観客の大きな声が響いた。
僕の目には彼のミットに入ったボール。
次の瞬間、彼はマスクを外した後頭部から壁に激突した。
倒れこんだ後もボールはこぼれ落ちなかった。
誰もが息を飲んだ。
あんなにうるさかった甲子園が静まり返った。
蝉の声と太陽の照り付ける音だけが聞こえている。
頭に一気に血がのぼって、息苦しくなった。
立ちくらみが起きそうになった時、甲子園に嵐のような歓声があがった。
彼が立ち上がったのだ。
審判に肩を支えられながらも観客に笑顔で手を振り、彼はベンチに戻った。
彼は助かり、僕たちの夏は終わった。
野バトの静かな鳴き声で僕は目を覚ました。
リアルな夢に、現実に戻るのが遅れた。
机の上の写真からは僕たちの笑い声が聞こえてくるようだった。
窓を開けると、少しだけ肌寒い風が金木犀の香りを運んできて
…涙がこぼれた。
大声で泣きたかった。
勇気がない僕は、やり残していることがある。
いつでも、今すぐにでもそれは出来るのに、やっぱり出来ないでもう10回もこうしてキンモクセイの朝を迎えている。
記憶は日常の中で薄れたり強まったり、僕の心を揺さぶる。
彼女… あの小学校で会った彼女は、僕をあの夏に引きずり戻し、いつも淋しそうに微笑んでいる。
彼女の名前は北原みな。
そうだ。
彼のとても愛していた人。
彼女が僕を知らないはずはない。
彼女が最も憎むべき相手は
この僕なのだから。
ある日の夕方、僕はあの小学校を訪れた。
彼女に会って話したいことがある。
もう子供たちはほとんどいなくて、薄暗い校庭で三人の女の子が鉄棒に掴みなから大きなタイヤに乗ってしゃべっていた。
あのくらいの女の子が三人もそろえばうるさく騒いでもおかしくないのに、ゆっくりゆっくりタイヤを揺らして、ずっとしゃべっていた。
黄昏に揺れる校庭は、また僕の胸を痛くした。
きゅ、と潰れそうになった時に彼女が三人の女の子たちに声をかけた。
子供たちは僕の横を抜けて散らばるように消えて行った。
「…こんばんわ。」
話しかけられた僕の目は彼女から視線を離すことができない。
胸の痛みは黄昏のせいだろうか、それとも…!
「北原みな…さん…でしたよね?」
薄暗くなりつつある住宅街の道を、ぽつりぽつりと歩きながら僕たちは話した。
「…ええ。初めは私もわからなくて…」
「わからなくて…。
わかった時、僕への怒りも思い出しました?僕を…殺したいと…?」
彼女から言われるのが怖くて僕はそう口にした。
きっと誰よりも自分が自分を責めたから、誰かに…いや、最も彼女に否定して欲しかった。
「もう…今はそんな気持ち、ありません。いえ、なくなっていたはずなんです」
「なくなっていたはず」
僕はその言葉にドキッとした。
「なんで…なんで野球をやめたんですか?」
僕は彼女の顔を見ることはできなかった。
「あなたは続けなくてはならなかったのに!彼はあなたを好きで、いつもあなたの球を褒めてて!だから何も言えなかった、彼がいなくなったあとも何も…!!」
下を向いて目をそらす僕の前に身体ごと入って彼女は叫んだ。
「やめないでいてくれたら…!いいえ、やめてしまうのなら私の前に現れないでいてくれれば…思い出さないでいられたんだわ!」
めちゃくちゃに僕の胸を叩いている彼女の薬指には、見覚えのある指輪が光っていた。
彼に連れられて行ったブランド店で、彼が一生懸命選んだ指輪。
あの頃の僕らにはとんでもない額だったけど、今の彼女には少し安っぽい。
「ごめん…!ごめんなさい!」
泣き叫ぶ彼女をどうしたらいいのかわからなくて僕は彼女を抱きしめた。
いや、抱きしめたと言うより押さえつけた、と言う方が正しいだろうか。
取り乱した彼女は力強く僕の胸を叩いて、叩いて道路に座りこんだ。
彼女は今にも倒れこんでしまいそうで、僕はつい余計に力を入れて肩を抱いた。
すると僕の腕を振り払い、彼女は自分の身体を僕から引きはがした。
「いや!触らないで!あなたなんて大嫌い!あなたがいなければ…!」
自分の言葉に、彼女は顔を上げ、目を見開き、驚いて両手で口を抑えた。
やがてその綺麗な目から再び大粒の涙が零れた。
目を閉じ、声を殺して彼女は泣いた。
彼女に逢いに行ったことには何の意味があっただろう。
ひとり見ているテレビは、ちょうど僕たちのあの日の再会を映していた。
−はじめまして−
僕たちがもしも本当に初めて会ったならば…こんなふうに挨拶していたんだ。
この時は二人とも気付かなくて、あの辛い過去はそれぞれの胸に。
蘇る過去に、僕を心ごと身体ごと全部で拒絶した彼女。
わかっていたはずだ。
彼女は僕の顔なんて見たくないってこと。
なのになぜ僕はこんなに逢いたい?
僕がもう10年も抱えこんでいる罪を許してもらいたいから?
それとも
気付かなかった再会の一瞬に見た、あの優しい綺麗な声を聞きたいから?
彼女が彼女であることは…紛れもない事実なんだ。
誰かに憎まれたりするのはすごく辛いことだ。
でもきっと
誰かを憎み続けなければいけないことも、きっとすごく悲しいことだ。
僕は僕を憎む。
あの日、あのマウンドで間違えた球を投げた僕を憎んでいる。
きっと彼女も。
僕は部屋の明かりを消したまま膝を抱えていた。
彼女を想う。
彼女の泣いた顔を想う。
彼女の細い薬指を想うと
胸が痛んだ。
昨日までとは違う胸の痛み。
彼を亡くしてしまった原因をあのボールに映す時、僕の胸はいつも痛んでいた。
でも違う。
この痛みは違う。
主役は…彼女なんだ。
彼女が泣く。
彼のために?
人を憎むことの悲しさに?
彼女に会いたい。
会って、彼女の涙を拭いたい。
でも彼女は僕を見ると色んな想いが混じりあって
やっぱり泣くのだろう。