梅雨なんて大嫌いだ。じめじめとした湿気が肌にくっつくようで鬱陶しい。

大きめのビニール傘を差しながら、乗り慣れた黒い自転車を走らせる篠田遼の心の中は今日の空よりも荒れ模様だ。

パーカーの右ポケットが指定席のアイポッドからは大好きなミスターチルドレンが流れているのだが、ヘッドフォンのコードが濡れた首にあたる度、妙な苛立ちが加速してしまう。

どれもこれも梅雨のせいだ。今日から七月だっていうのに、朝から晩まで雨、雨、雨。ほんの少しの晴れ間さえ覗かせることなく、先週からずっと降り続いている。

おかげで朝のヘアースタイリングに普段の倍は手間が掛かっている。しかし、専門学校に着く頃には寝起きさながらの広がりを見せているのだから堪ったものではない。ゆるくパーマをあてているかのようなクセの強い自分の髪質を、とことん嫌いになる理由のひと押しになっても仕方ないだろう。

それに加えて、今はジーンズの裾だって嫌いだ。腰パンをしているわけでも、裾を引きずっているわけでもないのに泥水を飲み込んだように重くて気持ちが悪い。

ああ、傘を差すのも面倒だな。片手が塞がってしまうにも関わらず、持ち方をいくら変えても腰から下は守備範囲外となり濡れてしまうのだから。

どうにも出来ない遣る瀬無さにいっそ閉じてしまいたくもなるけれど、こんな土砂降りの中で傘を持っているのに差さない奴がいたら周囲から奇異の目を向けられるのは想像に容易い。

渡れると思った信号さえも紙一重で赤となり、それが引鉄だったかのように深い溜息を吐き出してしまった。

赤信号に変わってからもう五分程経ったんじゃないだろうか。実際はまだ一分も経過していないが、それくらい長く感じる。だが、これからアルバイト…それも接客業だということを頭の中で反芻し、信号が変わったら気持ちも切り替えようと決めたところで青になった。

信号が青に変わったところで自分の気持ちが海のように穏やかになるわけではないけれど。遼は地面を蹴り、また徐々にスピードを上げていった。その時。

「きゃっ!」

「うわっ!!」

角を曲がるところで女子高生が飛び出してきた。遼はハンドルを思いっ切り傾け、急ブレーキを掛ける。

キキーッとけたたましくブレーキ音が響き渡ったが、上手く避けることが出来たようで衝突は免れた。しかし、驚かせてしまったことに代わりはなく、遼は慌てて自転車から飛び降りるとしゃがんだまま動かない女の子に近寄って頭を下げる。

「ごめん!! どこか怪我とかしてない?」

「あ…、はい! 転んでもないし、大丈夫です。ちょっとびっくりしただけ」

栗色のショートボブがよく似合う女の子は、遼に向かって人懐っこい笑顔で右手をひらひらとさせて見せた。そのまますくっと立ち上がると、スクールバッグを左肩に掛け直し、驚いた拍子に落としてしまったらしい小花柄の傘を拾うと、取っ手部分に付いた泥をパッパと払っている。何事もなかったかのように振舞う女の子に若干安心したが、どこかぶつけたりしていないかと遼はその手の平を取り確認した。

「擦りむいたりもしてないね。膝小僧も…うん、大丈夫か。良かった」

安堵の溜息を吐くと、目の前の女の子から軽い笑い声が漏れた。

「膝小僧とか…めちゃめちゃ子供扱いですね(笑)人によっては怒られますよ!」

「ああ、妹がいるからついね。嫌な思いさせたならごめん」

「『人によっては』って言ったでしょ。私は平気です! でも、こんな視界悪い中で傘差し運転するのはやめたらどうですか? もし、私の片目が見えなくて咄嗟に反応出来なかったらどうするの?」

「え…」

「『人によっては』こんな笑い事じゃ済まされないんですから、本当気をつけてくださいね!」

眉を顰めた表情から一転して、女の子はまた笑顔で走って行った。

「片目が見えないって…どんな例えだよ」

小花柄の傘が小さくなるまで見送ったところで自転車に手を掛けたが、目的地まではあと一つ信号を渡ればすぐだということもあり、自転車には跨らずそのまま押して歩くことにした。
百メートル程歩いたところで、赤と白のカラー使いが印象的なコンビニエンスストアに到着した。ゴミ置き場の隣にある駐輪スペースに慣れた手つきで自転車を停める。品揃えもスタッフの営業スマイルもまあまあであろうこの店が、遼のアルバイト先なのだ。

