(やだ、変な感じ・・・・・・)
口腔内に入って来る、十夜の舌。
ゾクリとした感覚が背筋を伝い、肌が震えた。
「ん・・・・・・んっ」
頬を赤らめて、月野の手が宙をさ迷う。
その手を、十夜が優しく握り締めた。
(なんだろう? 気持ち悪くなくて・・・・・・)
慣れないキスに戸惑う月野を気遣い、十夜は、時折息を吸わせながら、キスを繰り返した。
「・・・・・・はぁ」
唇を離すと、月野は焦点の定まらない目で、十夜を見つめた。
微かに潤む瞳が、艶っぽい。
「なんで・・・・・・」
「消毒だ」
消毒?
何の??
聞き返そうにも、なんだか頭がうまく働かない。
「月野、もう眠った方がいい」
「でも・・・・・・」
「眠るまで、傍にいてやるから」
ベッドに横たわらせ、十夜は月野の髪を撫でる。
手首の傷が痛々しくて、十夜はそっとキスを落とす。
ヴァンパイアなら、こんな傷、すぐに癒えるのに。
「・・・・・・」
小さな寝息が聞こえて、十夜は安堵の息をつく。
「月野、おやすみ。いい夢を」
彼女の唇にキスをして、十夜は立ち上がる。
紅茶の残るカップを手にして、部屋の明かりを消した。
キッチンにいた椿に、十夜はカップを渡す。
「月野ちゃんは?」
「眠った」
「そう。明日は、念のため学校を休ませるように、って美鶴様が」
カップを洗いながら、椿が告げる。
「わかった」
「それにしても、十夜があんなにも怒るの、初めて見たわ」
洗い物をすべて終えて、椿は濡れた手を拭く。
「俺にも、よくわからない」
「いいじゃない。お姫様を守る騎士みたいで、素敵よ?」
どこが素敵なのか、十夜には全然わからない。
「あの子供の処分は、どうなる?」
「本家が香堂だから、香堂側が判断するそうよ」
「そうか」
椿はエプロンを外し、結っていた髪を下ろす。
「そういえば十夜、あんた最近、血飲んでる?」
「・・・・・・いや」
「気をつけなさい。あんまり我慢し続けて、月野ちゃんを襲いでもしたら、笑えもしないわ」
椿の警告に、十夜は小さく頷く。
「あ、言い忘れてた。近々、集まるわよ。音無家が」
「いつだ?」
「5月頃とは聞いたけど、詳しい日程はまだよ。多分、月野ちゃん関係の話でしょ? あぁ、嫌だ」
椿はそう言いながら、キッチンを出ていった。
(音無家が集まる。月野に何もなければいいが・・・・・・)
十夜はキッチンの明かりを消して、自分の部屋へ戻ることにした。
―――ピピピッ
(朝? 起きなきゃ・・・・・・)
目覚まし時計の鳴る音が頭に響いて、月野はうっすらと目を開けた。
―――ピピ・・・・・・ッ
「・・・・・・?」
うるさかった目覚まし時計が、見つける前に静かになった。
月野は少しだけ頭を動かして、目覚まし時計がある場所を見た。
「綾織、くん?」
制服をきちんと着た十夜が、目覚まし時計のスイッチを切ったらしい。
「あ、学校・・・・・・」
「今日は休んでろ。美鶴さんも、そう言ってる」
「でも、具合が悪いわけじゃないし」
ずる休みは良くないと、体を起こそうとする月野。
そんな月野を、十夜が優しくベッドに横たえる。
「・・・・・・っ」
近くなる顔の距離に、月野は思わず顔を背けた。
昨夜のキスがありありと浮かんで、十夜の顔を直視できない。