本当に幸せだったのだろう。遠い日を思い出す夜魅の目は細められて桐原を見ながら別の何かを見ていた。

 桐原は静かに器と箸を置くと、頬杖をして夜魅が次の言葉を発するのを待った。

「『夜魅』という名前もレンさんが考えてくれたものでな、病院の中庭で星を見上げていた時に、今の名前が嫌だと言ったら『お嬢ちゃんにはあの星空のような名前が似合うだろう』と言ってつけてくれたのだ。『夜の姫の魅惑で、夜魅』とな」

「まあ当時の私には、言葉の意味も漢字もよく分からなかったのだが」と彼女は過去の思い出を振り返る。

「この古風な話し方もレンさんの影響なのだ。勝手に真似しておっただけだから、正確にとはいかぬのだが……。ともあれ、私にとってあの人の存在は、途方もなく大きかった。それこそ今でも私を支え続けてくれておる程に。だが……」

 それまで明るく饒舌に話しを続けていた夜魅が、語尾を濁し、不安そうな顔になる。

 顔が赤くなった事といい、どうやらこの少女は、喜怒哀楽がすぐに顔に出るようだ。もっとも、先の氷の仮面の笑顔よろしく、表情と内心が真逆の時もあるみたいだが。

「レンさんは私より早く退院してな、それ以来一度も会ってはおらんし、連絡先すら知らぬ。私と同じ力を持ちながらにして、この世の中を渡ってきた男―――私の人生に返しきれない程多大なる恩を与えてくれた男は、あの退院の日、私を赤い瞳でじっと見据え、最後に一言『心を強く。心に強く』とだけ残して去ったのだ」