そして――。
 カツラギの里はもとの静けさを取り戻していた。
 姫夜は館の部屋で板戸を開け放って、夜露が草を濡らす梅の庭をながめていた。
あざやかな月は、あの日と同じ満月である。
「姫夜、まだ起きているか」
 しずかな声がして、酒の壺をたずさえハバキが入ってきた。そして使い魔であったものたちを見ると驚いたように眉をつりあげた。姫夜の足もとには、三人の童子がひざまづいていた。三人とも色が白く、美しいおもざしはどこか姫夜に似通っていた。
「なにかあったのか」
「今、このものたちに役目を与えたところだ」
 姫夜はむきなおって童子たちに云った。
「阿(あ)よ、吽(うん)よ。よいな。みだりに人の前に姿を現したり、おびやかしたりすることはならぬぞ。夜多(やた)よ、おまえもだ」
 三人の童子は地面に手をつくと、くるりと宙返りした。たちまち阿吽と呼ばれた二人は、二匹の琥珀色の目をした白虎になり、夜多はふさふさした毛並みをもつ銀狼となった。
「葉月の朔の日には磐座に戻ってくるがいい。そなたたちにわたしの舞いをささげよう」
 三匹の霊獣はうなづくように頭を下げてから、光の矢となって飛び去った。
長く尾を引く光の軌跡をみやりながら、ハバキが問うた。
「おまえのそばにおかなくてよいのか」
「ああ。カツラギに邪なものが入り込めばあのものたちが知らせてくれるだろう」
 姫夜は立ち上がって、ハバキを振り返った。
「――さあ、今度は蛇神の番だ。ハバキ、そなたの剣をここへ」
「やはり、戻すのか」
「むろんだ。放っておけばそのうち剣が重さに耐えかねて砕けてしまうぞ」
 姫夜は両手でうわぎの衿をくつろげ、眩しい白い胸を露わにした。
「俺がしなければならぬのか」
「そうだ。それはそなたの剣。そなたの手が必要だ」
 ハバキは剣を抜くと、蛇神を移したときと同じように、切っ先を下にして胸の中心にあてがった。が、何を思ったか、剣をおろしていった。
「やはり、やめておこう。砕け散ったら散ったで、その時だ」
 姫夜は顔をあげて、ハバキを見つめた。ハバキは剣をもとの鞘におさめた。
「……そうか」
 姫夜はそっと、えりをかきあわせた。
 ハバキは杯を二つ並べ、酒をそそいだ。
「今日、クラトと砦を見てまわった。もうおおかたの修理は終わって元通りになった」
「那智どのは?」
「もうとっくに起き出して病人を診る側にまわっている。自分が伏せっていると気が滅入っていけないらしい」
「そうか。それも那智どのらしい」
 伊夜彦が放った使い魔のせいで、怪我をしたり傷ついたりしたものは大勢いた。だが、ひと月もすれば元の活気を取り戻すだろう。
「クラトも明日から自分の手で新しい家を建てると張り切っていたぞ。いよいよ祝言も近いかとカリハは渋い顔をしていたがな」
「きっとアゲハはよい妻になる。わたしからも言祝ぎの舞いをおくらせてもらおう」
「――どうした? 蛇神がいないと酒がうまくないか」
 姫夜が最初の杯をまだ干しておらぬのに気づき、いぶかしげにハバキがたずねた。
 姫夜は微笑した。
「いや。せっかくだから正気のままでハバキと話していたい」
 杯をもつ手をとめて、ハバキはどきりとしたように姫夜をみつめ返した。
 虫の声が繁くなった。
「おまえもアゲハのように、女として生きたいと思うことはあるのか?」
 姫夜はすこし驚いたようにハバキを見つめ返し、ややあって、首を振った。
「……そんなことは、考えたこともない。幼い頃から、舞いと歌がうまくなることだけを考えていた。だから――なぜそんなことを聞く?」
「おまえが望むのなら――」
