「わ、悪いし、いいよ。ほら、私、一人で帰れるし」




大丈夫だと、へらりへらりと笑いながら郁也に言えば。

予想に反して、彼は私の意見には頷かなかった。

…郁也なら、目前にいる郁也なら、『わかった』そう頷いてくれるかと思った、のに。




「…帰れる?」

「――――え」




彼は、いつになく顔を顰た。…どうして、そんな顔をするの。


郁也はまだ、横断歩道を渡らない。ちかちかと青色が点滅し始める。

「い、郁也。信号、」隠したい、指先を。どうにか郁也に向かって声を搾り出す。




「…今の佳奈が一人で帰れる?」

「え」




郁也は私を見て、そう言った。その声色が、なにを示してるのかがわからない。






「…良いよ、なにも聞かないから」

「…え、」

「隈が出来てる理由も、指が震えてる理由も、今は聞かない」

「…っ」




また、気を使わせてしまったかもしれない。

申し訳ない。でも、郁也が不思議でならない。気付いてたんだ。私の指先には。


…でも、理由を聞かないのはなんでかな。

…聞かれても、曖昧に濁してしまうだろうけど。私なら。




「…ごめん」




また私の手首を引いた郁也に、ぽつりと謝った。

申し訳ない。切なさが込み上げて来る。



今の郁也は私にとって、優し過ぎた。






「いいよ、謝らなくて」

「…でも」




オレンジ色の空の下、私は、俯いて顔を上げられずにいた。

言いたいことを、上手く言葉にすることが出来ない。

…口下手な自分を、この時ばかりは、嫌だと思った。




「…後で、話してくれればそれでいい」

「…、」




カー、鳴き声を響かせた烏が二匹、オレンジ色の空中を泳ぎながら、

すっと頭上を通って、私達を追い抜いた。




「…郁也」

「…転ぶ。よそ見するなよ」




呆れたように声を出すのに、この手は離さない。

ぎゅ、捕まれてない左手を、握り締める。




「…ありがとう」

「…どういたしまして」







――――――…



「でさ、夏樹があまりにもあたしのこと馬鹿にしてくるから、だから一発ぶっ叩いてやろうかと思ったんだけど」

「…うん」

「だけど夏樹って後が面倒じゃん?だから――――、……佳奈?」

「…、あ、なに?」

「なに?はこっちの台詞なんだけど。…なに、具合悪い?」

「え?まさか。そんなことないよ?だってほら、私、不老不死だし」

「意味わかんない」




寝た気がしないまま、朝がきた。働かない頭と鈍る足を引きずって学校に登校した。

今は授業が終わった後の休憩時間。




「保健室行けば?」

「いや、大丈夫だって」




夏樹君の愚痴を吐き出した怜香の話に、殆ど耳を傾けていなかった。

それに気付いた怜香は、私を心配そうに見遣るとそう言った。



…別に体調が悪いわけではない。至って元気。




「ごめん、ボーッとしてただけ」

「…佳奈。昨日なんかあった?」

「え?」




いつになく怜香は私を一直線に見つめた。

その瞳は、私からなにかを探りだそうと揺らぐことを知らない。


嫌なくらい、怜香は鋭いから、困るなあ。

苦笑を浮かべながら、怜香に言った。




「本当、なにもない」






だけどそんな私の言葉は、ぴしゃりと怜香に否定される。




「嘘。なんかあったって顔してるよ」

「顔って」

「佳奈ってさ、結構顔に出るよね」




私の顔を指差すと、怜香はまた、じっと私を見つめた。

その瞳から逃れようと、また口を開く。




「あー…、…なんか、弁当失敗したなあ、と思って」

「いつもじゃん」

「それは酷い」




速攻に帰された毒舌。
い、いつもって。いや、いつもなんだけど。事実なんだけどさ。

思わず苦笑いも崩れる。…すると、怜香はがたんと立ち上がった。




「…怜香?」






トイレにでも行くんだろうか。疑問符を浮かべながら、私はその名前を呼んだ。

トイレではないらしい。「…違う」静かに私にそう答えると、




「え、うわっ」

「行くよ」




目を見開く。怜香は私の腕を引っ張ると、私を立ち上がらせた。

今は賑やかな休憩時間だから、誰も気付くことなく談話に集中してる。




「え、怜香?トイレじゃないの?」

「違うってば。悪いの、佳奈だからね」

「痛いんですけど、怜香さん!」

「あたしは痛くない」

「そりゃそうだよ。怜香が私の腕掴んでるんですよ、怜香が」






私の腕を引くと、怜香はずんずん足を進めてしまう。




「怜香?」




不安が込み上げてくる。その名前を呼ぶ。




「……」




だけれど、怜香からの返事はなかった。なにも言わない怜香はただただ足を動かす。

それに引っ張られるように私の足もついていく。ぐいぐいと、力強く引っ張られる。


怜香が、誰にも、私にさえも聞こえないような声で呟いた。




「―――あんたが、隠すからいけないんでしょ」




騒がしい教室の中に、怜香の言葉は誰にも届くことなく溶けてしまった。

私には聞こえなかった。







きっとまた、怜香は気難しそうな顔をしているのだろう。なぜか胸が痛んだ。




――――ついたのは、使われていない空教室だった。

すっと放された腕。疑問を口から零す。




「…怜香、どうしたの」

「聞きたいのはあたしの方。…なんで隠すの?」

「…隠す?…隠すって、なにを?」

「次とぼけたら殴るからね」

「暴力はやめよう!?」




思わず怜香から一歩、二歩、距離を取る。

それに対してはなにも言わなかったけど、怜香は悲しげに、言葉をぶつけてきた。




「…あたしには隠さなくて良いよ。知ってるんだから」