ごつん、机にぶつかる勢いで郁也に向けて頭を下げた。


―――――非常に申し訳ないことに。

わざわざ毎日、放課後と休日に足を運んだ郁也の家での勉強会だったんだけど。

…郁也の言ってる数式が呪いの呪文か子守唄にしか聞こえなかった。




「野崎、たまに寝てたよな」

「ね、寝てないですよ」

「…あれ携帯で撮ったけど。寝てなかったんだ?へえ。ばらまいて良い?野崎の変顔」

「寝てたよごめんね!でも仕方ないんだよ…!あれは郁也の言葉がララバイに聞こえて…!」

「ララバイとか意味不明なワード出すなよ。率直に子守唄って言えばいいだろ」

「カッコつけてみたかったんです」






今思えば。あの二週間は呪文と子守唄を聞きに郁也の家に行ってただけな気がする。

あれ?これって無駄になるの?運んだ足、無駄だったの?




「あたし今なら佳奈が何考えてるか言える気がする」

「同意」

「ちょ、二人とも失礼なんだけど。ていうかどうしよう!私補習とか嫌なんだけど!」

「野崎が勉強ちゃんとやってれば良かっただけの話だよね」

「さっきからごもっともなことばっかり郁也が言うんだけど」




溜息を吐き出しそうになって慌てて止めた。駄目だ駄目だ。

溜息つくと幸せが逃げるって言うよね。これ以上不幸に取り付かれたら困るなんてもんじゃない。






「…もう勉強の話すらしたくない。…怜香、夏樹君と順調?」

「勉強の話したくないからってなんであたしの近状報告しなきゃいけないの。順調です」

「なんか苛立つわあ」

「なら聞くな」




夏樹君と怜香が付き合い始めたのは今年、学年が上がってすぐだったと思う。

高校二年になってから、ますます怜香は綺麗になりやがった。見事に私を置いて。




「怜香なんて、怜香なんて…!夏樹君と外国に行ってゴールインしちゃえばいいんだ!」

「とんでもなく問題発言してるんだけどこの子」

「野崎、それ寧ろ間宮のこと応援してる」

「怜香と郁也と夏樹君の馬鹿野郎!」

「ちょ、野崎なんの話だよ、俺関係ないと思うんだけど」




私が大声を上げた瞬間に返ってきた夏樹君からの言葉。

知るか。夏樹君なんて外国に飛ばせられれば良いと思う。




「夏樹君、外国で怜香とゴールインしてきて」

「お前等どんな話してたの?」




夏樹君が困ったように言ってきた。

―――これが日常です。






「藤崎と佳奈ってさ、いつから付き合ってるんだっけ」

「なんか唐突だね」




退屈な授業が終わったと思ったら、前の席の怜香が私を振り返った。

唐突な質問に、疑問符が頭上に浮かんだ。




「一年の夏くらいからだと思う」

「一年か。でも藤崎と佳奈って付き合う前とあんまり変わらないよね」

「そうかなあ。…でも怜香と夏樹君も変わりない気がするけど」

「名前で呼び合うようになった」




そう言った怜香は、ちらりと窓際を一瞥した。

窓際には、一応私の彼氏である郁也と怜香の彼氏の夏樹君。…仲は良いんだと思う。






怜香が私の向けていた視線の先に合わせて視線を送る。

そのまま、口を開いて私に問い掛けてきた。




「なんで佳奈は名前で呼んでるのに藤崎は苗字呼びなの?」

「いやいやいや。だって郁也さん、私のこと名前で呼ばないんですもの。佳奈って言われたことないよ」

「頼めばいいのに」

「あれが郁也だからね」




ぽつり、返した。
そういえば郁也って私のこと苗字で呼んでる。

私と怜香と郁也は同じ中学出身だけど、その時から郁也は私のことを『野崎』って呼んでる。

いや、別にいいんだけどね。ていうか名前で呼ばれたらそれこそびっくりだからね。






「中学の時と何一つ変わらないよね、藤崎って」

「郁也が変わったらそれこそ世界の終わりだよ」

「あんたは彼氏をなんだと思ってるの」

「…」




怜香は私に言う。…彼氏をなんだと思ってる、って…。


え?屁理屈な天才少年だと思ってますけど何か。

そう思ったけど口には出さず、心の中で留めておく。




郁也の方へ向けていた視線を、ぱっと自分の方へ戻した。

万が一、あの郁也に聞こえてたら後が危ない。




「言ったら明日どうなるかわからない」

「…それ独り言?」

「独り言です」




怜香が困ったように私に聞くもんだから、とりあえず淡々と返しておく。

…郁也についての学習能力だけはあると思う、私って。






「そういう怜香はどうなの?どっちから告白したの」




聞きながら、使っていた教科書やらノートやらをトントントン、机上で鳴らす。

そのまま、この前返された数学のテストの答案用紙が入ったままの机の中に突っ込んだ。ぐしゃりと音がした。



とりあえず誰かに見られたら困るから、後でこの答案用紙は部屋のごみ箱に捨てよう。

流石に学校のごみ箱に捨てるのは気が引ける。見られたらお終いだし。




「怜香から?怜香から告白したの?」




疑問符を浮かべながら、視線を怜香へと滑らせてみる。






「…あたし達のときは夏樹からだったけど」

「意外」




え、夏樹君から?
…ああ、でも納得出来るかもしれない。

怜香って告白とかしなさそうなイメージが根付いてるから。どちらかと言えば夏樹君からって方が納得いく。





「なんか、放課後に教室で言われた」

「うわ、またロマンチックなことするな、夏樹君は。こっちはムードもなにも無かったけどね」

「いや、藤崎にロマンチックなんて言葉は似合わないでしょ」

「心から同意します」




郁也に甘ったるい言葉なんぞ呟かれたりしたら私は胸焼けするだろうね。

甘すぎるからね。堪えられないと思う。






怜香が「あたし達よりもさ」ぽつりと呟く。




「あんた達のスタートラインが、まず想像つかない」

「いや、私も仰天でしたよ。郁也から言われると思わなかったから」

「え、藤崎から言われたの?」

「なにその驚き顔」




失礼な。郁也からだよ、一応。一応ね。



怜香は目を見開いて私を見ている。

信じられないと物語るその目。…私も信じられなかったですけどね。




「でも郁也、すごくさらっと言ってきたんだよ」

「…掴み所ないよね、藤崎って」

「私もそう思う」




なんとなく、―――窓際にいる郁也に視線を向けてみる。



…あの日から結構、時間が経つのか。

そう思うと、あの電車の中の会話が、酷く懐かしいと思った。