空気が変わった、ような気がした。

凍るような、それでいて焼くような、鋭い空気。


「何をしている、と聞いている」

(綾織くん? 目が・・・・・・)


十夜の目が赤い。

血のように、ルビーのように。


「月野から離れろ。触るな、触るなっ」


一瞬のうちに間合いを詰め、十夜が桜太の首を掴んだ。


「う・・・・・・あ・・・・・・お、姉さん・・・・・・」

「!」


苦しげな桜太の声に、月野は我に返る。


「やめて! 死んじゃう!」

「!」


月野の声を聞き、十夜の手から力が抜けた。


「ゲホッ・・・・・・!」


咳込む桜太を、十夜は黙って見下ろす。

瞳はもう、赤くない。


「月野ちゃん、大丈夫?」


少し遅れて、椿が部屋へやって来た。


「花村さん・・・・・・」

「・・・・・・ひどい格好」


椿は縄を解き、月野の素肌を隠そうとする。



「・・・・・・」


十夜が黙って、自分の上着を差し出す。


「ありがと。十夜、あんたは後から来なさい。今のあんたを、月野ちゃんの傍にはいさせられない」

「・・・・・・あぁ」


月野に上着を着せて、椿は部屋を出る。

部屋を出たところに、小野瀬がいて、月野の体を軽々と抱き上げ、外に止めた車まで、運んでくれた。


「俺・・・・・・」


十夜は、気を失った桜太を見て、自分の手の平を見た。

まだ、うっすらと月野が爪で引っかいた傷が残っている。


月野を守ると言いながら、なんだ、この有様は。


桜太に襲われる月野の姿を見た瞬間、感情の波が押し寄せてきて、止められなかった。

こんな失態、ありえない。


「俺は、どうしたんだ・・・・・・?」


感情を抑え切れない、初めての感覚に、十夜は戸惑っていた。



紅玉館に帰ると、椿が体を洗って綺麗にしろと言い、月野をバスルームへ押し込んだ。

言われた通り体を隅々まで洗った月野は、何度も何度も、うがいを繰り返していた。


「初めてのキスが、あれだなんて・・・・・・」


救いは、相手が美少年だったことだ。

それでも、気持ち悪いことに変わりはないが。


「はぁ・・・・・・」


鏡に映る自分の姿を見つめ、月野はため息を漏らす。


襲われたことより、今は十夜のことが気になる。

赤く染まった瞳と、桜太を殺してしまいそうな勢い。

月野の知る十夜じゃなかった。


(怖い、って思った)


浦部や桜太に抱いた恐怖とは、違う恐怖。

あれが、ヴァンパイアの十夜なのだろうか?


「月野ちゃん?」

「あ、今出ます」


椿に呼ばれ、月野は慌てて外へ出た。


「紅茶飲んで、落ち着いてね」



部屋まで月野を送ると、椿は熱い紅茶を入れて、部屋を出ていった。


「・・・・・・美味しい」


また襲われた。

どうして、こんなにも狙われるんだろうか?


(・・・・・・キスって、あんなにも気持ち悪いものなのかしら?)