勤め始めたのは進路が決まった高校三年生の冬だったから…、半年以上になるのか。

ある事情から、「シフトはなるべく多く入れて欲しいが、勤務中に少しでも空いた時間があれば学校の課題をやらせて欲しい」と、我侭としか呼べない希望を面接時に伝えたところ、ここの店長やスタッフは快く受け入れてくれた。

また、特別に時給が良いわけではないが専門学校からの帰り道にあって通いやすく、シフトも週五日で入れてもらえること。更に、周囲にはセレブが住むような高層マンションやスーパーがあるせいか利用客が少なく、実際に暇な時間が度々あるところも気に入っている。

勿論、理由に加えて遼の接客態度や業務に関しての姿勢が真面目である為、皆が理解をしてくれているわけなのだが。こんな恵まれた職場は他にないのではないだろうかと、社会人経験こそないが感じてしまう。

今年の春、遼は美術系の専門学校に入学したばかりなのだが、課題が多くアルバイトとの両立は厳しいのが現状で。睡眠時間を削ってなんとかこなしている状況なのだ。



それなのに。周りに迷惑を掛けてまで腕を磨いても、まだ辿り着けない。
あの時の少女のあの表情を描くには、まだ…。



軽く唇を噛んで俯くと、足を包む真っ白なコンバースのスニーカーがやたらと眩しく見えた。本当は雨で汚れ真っ白ではないのだが、酷く眩しく見えた。堪らず水溜まりに踏み入れると汚らしく泥に塗れたことに、何故か安心した。
「おまえさ、これから店入るのに普通靴汚すか?」

後ろから様子を見ていた塚原陽平が、いたずら現場発見というように声を掛けてきた。

陽平と遼は幼稚園からの幼馴染であり、今はバイト仲間だ。

一歩間違えばちぐはぐになる柄物の服を器用に重ね着していて、ガタイもかなり良い。サングラスなんて掛けたら子供なんて絶対近寄れないタイプだと思う。

実際は底抜けに明るくてよく笑う、少年のような奴だけど。

遼は自分のもやもやとした気持ちを説明したところで上手く伝えられないだろうし、陽平も理解出来ないだろうと思い適当に流すことにした。

「真っ白すぎると神経質そうとか潔癖性みたいに思われるから嫌なんだよ」

「ああ、絵美ちゃんとか言いそうだよな」

「そこで人の妹の名前を出すなよ」

「俺が女だったら『遼君ってきれい好きなのね! 絶対A型でしょ?』って思わず惚れちゃうかもぉ」

陽平はお祈りのポーズのように指を絡ませながら身体をくねらせている。

「そのオカマっぽい言い方やめろって」

「それにしても女の子って血液型とか会話に持ち出すの好きじゃね? この前行った合コンでも占い本みたいの持ってた子いたし。なんで?」

「さあな。でも会話を盛り上げる為のひとつにはなるんじゃない?」

「そっか。あ、遼は俺と同じく自由奔放なB型君だと思ってたんだけど大雑把なO型君だったっけ?」

「いや、俺は几帳面なA型。それに何回も言ってるけどB型と一緒にすんな」

「…あれ、なんかB型ってみんなに嫌われやすい傾向にあるの? これ気のせい?」

「気のせいだろ。ほら、十分以内に着替えないとやばいから急ぐぞ」

そんなふざけ合いに遼のトゲトゲした苛立ちは丸みを帯びていき、スニーカーの汚れに少しだけ眉を下げた。
「ありがとうございましたー」

時刻は二十二時。
定時まで残り一時間あるが今日は雨が酷いせいか客の入足が悪く、店内には遼と陽平とパートの佐々木さんしかいない。

早めにトイレ清掃を終わらせて、ペットボトル飲料の補充も終わっている。あとやることといったらレジ金の確認と商品の陳列くらいだろうか。

業務日誌に目を通していると、拭き掃除をしていた陽平が外を見ながら話し掛けてきた。

「この雨、来週も降り続くらしいぜ。お天気お姉さんが言ってたんだ。顔も声も可愛くて脚もすらっとしててさ、ついテレビに向かって挨拶しちゃうくらいなんだけど名前チェックするのいつも忘れちゃうんだよなあ!」

