「それだけ?」
「…それだけだよ」
私が呟くと、郁也が座っていた椅子から立ち上がった。
それを、ゆっくりと目で追った。
「…佳奈、さっき俺がハンカチで拭こうとしたとき」
「…さっき?」
「キスされると思っただろ」
「え!」
小さく叫ぶ。きききき気付いてた?気付いてたの郁也!?
かあああ、と顔が紅潮していくのが嫌でもわかった。
恥ずかしい。
向けていた視線をぱっと逸らす。
「俺が廊下ですると思った?」
「だってあれはない!あれはないですよ!あんな至近距離でさ!」
「一目がつく場所じゃやらない」
「…そ、そうですか」
なんて返せばいいのかわからず、噛みながら返した。
そこで、すっと頬に伸ばされた郁也の指先。
また、心臓が叫び出す。…え、ちょっと待って、…郁也?
「ちょ、郁也?」
「黙って」
「ちょ、」
す、と指先で唇をなぞられる。…はい?郁也、どうしました?
でも今は騙されるわけにはいかない。また嘲笑われるかもしれない。
「一目がつく場所じゃやらないっていったよな」
「…はあ」
「今は誰もいないから」
「……え?」
ちょっと待って。口角を上げた郁也にぱちりぱちり、瞬きを繰り返す。
……本気?
「…なんのご冗談…、」
「冗談なわけない」
身動きが取れない。郁也が、私の手首を掴んでいるからだとすぐに気が付く。
おいおい、ちょっと待って!ここ、学校…!
慌てる私なんて気にも留めず、郁也は私との距離を縮める。
「――――――っ…」
思わず、反射的に、瞼をぎゅっと下ろす。
捕まれた手首が熱い。じんじんと、脈打つような熱さに、きっと顔の赤さは尋常じゃないだろうなと思った。
恥ずかしさしか、ない。
「…顔真っ赤」
重なった唇は、一番熱かった。
――――――…
「遅かったね。ていうかなんで二人一緒に帰ってきたのよ」
「頭が回らなくて…」
「すごい疲れた顔、…あれ?隈治ってる?」
「え、怜香も気付いてたの?私の隈」
「見るからに真っ黒だったからね」
戻ってきた頃には授業も終わっていて。
当たり前だけど二人で一緒に教室に入れば注目の的だった。
すると、怜香が私に手鏡を手渡してきた。
「顔、見てみたら?保健室で藤崎に治してもらったの?」
「…まあ」
「顔赤いけど」
「スルーしてください」
手鏡の中に自分を映してみれば、…確かに赤い。
目許を見ると、隈は格段に薄くなっていた。す、すごいな郁也。
郁也様様だわ。
「藤崎も藤崎ですごかったよね。よくあんな堂々と彼女引っ張って水道行けるよね」
「見てたの!?」
思わず手元から手鏡を落としそうになる。慌てて持ち直した、けど。
それどころじゃない。怜香、見てたの?
「あたしだけじゃないと思うけどね。…藤崎ってあんなだったっけ。佳奈の目許拭き始めるし、正直見てるこっちが恥ずかしかった」
「私も恥ずかしかったんですが」
ていうか見られてたの?また顔が紅潮してしまうのではと不安になる。
「まあ良かったんじゃない?順調そうで」
「怜香だって夏樹君と順調じゃないですか」
「束縛の度合いがおかしいけどね」
「…ああ、束縛魔なんだっけ」
「最近もっと酷くなった気がする」
「愛されてる証拠だよ」
そう口に出せば、嬉しくなさそうな顔をさらけ出す怜香。
まあ実際は嬉しいんだと思うけどね。二人とも、なんだかんだ言っても仲は良いと思うから。
「そういえばさ、前の授業ってなんだった?」
「数学」
「え!」
今度こそ手鏡を落としてしまった。がしゃん!音をたてて、床に落ちた。
「ちょっと」顔を顰て怜香が言う。
「あ、ごめん!」
「別にいいよ、割れてるわけじゃないし」
「ご、ごめん」
慌てて拾った手鏡にヒビは入っていない。良かった。
安堵の息を吐き出した。手鏡を壊さないうちに、怜香に返しておこう。
「ありがとう怜香」
言いながら、手鏡を返した。落とさないように。
「数学だったんだ…」
「なんでそんな顔してんの?」
「いや、だってね?私昨日…桐谷先生に呼び出されて…」
「数学?…ああ、今回も悪かったんだ?」
言いながら、怜香が自身の髪を指先で弄んだ。
ちらりと視線を、郁也に持って行く。本人は全く気付いてない。
「…郁也もだけど、…怜香、今回満点だったんだね」
「あれは問題が簡単だったから」
「私赤点でしたけど!」
しかもクラスで最低だなんて、それはない。
私なりに頑張ってる…つもりだったのに。なんなんだ、あの点数は。
「神名君も今回は赤点じゃないし…!あ、そうだよ神名君!」
「うわ、なんだよ、…お前いきなり人の名前出すなや」
「なんで今回点数上がったの!私と同レベルがそんなに嫌か!」
「嫌に決まってんだろ」
「真顔で言われると傷付く」
近くに居たことに軽く驚く。…クラスのムードメーカーのような存在の神名君は、
他の教科は平均的らしいけど、数学は私と同じで赤点組だった…けど。
「なんで赤点じゃなかったの?」
「そりゃお前、並々ならぬ努力をしたからに決まってんだろ」
「よくわかりません」
なんで。なんで?
疑問符ばかりが頭上にぽんぽんと浮かぶ。
「でも神名って数学苦手だったよね」
私達の会話を傍で聞いていた怜香が、そう神名君に言った。
それに対して「今も苦手だけどな」軽く、神名君は笑った。
「今回は俺超頑張った。桐谷に教えてもらったんだよ、わかんねえところを徹底的に」
「先生ね、先生」
「桐谷先生に」
言い直した神名君。…教えてもらった?…あの、口の達者な桐谷先生に?
「…なんで今回はそんなやる気になったの?」
いつになく珍しい。…だって神名君と言ったら。
いつも数学の授業の前の休憩時間の度に、授業をどうサボろうか考えてたし、
テストは毎回「俺は他が出来るから数学は仕方ない」とかなんとか言って諦めてた気がする。