反らした先で視界に入った机。その机にいつも座る人物が頭に思い浮かび――――瞼を下ろして排斥する。
数秒間、流れる時間と自分とを分断する。ほんの数秒間だけ、自身の世界に溺れた。
「…くだらないか?」
瞼を上げれば、担任が自分に問い掛けていた。
なんでそんなに、真っ直ぐにこちらを見てくるのかがわからない。
「…さあ」
俺がそう思っているか。それを聞き出したところでなんの利益に繋がるんだよ。
なら。逆に聞いてやろうか。
「…俺が周りを低俗だと思ってるように見えるんですか」
担任には視線は向けず、言葉を並べた。
否定されようが肯定されようが、それは俺にとって何にもならない。
きっとこの担任は、それを了解した上で俺に返してくる。
「…見えてなかったらこんなこと聞かねえだろうが」
ほらな。やっぱり。
想定内の返答だった。面白みに欠けた、それは例えるなら模範解答だ。
すべてわかっていた結果に、苦笑も失せる。
「…進路希望、書けってことですか」
早く終わらせて欲しい。
その一心で言う。
「…まあ、最終的にはそれに繋がるけど」
「…」
所詮、教師だな。
最終的には一人の人間としてではなく、生徒として見る。
その瞳に写るのは、きっと紛れも無く【自分が背中を押さなければならない生徒】なのだろう。
ならばその生徒と俺は、教師という肩書を持つ人間からすれば同じ範疇なのだということも、理解出来る。
「…お前達には苦労して欲しくないんだよ。進路で苦しまないで欲しいのが本望だ」
「…そうですか」
それが本心なのか否かは聞かないでおくが、…逆に言うなら本心からそう言える人間は殆どいないと思う。
差し出された進路希望を書く用紙を少し荒々しく手で受け取る。
「…なあ」
「…なんですか」
「お前も大変なんだろうけど、…つーかお前もすごい趣味してるな」
――――あんな不器用な彼女、俺ならごめんだけどな。
無駄に大きな笑い声が室内に響く。尤も、担任だけの笑い声だったが。
「おっと、いけねえな。人の好みはそれぞれだしな」
「…」
「お前だったらもっと上等な女捕まえると思ったけどね。――――あ、そうだ」
上等、か。
【彼女】。そこの範疇に誰が入るのかはわかっていた。
「あいつ俺の数学の教え方じゃわからねえみたいなんだわ。お前、たまには教えてやってくれよ」
「…」
「毎日放課後に生徒に数学教えるってのも、結構重労働なんだわ」
けたけたと響く笑い声。
――――容量も俺に対しての態度も悪い生徒だから余計にな。
意地の悪い笑みを浮かべると、俺にそう言った。
――――ぐしゃり。真っ白な用紙を握り潰した。
「おいおい、そんな顔すんなよ」
担任は未だにだらけた口調で俺に言う。
それには返さずに、「もう用件無いですよね」吐き出した言葉。
「ああ、悪いな時間取って。お前もいろいろ忙しいだろ」
「…別に」
言いながら、背中を向けて会話に終止符を打つ。
いや、打ったつもりだった。
「なあ」
会話は終わってなかったらしい。なんだよ、まだ話したりないのか。
半ば呆れて振り返る。ただもうこの教室からは早く出て行きたい。
鞄を片手に、はやくここから立ち去りたいという意思表示だけしておく。
「お前はさ、あいつのどこに惚れたんだよ」
「…」
相変わらずの楽しそうな声が、いまは耳を劈くようで聞きたくない。
不愉快だ。眉を顰る。
担任の言った【あいつ】とは誰なのか。そんなの嫌でもわかる。
脳裏に浮かぶ、頭の空っぽな彼女の顔。
それを浮かべたときの自分の表情。それがどうなっていたのかは考えたくもない。
それを担任に見せるのも嫌で、空気を切り裂くように一言。
「…関係ないですから」
そう言ってやった。
***
「死ね」
「始めて早々死ねはないですよね」
「お前もういいよ。どっか行って。ついでに煙草買ってきて」
「教師が生徒になんてこと言ってんでしょうね」
いつものように放課後になって担任との数学の補習。
出だしから躓いてしまった私に一言。「死ね」とか言ってきたこの担任。
駄目でしょ。世間じゃ自殺問題が騒がれてる今そんなワードぶっ放しちゃ駄目でしょあんた。
「ていうか未成年じゃ煙草買えないですよ」
「大丈夫だよ。お前なら買えるよ」
「先生捕まりますよ」
それと私も警察にお世話になることになるよね。直ちにお断りします。丁重に。丁重にね。
一週間も補習を受けてるというのに、この頭の回転の悪さ。頭のネジ錆び付いてんじゃないかな。
流石に困る。まだ錆び付かないで欲しい。
「…私なりに頑張ってるんですけど」
「なんでわかんないの。つーかなんでお前高校入学できたの」
「そこから?」
え、そこまで話が戻るんですか。
我ながら受験生のときは頑張った方なんだけど。塾に通ったり学校の補習受けたりとかさ。
「仕方ねえなあ。息抜きするか」
「息抜きって言ったって始めてから10分経ってないですよ」
「うるせえ。お前は俺の言うこと聞いてろや。主導権は誰にあると思ってんだ」
「職権濫用ですよね」
息抜きってあなた。始めてから10分しか経ってないってば。
息抜き云々の話じゃないよ。数学をやってよ、数学を。
「じゃあお前、【針】って10回言ってみ」
「え、なんで」
「言いから言えや」
強制ですか。
半ば呆れる私に、早くしろと急かしてくる目前の男。
…仕方ない。
「針針針針針針針針針針…」
言い終えた私にすかさず担任が問題を吹っかけてきた。
「アメリカの首都は?」
え、アメリカの首都?