心底悔しそうにする陽平の肩を「はいはい」と返事する代わりに二回叩き、業務日誌を棚に戻す。

「まあ名前は明日チェックするとして、七日までこんな天気だったら可哀想じゃね?」

「七日に何かあるのか?」

首を傾げて聞き返す遼に、陽平はこれまでかというほどに目を広げながら、鼻がくっつきそうな距離でわざとらしく溜息を吐いてきた。なんて失礼な奴なのだろう。

「おまえさぁ、何年生きてんの? 人生何年目の男の子よ? 七月七日なんて普通に考えて七夕しかないでしょ。桃組の時にカンナ先生と一緒に短冊書いたでしょ。一年に一度だけ、彦星と乙姫様が天の川渡って、やっと会えたねって抱き合う日だよ。まあ、その後は男女のことだからナニをするかはご想像にお任せするけど、安い恋愛映画より感動的じゃん!」

「乙姫様はじいさんになる玉手箱を寄こす性悪お姫様の方。七夕なら織姫様な」

一応間違いには突っ込んでおいたが、陽平は何を想像しているのか両手をわきわきさせながらにやにやと笑っている。

今の何ともだらしない表情はさておき。陽平の頭では昨日の夕飯さえ覚えていないと思っていたのに、幼稚園の時のカンナ先生の話を出すなんて。変なところで記憶力がいいんだなと妙に感心してしまった。

「とりあえず、伸びた鼻の下元に戻せよ。それに彦星と織姫って年に一回しか会えないっていうけど、あれって変だと思うんだよ。だってさ、」

「ちょい待った!」

言いかけたところで陽平からストップの手が出される。

「その先は絶対俺のロマンチックな夢を壊す発言が待ってるだろ! 何も言うな! ていうか言わないで!」

バスケットボールやバレーボール経験者と間違われるほどに背が高く、ガタイの良い男が全身で聞くことを拒否している。この様はなんて可笑しいんだろう。

足元は若干内股になっているし、少女漫画のヒロイン気分に浸っているかのような仕草に思わず吹き出してしまった。

「陽平、マジでオカマ目指した方がいいよ」

「だってぇー、遼君がアタシの夢壊そうとするからぁ」

「あ、やばい。なんか寒気してきた。気持ち悪い」

「おいおい、折角ノッてやったのにそういうこと言っちゃう? 可愛いとか言えないの?」

「はいはい、悪かったよ」

「気持ち込もってねぇし…」

「悪かったって。それに…、俺も雨は早く止んで欲しいからな」

遼は外に目を遣るとつきんと痛む胸に手を当て、「まだ痛んで当然だ」と言い聞かせるように数回叩いた。とんとん…とんとん…と。
時計の針も進み、時刻は二十二時半。

その間に来た客は一人だけだった。缶ビールとつまみを買って早々に退店している。

そろそろ深夜番のスタッフが出勤してくる時間だし、引き継ぐレジ金に過不足がないか確認しておくか。

次のスタッフが来るまでに、レジの売上金や釣銭に使用する準備金に誤りがないよう紙幣や小銭の枚数を数えておかねばならないのだ。行動に移そうとした時、佐々木さんが今日何度か腰を叩いては疲れた表情を見せていたことを思い出した。

佐々木さんは四十代後半で未婚だが、婚活の為にお稽古事を始めたことなどを明るく話してくれる気さくなおじさんだ。昨日はお見合いパーティーで知り合った女性と山登りをしてきたと言っていたから、きっと低い姿勢での商品陳列はつらいだろう。遼は店内を見回すと、ゼリーやヨーグルト等の賞味期限をチェックしていた佐々木さんに駆け寄った。

「佐々木さん。もう廃棄確認終わりますよね? そしたら俺と陽平で陳列やっちゃうんで、レジ金のチェックお願いしてもいいですか? 再確認は俺がやりますから声掛けてください」

