「…んー、疲れないわけじゃないけど…なんていうか、子供が好きだからね、あたし。疲れより楽しみのが大きいかな」
「…楽しみ?」
そこまで言うと、お母さんが車に乗り込んだ。
合わせて私も車内に座って、ばたんとドアを閉める。
かちゃん、シートベルトを着けたところで、お母さんが口を開いた。
「楽しみだよ、毎日。あたしのことを好きって言ってくれる園児がいるからね。園長先生も優しい人だし、先生みんな良い人達だし。…これ以上の職場なんて無いよ。あたしにとって」
お母さんが笑った。
確かに園長先生は優しい人だった。たまたま擦れ違った何人かの先生とは会話もした。
楽しそうな、…いや、楽しい幼稚園だった。
「…そう、なんだ」
「うん。やり甲斐があるから。佳奈も自分がやりたいこと、やるんだよ」
「…」
ハンドルを扱いながら、そう言ったお母さん。
窓越しに見ていた景色から、お母さんへと目線を移す。
「やりたいことやらなきゃ、勿体ないから」
「…そうかな」
「そうだよ。ねえ佳奈、佳奈って子供苦手だったんだっけ」
「苦手ではないけど…」
「そっか」
信号機が、ぱっと赤に変わる。当然、私達を乗せた車も止まる。
横断歩道を渡るランドセルを背負った小学生。なんだか懐かしいな。
「佳奈がランドセル背負ってる頃、思い出すよ」
くすりとお母さんが笑った。思いだす?
ていうかなんで笑うの。思わず出てきそうになった言葉を飲み込む。
「…佳奈って怜香ちゃんと仲良いよね」
「怜香?」
「うん。怜香ちゃんと佳奈は、小学生のときもずっと一緒にいたからね」
「そうだね」
「友達は大切にね」
「なに?いきなり」
今度はこっちが笑ってしまった。いきなりなにを言い出すのかと思えば。
お母さんは笑顔を崩さないまま、再び私に口を開いた。
「…ねえ、佳奈」
「なに?」
「…私みたいに、佳奈には幼稚園の先生になって欲しいなあ」
「…え?」
思わず聞き返した。
そんな私に、お母さんは少しだけ寂しそうに笑ってから言った。
「…なんて。冗談だよ?気にしないで」
「…」
「佳奈は佳奈のやりたいことをやるんだよ。そうしなきゃ勿体ないから」
「……」
寂しそう。
ゆらゆらと、不安定に揺れる笑顔が見えた。
――――――…
「…ピアノ、佳奈に聴かせたことなかったよね」
「…ピアノ?」
「うん」
お母さんが笑う。
その指先が、ポーンと鍵盤を押した。音が耳に届く。
「…聴いたことはないけど…」目線をその指先に向ける。
そうだった。幼稚園の先生なら、ピアノは弾けるのが当たり前なのか。
そう思いながら返した言葉に、お母さんはクスリと笑った。
お母さんの意味ありげな言葉と表情が脳裏にこびりついたまま、翌日になった。
園児を迎えに行く明るい色に塗られたバスも、今はまだ動かない。
教員と私しかいない幼稚園の朝は、掃除から始まるのが日課なんだとか。
「…聴いてみたいなんて思わなかったかな。佳奈は」
「…」
なんて答えたらいいんだろう。掃除用に渡されたモップを両手でギュッと強く握る。
それをちらりと見ると、また鍵盤を弾く音。…弾いて、くれるのかな。もし私が頼んだとしたら。
そんな疑問が、ふっと浮かび上がる。
するとまた、お母さんが笑った。
「弾こうかな。…いつも聴かせてるの。園児に」
「…ピアノ?」
「そう。聴いたら笑ってくれるからさ」
「…どんな曲?」
【どんな曲?】
きっとお母さんは気付いてる。私が言った言葉に隠されたコトバに。
【弾いてみせて】
【私に聴かせて】
【お母さん、弾いてみてよ】
また、ポーンと鳴り響くピアノの音。
ぎい、お母さんが、真っ黒に塗られたピアノの下に隠れていた椅子を引き出した。
それに腰を下ろすと、私に視線を当てた。
「…佳奈は、嫌じゃなかった?」
「え?」
「…佳奈が小学生の時。…あたし、幼稚園、幼稚園って、仕事ばっかりだったでしょ?…一人で、嫌じゃなかった?」
「……」
お母さんが困ったように笑って、私に言う。
なんて答えて欲しいの?また答えるのに迷うような問い掛けに、戸惑いを隠せなかった。
「…別に、そんなこと」
「…佳奈は結構、人に気使うタイプだから。たぶん、佳音に似たんだよ」
「…お父さん?」
口に出せば、お母さんは…こくり、一度頷いた。
「佳音はすごく人のことを見てるんだよ。それですごく気を使う。そういうところ、佳奈はそっくり」
「……」
「…気を使わせてるのはあたしなんだけどね」
苦笑を零すと、お母さんは私に背中を向けた。
すると、…ピアノの鍵盤から零れた音。今度は一つではなかった。
何十にも重なった太い束になって、それは室内に響いた。
あちらこちら、忙しなく上下に動く指先から流れる、優しく響く旋律。
思わず息を呑んでから、耳を澄ます。
ピアノには詳しくない。経験なんて無い私には、これが上手いのか下手なのかも判断出来ない。
弾ける曲なんて、猫ふんじゃった、とか…それくらい。
だけどそんな私が第一に思ったことは、
…それを語彙の少な過ぎる私が、これを一言で表すとしたら―――。
―――――すごい。
それだけだった。
ただただ、その三文字が脳裏を駆け巡る。全身に鳥肌が立っていたことに今更気付いた。
「…本当は、佳奈との時間もたくさんつくってあげるべきだったのにね」
「…え」
優しかった曲は、お母さんの呟いた声を飲み込んでしまったからか。
その悲しげな声を、飲み込んでしまったからなのか。
…とても悲しい曲に、なってしまった気がした。
悲しい色が、ぽたりと零れてしまった気がした。
それは気のせい?
お母さんの背中しか見えなくて。顔は見えない。
「…もう、佳奈はこんなに成長しちゃったんだよね」