いやいやそれくらいわかるっての。
アメリカの首都ね。首都は―――――、
「パリ」
「ぎゃはははははは!!おま、馬鹿だなお前!パリはフランスの首都だろうが!ぎゃはははは!」
「――――あ」
「おま、アメリカの首都はワシントンD.C.だよバーカ!」
「ああああああ!」
ひ、引っ掛かった…!
口をぱくぱくさせて「ズルっ!ズルい…!」言う私に担任は笑ったまま。
「あー、おもしれ。お前こうも簡単にひっかかるとは思わなかったわ」
「いやいやいや、今のは問題の出し方からしてズルいでしょ!」
「お前には訓練が足りてないな」
「なんの訓練ですか」
「…だってお前全然覚えてないからさあ」
「…申し訳ないです」
「言っとくけど俺も暇じゃないんだからな」
「…存じております。はい」
けだるい声が耳に届く。そ、そんなに嫌なのか私に数学教えるの。
苦笑混じりに「すいません」即座に返した私。
それが面白くなかったのか、気に入らない様子で「お前さ」私に話しかけた。
「なんであいつと付き合ったの」
「…はい?」
「藤崎だよ、藤崎」
「…」
え、なんでここで郁也が出てくるんだろう。
それより――――なんで付き合ったのか、って?
「…いや、普通に…。付き合ってって言われた、から?」
「俺に聞くなよ」
「……言われたから、です」
「ふーん」
疑問符を取り外して再度言えば、特になんてことない様子で返ってきた言葉。
ふーんって。軽くないですか。ふーんって。
「…なんでですか?」
いきなり郁也の話題を出されるとは思ってなかったから、すこし驚いた。
なんで、いきなり?
疑問符を露にする私の問い掛けに、担任はあくまで軽く返してきた。
「藤崎ってどうも掴めない奴だから」
掴めない?
郁也が?
「…確かに掴めないですね」
「なに?あいつからお前に告白してきたわけ」
「…告白っていうか…付き合ってって言われまして、ですね…」
しどろもどろに言葉を並べる。ていうか、あれ?日本語がおかしくなってた気がする。
「言われましてですね」ってなに。今更だけど言葉おかしい。
そんな自分の言葉を脳裏で振り返っていた私に、担任が言う。
「藤崎にも同じこと聞いたんだよ」
「――――え」
ぴたりと動きが止まる。
聞いたって、…郁也になんで私と付き合ってるのか聞いたってこと?
「え、嘘ですよね」
「お前つくづく俺のこと信用してないね。嘘じゃねえよ」
「痛!」
がつん!どこから持ってきたのか出席簿の角で頭を強く叩かれる。
痛!なにすんのこの人!頭を摩りながら下から睨み上げる。
そうすればすぐに「睨むな馬鹿野郎」また叩かれた。
「なんで叩くの!?痛いんですけど!」
「お前の頭叩き心地よさそうだから」
「私どんな頭してんですか?」
「俺としては溜息つく前にこの式を解いて欲しいんだけどね」
「ははは」
「笑い事じゃねえよ」
「痛いっての!」
ばしん!と頭に衝撃が走る。
ちょっと待って。今なにで叩いた?それいつ持ってきた?
「…じ、辞書で叩くって有り得ないですよ」
「手元にあったから」
「なかったですよね?絶対どっかから取ってきましたよね?」
じんじんと脈打つように痛む頭を押さえて、涙目で下から睨み上げる。
こ、この教師は何回私(一応生徒)の頭を叩けば気が済むんだろう。
いくつ脳細胞が死んじゃったことか!
「人の脳細胞殺さないでくれますか」
「なら俺のお前の補習に費やしてる時間を返せ。いますぐに」
「無理です」
それは無理だ。
心底迷惑そうに顔を顰て私に言った担任に、即答した。
それが余計気に食わなかったらしく「早く解け」と目で訴えてくる。
はいはい。わかってますよ。わかってますとも。
「わかんないんです」
「なにを堂々と言っちゃってんだ。馬鹿丸出しじゃねえかよ」
「馬鹿ですいませんね」
この教師はいちいち奸悪な言い回し方を…。
流石にこう何度も言葉のキャッチボールをしてると溜息をする気も失せるというもので。
シャーペン片手に、私は不服そうに顔を歪めた。
「…別れたいと思ったこと、ないのか」
「…はい?」
唐突だった。そんなことを聞かれたのは。
からん、机上に無造作に広げられた教科書にシャーペンが落ちる。
ぱちりぱちりと数回瞬きを繰り返してから頭の整理に入る。
…別れたいと思ったことって。
どうしていきなりそんなことを聞くのかがわからない。…というより――――どうして今日はこんなに、郁也について触れてくるのだろう。
「…ない、ですけど」
静かに、だけど意思ははっきり述べる。
…なかった。今までそんなことが脳裏を過ぎったことも、口からその言葉が零れることも、なかった。
「…」
「…なんでそんなこと」
…【いきなり、聞くんですか】。…皆までは言えなかった。
息苦しかったからだ。苦しい。喉まで手を伸ばしてみる。…が、危うく力を込めてしまいそうになって、
――――抑え切れない力でそれを握り潰してしまいそうで、怖くなった。すぐに膝の上に戻す。
だけど担任には言わとも伝わったらしい。
「…そりゃいきなり言われたら焦るよな」
淡々とした口調だった。