 云いかけて口をつぐみ、精悍な顔をしかめた。
「いや――。当分は男で通してもらう。こたびのことはいずれ、よそのクニにも伝わるだろう。へたに力ある美しい巫女がいるなどと噂が広まれば、おまえを奪おうとする王が現れぬとも限らぬしな」
 冗談めかしたことばだったが、姫夜は思わず目をあげて不安げにハバキを見た。
ハバキは吸い寄せられるように手を伸ばして姫夜の髪を撫でた。
「そんな心細そうな顔をするな。使い魔を封じたときのそなたは鬼神だったぞ。まるでおまえの兄が乗りうつってでもいるかのようにな」
「あのときは――あるいはそうだったのかもしれぬ」
 姫夜はつぶやいた。
使い魔は一人でも多くの敵を屠ろうと血に飢え、駆けめぐっていた。ハバキの神剣が、伊夜彦と使い魔たちを繋げていた魂(タマ)の緒を断ち切った。そのままにしておけば、使い魔たちはおのれを呪で縛っていた主に復讐するために、どこまでも伊夜彦を追っていっただろう。だが姫夜はそうさせなかった。より強い神呪(しんじゅ)の言霊をつかって、おのれの体に魂の緒をつなぎなおしたのだ。
 ふと思い出したように、姫夜は怖ろしげにたずねた。
「ハバキは見たのか。あのとき、禍津日――瀬織津姫の姿を」
「ああ。見た、と思う。おまえは見なかったのか」
「見なかった。たしかにおわしたのだろうが……」
 姫夜は、今は眠っているはずの女神を起こさぬように声をひそめた。
 ハバキは目をほそめた。
「長い夜色の髪がゆらゆらと藻のようにたなびいて、水に溶け合っていた。顔も手足も透き通り、赤い唇だけが微笑むようにわずかに開いて、ぞっとするように美しかった。――今思えば、俺が見たのは、おまえの姿だったのかもしれぬ。あのとき、おまえこそがすべてのケガレを押し流す禍津日――瀬織津姫だったのだ。そうだろう」
 ハバキはことりと杯をおいて、云った。
「――おまえに謝らねばならぬことがひとつある」
「なんだ」
「俺はなんとかしておまえの兄を助けると云った。だがそれはかなわなかった」
「兄上は……」
 姫夜は目を閉じて、胸の紅玉を指先でさぐった。あのとき、たしかに生玉を兄の手首にかけた、と思った。
だが今、伊夜彦がどこにいるのかはわからなかった。生きているのか、それとも黄泉へくだったのか――
「だが、ああなることを望んだのだは兄だ。今は、それがわかる」
 姫夜の胸で揺れている紅玉からはもう響きは伝わってこなかった。だが玉は月の光を受けて、ほのかに輝いていた。
 ハバキは比良坂での出来事を思い出し、疵に触れられたように、顔をゆがめた。
「伊夜彦の姿を見た途端、おまえは俺の声など聞こえなくなった。磐座で二人の姿が消えたときは、正直、俺は死ぬほど後悔した。いつかおまえは、俺に殺されてもいいといったが――」
 ハバキはことばを切って、杯に口をつけた。
 姫夜は、静かな声で云い返した。
「それでもそなたは追ってきた」
「そうとも。今度ばかりは、クチナワに護られたことを母者に感謝せねばなるまい」
 ハバキは明るい笑みをみせて、いった。
「ここがおまえのクニだ。もうどこへも行くな」
「ああ。わたしはそなたのそばにいる」
 姫夜は微笑み返した。それはひとつの祈りの言葉でもあった。
 ひとつの厄災は過ぎ去った。それが始まりに過ぎないことは、ハバキにも姫夜にもわかっていた。これから幾千もの昼を剣を取って戦い、幾万ものしかばねを足の下に踏んで、歩いてゆく。それでも夜には二人で空をあおぎ、満ちては欠ける月を愛でるだろう。
 今宵も月は、のぼり始めたばかりだ。

《完》