舌も切ったらしく、口の中に血の味が広がる。
「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・」
「桜太、くん?」
呼吸の荒くなる桜太に、月野が恐る恐る声をかける。
―――ゴクリ。
離れていても聞こえた、桜太の唾を飲む音。
瞳から、理性が消えている。
「あ・・・・・・」
「お姉さん、ちょうだい」
首筋に、桜太が顔を埋める。
軽く歯で噛むのは、まるでどこから血を吸おうか、品定めしているようで。
月野の呼吸が、恐怖で早くなる。
(やだ、やだっ。綾織くん! 綾織くん!!)
牙が、見えた。
尖った、血を吸うための牙が。
「あ、綾織くん!!」
叫んだ瞬間、勢いよく開け放たれた扉。
息を切らせ、乱れた制服姿の十夜。
「何をしている、お前」
ベッドに縛り付けられた月野と、そんな彼女に覆いかぶさる桜太。
空気が変わった、ような気がした。
凍るような、それでいて焼くような、鋭い空気。
「何をしている、と聞いている」
(綾織くん? 目が・・・・・・)
十夜の目が赤い。
血のように、ルビーのように。
「月野から離れろ。触るな、触るなっ」
一瞬のうちに間合いを詰め、十夜が桜太の首を掴んだ。
「う・・・・・・あ・・・・・・お、姉さん・・・・・・」
「!」
苦しげな桜太の声に、月野は我に返る。
「やめて! 死んじゃう!」
「!」
月野の声を聞き、十夜の手から力が抜けた。
「ゲホッ・・・・・・!」
咳込む桜太を、十夜は黙って見下ろす。
瞳はもう、赤くない。
「月野ちゃん、大丈夫?」
少し遅れて、椿が部屋へやって来た。
「花村さん・・・・・・」
「・・・・・・ひどい格好」
椿は縄を解き、月野の素肌を隠そうとする。
「・・・・・・」
十夜が黙って、自分の上着を差し出す。
「ありがと。十夜、あんたは後から来なさい。今のあんたを、月野ちゃんの傍にはいさせられない」
「・・・・・・あぁ」
月野に上着を着せて、椿は部屋を出る。
部屋を出たところに、小野瀬がいて、月野の体を軽々と抱き上げ、外に止めた車まで、運んでくれた。
「俺・・・・・・」
十夜は、気を失った桜太を見て、自分の手の平を見た。
まだ、うっすらと月野が爪で引っかいた傷が残っている。
月野を守ると言いながら、なんだ、この有様は。
桜太に襲われる月野の姿を見た瞬間、感情の波が押し寄せてきて、止められなかった。
こんな失態、ありえない。
「俺は、どうしたんだ・・・・・・?」
感情を抑え切れない、初めての感覚に、十夜は戸惑っていた。
紅玉館に帰ると、椿が体を洗って綺麗にしろと言い、月野をバスルームへ押し込んだ。
言われた通り体を隅々まで洗った月野は、何度も何度も、うがいを繰り返していた。
「初めてのキスが、あれだなんて・・・・・・」
救いは、相手が美少年だったことだ。
それでも、気持ち悪いことに変わりはないが。
「はぁ・・・・・・」
鏡に映る自分の姿を見つめ、月野はため息を漏らす。
襲われたことより、今は十夜のことが気になる。
赤く染まった瞳と、桜太を殺してしまいそうな勢い。
月野の知る十夜じゃなかった。
(怖い、って思った)
浦部や桜太に抱いた恐怖とは、違う恐怖。
あれが、ヴァンパイアの十夜なのだろうか?
「月野ちゃん?」
「あ、今出ます」
椿に呼ばれ、月野は慌てて外へ出た。
「紅茶飲んで、落ち着いてね」
部屋まで月野を送ると、椿は熱い紅茶を入れて、部屋を出ていった。
「・・・・・・美味しい」
また襲われた。
どうして、こんなにも狙われるんだろうか?
(・・・・・・キスって、あんなにも気持ち悪いものなのかしら?)