自分の唇に触れ、月野は思い出す。

浦部に触られた時も、今回も、嫌悪と不快しか抱かなかった。


「・・・・・・」


―――コンコン。


小さなノックの音に、月野はハッとして顔を上げた。


「・・・・・・俺だ」

「綾織くん?」


先程の十夜が脳裏に浮かび、月野は知らず体が強張る。


「入っても、いいか?」

「・・・・・・うん」


大丈夫。

十夜は十夜だ。


月野は紅茶を置いて、立ち上がった。


「寝てなくていいのか?」

「平気。怪我とかしたわけじゃないから」



赤くなった手首を隠し、月野は笑顔を返す。


「・・・・・・」

「・・・・・・す、座る?」


ばつが悪いとでも言うのか。

そんな表情の十夜を、月野はベッドに座らせた。


「月野、隣に」

「あ、うん」


隣に座ると、十夜が月野の手を掴み、眉間に皺を寄せた。


「痛むか?」

「ちょっと・・・・・・」


縄で擦れて、皮が剥けている部分もあるが、我慢できない程じゃない。


「守るって言ったのにな」

「守ってくれたでしょ? 私、血吸われなかったし」


月野の言葉に、十夜は視線を逸らす。


「気にしないで。私、大丈夫だから」


十夜が悪いわけじゃない。

そう言っても、十夜は自分自身を許せないのだろう。


「綾織くん」


月野が、十夜の手を握り締める。


「私、綾織くんを怖いと思った」



血のように赤い目で、桜太の首を絞めた十夜。


「私を助けてくれたのに、怖いと思ったの」

「それが普通の反応だ」


手を離そうとする十夜を、月野は力いっぱい握り締めて、逃がさない。


「ヴァンパイアとか、そういうのは、まだ良くわからない。でも、綾織くんは綾織くんだもの」

「月野・・・・・・」

「助けてくれて、ありがとう」


そう、言わなきゃいけないのは、この一言。

怖いとか、そういうのは後回しだ。


「・・・・・・月野。あいつに、何もされなかったか?」


シャツを切られ、素肌を晒されたあの状況。

何かされたと考える方が、自然だ。


「何も・・・・・・あ」

「何かされたのか?」


言い淀む月野に、十夜が顔を近づける。


「えっと、その・・・・・・キス、された、かな」


視線を泳がせて、月野は自分の口元を隠す。



「キス?」

「まぁ、大したことじゃないよね」


傷も残らないし、うがいをたくさんしたから。


「キス、されたのか?」

「う、うん」


そんなに何度も聞かないで。

やっぱり女の子だし、初めてのキスがあんな形で終わったのは、ちょっと不本意だけど。

キスだけで済んだんだ。

それを喜ばないと。


「・・・・・・」

「・・・・・・月野」

「何? ―――あ」


顔を向けた瞬間、十夜と唇が重なっていた。

形の良い十夜の唇と、自分の唇が触れている。


「!!!」


驚きすぎて、声も出ない。

目も開けたままで、間近にある十夜の顔が、よく見える。

長い睫毛に、きめ細やかな肌。


「目、閉じて」

「ん・・・・・・」


言われるがまま、月野は目を閉じた。

十夜がぺろっと唇を軽く舐めるから、月野は驚いて口を開けてしまった。



(やだ、変な感じ・・・・・・)


口腔内に入って来る、十夜の舌。

ゾクリとした感覚が背筋を伝い、肌が震えた。


「ん・・・・・・んっ」


頬を赤らめて、月野の手が宙をさ迷う。

その手を、十夜が優しく握り締めた。


(なんだろう? 気持ち悪くなくて・・・・・・)


慣れないキスに戸惑う月野を気遣い、十夜は、時折息を吸わせながら、キスを繰り返した。


「・・・・・・はぁ」


唇を離すと、月野は焦点の定まらない目で、十夜を見つめた。

微かに潤む瞳が、艶っぽい。


「なんで・・・・・・」

「消毒だ」


消毒?

何の??


聞き返そうにも、なんだか頭がうまく働かない。


「月野、もう眠った方がいい」

「でも・・・・・・」

「眠るまで、傍にいてやるから」


ベッドに横たわらせ、十夜は月野の髪を撫でる。



手首の傷が痛々しくて、十夜はそっとキスを落とす。

ヴァンパイアなら、こんな傷、すぐに癒えるのに。


「・・・・・・」


小さな寝息が聞こえて、十夜は安堵の息をつく。


「月野、おやすみ。いい夢を」


彼女の唇にキスをして、十夜は立ち上がる。

紅茶の残るカップを手にして、部屋の明かりを消した。










キッチンにいた椿に、十夜はカップを渡す。


「月野ちゃんは?」

「眠った」

「そう。明日は、念のため学校を休ませるように、って美鶴様が」


カップを洗いながら、椿が告げる。


「わかった」

「それにしても、十夜があんなにも怒るの、初めて見たわ」


洗い物をすべて終えて、椿は濡れた手を拭く。


「俺にも、よくわからない」

「いいじゃない。お姫様を守る騎士みたいで、素敵よ?」