なんか、郁也って聞けばなんでも答えてくれる辞書みたいに思ってた。
失礼だな。本人には言わないようにしておこう。
ぽつり、呟く。
「まあ、夢とかどうでもいいんだけどね」
「どうでもいいなら聞くなよ」
「ごもっともです」
迷惑だと言わんばかりの郁也にそう言う。
…そのとき、近所から私達の耳に届いた、ピアノの音。
郁也よりも、近所の公園で遊ぶ子供よりも、誰よりも早く反応したのは、
――――私だった。
ピアノの音に反応した、というよりは、
…流れた『曲』の方に、反応したんだと思う。
「佳奈?」
「…、これ」
郁也が私の名前を呼ぶ。今私、どんな顔をしているんだろう。
ただ、名前を呼ばれても返事は出来ずにいた。
ああ、……この曲、聴いたことが、ある。
「…っ」
滑るような、優しげな旋律が特徴的なこの曲は、小さいときに幾度も耳にした。
瞬間、また脳裏が騒ぎ出す。聞こえる、…あの声が、聞こえる。
ピアノの旋律と重なって聞こえてくる。…耳が、痛い。
『佳奈、おいで』
―――ぶつりと、ピアノの音を切り裂いてしまいたかった。
「――――っ」
息を呑む。…誰が弾いているとか、そういうのは関係なくて。
ただ、今は、…あの夢が耳に纏わり付く、今だけは――――聴きたく、なかった。
そのとき、目前が真っ暗になっていた私の隣、郁也が私の名前を呼んだ。
「…佳奈」
「……、え、あ」
ゆるゆると視線を戻す。そこには、私の手首を掴んだ郁也がいる。
「…、郁也?」問い掛けると、郁也は地面に足が縫い付けられたかのように固まっていた私を引っ張って、歩き出した。
「…、」
声が出なかった。すこしの後悔が押し寄せる。
――――多分、私は、…郁也に、気を使わせてしまった。
なにも言わず、郁也は足を進める。ピアノの音が耳から遠ざかっていく。
――――聴きたくなかった。聴きたくない。聴けない。
塞げない耳を、切り裂いてしまおうか。そんなことまで思った。
「…郁也、ごめん、もう大丈夫」
「……」
交差点の信号は真っ赤になって私達の足を止めている。
赤。……赤?――――ああ、思い出したくない。
「…ごめん、大丈夫」
足元に視線を送る。へらへらと笑って、その指先から逃げる。
「……」郁也はなにも言わず、掴んでいた私の手首を離した。
忘れればいい。俯いて、真っ赤に染まった思考回路を、ゆっくりと、真っ黒に染めていく。
「…、ごめん。…郁也、ごめん」
「…顔色、悪い」
「…、え」
気付いたときにはもう郁也に異変を感じさせていた。
――――無意識に、謝ってた。
…なんで、こんなに動揺してしまうんだろう。
指先が小さく痙攣を起こす。それを隠すように、背中の後ろに腕を運ぶ。
「…大丈夫。気にしないで」
へらへらへらへら。
笑っていれば、脳裏から掻き消されると思った。
『赤』なんて、要らないんだ。要らない。
早く消えて欲しい。ああそうだ、
視線をゆるゆると上へ上げる。…広がる、オレンジ。
ああ、すこし、落ち着けそうな気がする。
「…送る」
「え、」
ぱっと信号が、赤から青に変わった。なんだかとても安心する。
そんななかで、郁也の声が、耳に静かに届く。
視線を空から降下させれば、なにを考えているのかわからない、郁也の表情がそこにあった。
「…送る」
再度そう言った郁也に、やっと理解する。
私を心配してくれてるんだと。私が郁也に心配をかけさせているんだと。
ふるふると小刻みに震える指先は、まだ隠さなければいけない気がした。
吐き出した言葉で、曖昧な部分を隠すように縫うことにした。
「わ、悪いし、いいよ。ほら、私、一人で帰れるし」
大丈夫だと、へらりへらりと笑いながら郁也に言えば。
予想に反して、彼は私の意見には頷かなかった。
…郁也なら、目前にいる郁也なら、『わかった』そう頷いてくれるかと思った、のに。
「…帰れる?」
「――――え」
彼は、いつになく顔を顰た。…どうして、そんな顔をするの。
郁也はまだ、横断歩道を渡らない。ちかちかと青色が点滅し始める。
「い、郁也。信号、」隠したい、指先を。どうにか郁也に向かって声を搾り出す。
「…今の佳奈が一人で帰れる?」
「え」
郁也は私を見て、そう言った。その声色が、なにを示してるのかがわからない。
「…良いよ、なにも聞かないから」
「…え、」
「隈が出来てる理由も、指が震えてる理由も、今は聞かない」
「…っ」
また、気を使わせてしまったかもしれない。
申し訳ない。でも、郁也が不思議でならない。気付いてたんだ。私の指先には。
…でも、理由を聞かないのはなんでかな。
…聞かれても、曖昧に濁してしまうだろうけど。私なら。
「…ごめん」
また私の手首を引いた郁也に、ぽつりと謝った。
申し訳ない。切なさが込み上げて来る。
今の郁也は私にとって、優し過ぎた。
「いいよ、謝らなくて」
「…でも」
オレンジ色の空の下、私は、俯いて顔を上げられずにいた。
言いたいことを、上手く言葉にすることが出来ない。
…口下手な自分を、この時ばかりは、嫌だと思った。
「…後で、話してくれればそれでいい」
「…、」
カー、鳴き声を響かせた烏が二匹、オレンジ色の空中を泳ぎながら、
すっと頭上を通って、私達を追い抜いた。
「…郁也」
「…転ぶ。よそ見するなよ」
呆れたように声を出すのに、この手は離さない。
ぎゅ、捕まれてない左手を、握り締める。
「…ありがとう」
「…どういたしまして」