自分の唇に触れ、月野は思い出す。
浦部に触られた時も、今回も、嫌悪と不快しか抱かなかった。
「・・・・・・」
―――コンコン。
小さなノックの音に、月野はハッとして顔を上げた。
「・・・・・・俺だ」
「綾織くん?」
先程の十夜が脳裏に浮かび、月野は知らず体が強張る。
「入っても、いいか?」
「・・・・・・うん」
大丈夫。
十夜は十夜だ。
月野は紅茶を置いて、立ち上がった。
「寝てなくていいのか?」
「平気。怪我とかしたわけじゃないから」
赤くなった手首を隠し、月野は笑顔を返す。
「・・・・・・」
「・・・・・・す、座る?」
ばつが悪いとでも言うのか。
そんな表情の十夜を、月野はベッドに座らせた。
「月野、隣に」
「あ、うん」
隣に座ると、十夜が月野の手を掴み、眉間に皺を寄せた。
「痛むか?」
「ちょっと・・・・・・」
縄で擦れて、皮が剥けている部分もあるが、我慢できない程じゃない。
「守るって言ったのにな」
「守ってくれたでしょ? 私、血吸われなかったし」
月野の言葉に、十夜は視線を逸らす。
「気にしないで。私、大丈夫だから」
十夜が悪いわけじゃない。
そう言っても、十夜は自分自身を許せないのだろう。
「綾織くん」
月野が、十夜の手を握り締める。
「私、綾織くんを怖いと思った」
血のように赤い目で、桜太の首を絞めた十夜。
「私を助けてくれたのに、怖いと思ったの」
「それが普通の反応だ」
手を離そうとする十夜を、月野は力いっぱい握り締めて、逃がさない。
「ヴァンパイアとか、そういうのは、まだ良くわからない。でも、綾織くんは綾織くんだもの」
「月野・・・・・・」
「助けてくれて、ありがとう」
そう、言わなきゃいけないのは、この一言。
怖いとか、そういうのは後回しだ。
「・・・・・・月野。あいつに、何もされなかったか?」
シャツを切られ、素肌を晒されたあの状況。
何かされたと考える方が、自然だ。
「何も・・・・・・あ」
「何かされたのか?」
言い淀む月野に、十夜が顔を近づける。
「えっと、その・・・・・・キス、された、かな」
視線を泳がせて、月野は自分の口元を隠す。
「キス?」
「まぁ、大したことじゃないよね」
傷も残らないし、うがいをたくさんしたから。
「キス、されたのか?」
「う、うん」
そんなに何度も聞かないで。
やっぱり女の子だし、初めてのキスがあんな形で終わったのは、ちょっと不本意だけど。
キスだけで済んだんだ。
それを喜ばないと。
「・・・・・・」
「・・・・・・月野」
「何? ―――あ」
顔を向けた瞬間、十夜と唇が重なっていた。
形の良い十夜の唇と、自分の唇が触れている。
「!!!」
驚きすぎて、声も出ない。
目も開けたままで、間近にある十夜の顔が、よく見える。
長い睫毛に、きめ細やかな肌。
「目、閉じて」
「ん・・・・・・」
言われるがまま、月野は目を閉じた。
十夜がぺろっと唇を軽く舐めるから、月野は驚いて口を開けてしまった。
(やだ、変な感じ・・・・・・)
口腔内に入って来る、十夜の舌。
ゾクリとした感覚が背筋を伝い、肌が震えた。
「ん・・・・・・んっ」
頬を赤らめて、月野の手が宙をさ迷う。
その手を、十夜が優しく握り締めた。
(なんだろう? 気持ち悪くなくて・・・・・・)
慣れないキスに戸惑う月野を気遣い、十夜は、時折息を吸わせながら、キスを繰り返した。
「・・・・・・はぁ」
唇を離すと、月野は焦点の定まらない目で、十夜を見つめた。
微かに潤む瞳が、艶っぽい。
「なんで・・・・・・」
「消毒だ」
消毒?
何の??
聞き返そうにも、なんだか頭がうまく働かない。
「月野、もう眠った方がいい」
「でも・・・・・・」
「眠るまで、傍にいてやるから」
ベッドに横たわらせ、十夜は月野の髪を撫でる。