笑顔でそう告げると佐々木さんは「ありがとう」と言って、レジに向かって行った。小銭の枚数を数える為のコインケースもデスクに用意しておいたので、しゃがむ動作はしなくて済むだろう。

「今日は俺が過不足チェックやりたかった」とぶつぶつ言う陽平を小突き、お菓子やカップラーメンのコーナーを任せて、遼はお弁当やパックジュースのコーナーに手を掛けた。賞味期限が迫っているものが手前に来るよう並べ直していく。

ある程度並べた時点で佐々木さんから声が掛かり、遼の手でもレジ金の枚数を確認した。誤差もなく、安心したところで佐々木さんには早退を勧めた。

定時まで残り二十分程ではあるが、あまりにもつらそうな表情とこれからも強まりそうな雨足を見ると無理はして欲しくないと思ってしまったのだ。

佐々木さんも最初は遠慮をしていたが、遼の「明日も出勤なんでしょう?」という一言に折れてくれたようだった。挨拶を済まし、残りの陳列に取り掛かろうとした時にスナック菓子のコーナーからガタッという破壊音が聞こえた。

レジから死角になっているそこを、数歩進んで見に行くとやってしまったというように額に手を当てながら項垂れている大きな影が一つ。

「また派手にやったな」

遼がそう声を掛けると、棚が外れて雪崩を起こしたのであろうポテトチップスの袋が散らばる中から、眉を八の字にさせている陽平が情けなくこちらを向いた。

「そんな顔するなよ」

「…奥のを取ろうと思ってちょっと力掛けただけだぜ…」

「わかってるよ。ほら、今は客いないし早いとこ片付けようぜ」

「そうだよな! 女の子とかみんなダイエットしたがってこんな夜中にお菓子なんて買いに来ねえよな? でもさ、夜中でも何でも美味しそうにニコニコ食べてる方が可愛くない? 一緒に食べながら『そっちも一口ちょうだい!』みたいな」

「ああ、それで付き合った女の子に『一緒にいると太る!』って言われてフラれるのが陽平のパターンだっけ?」

「今のすっげぇ傷抉られた。俺もう無理。帰っていい?」

「いいから早く棚戻せって」

その時、来客を知らせる音楽が店内に響いた。

やばい。

棚も床はまだ散らかっており、煩い客だと指摘してくることだってある。いや、指摘ならまだいいが、クレームに発展することもあるのだ。

二人は屈んでいる為に客の姿は見えないが、コツコツと足音が近づいてくる。

出来ればお菓子コーナーに用がない人であって欲しいと願ったが、その願いは儚く散り、足音はきれいに二人の背後で止まった。苦情を言われるより先に謝ってしまおうと、陽平と遼は顔を見合わせて勢い良く立ち上がり、足音の主に向けて頭を下げた。

「散らかしていてすみません! すぐ片付けますから!」

そう告げるも相手から反応は無い。

恐る恐る顔を上げると、子供の頃に読んだ童話のお姫様みたいな女の子が、斜めに崩れて空の状態になっている棚を眺めながら立っていた。



横顔しか見えないが、鎖骨あたりまでの艶やかしい真っ直ぐな黒髪も、雪みたいな白い肌も、口紅は塗っていないだろうピンク色の唇も、大きな瞳を飾る長いまつげも、ふわふわしたコットン素材の白いワンピースも…



全てがこの世のものではないと思わせるほど綺麗で、遼と陽平は見事なまでに目を奪われていた。
「やべえ……」

陽平がぼそっと呟くと、目の前の少女はスローモーションのようにゆっくりと遼達を視界に捉えた。

瞬間、今まで見えなかった少女の左目に掛けられている真っ赤な眼帯がこちらを向く。パッツンに切り揃えられた前髪の下、毒々しいほどに真っ赤なそれ。

あまりにも異様な雰囲気に遼達は次の言葉を発せず、ただ立ち尽くしていた。

少女が訝しげに右目を細め、威圧するかのように腕を組んで指をとんとんと叩き出した時、沈黙を破ったのは陽平だった。

「えっと、何をお求めでしょうか?」

身長が百五十センチあるかないかと思われる少女に対して、目線を合わせるように片膝をついて尋ねる。

「…コンソメパンチ」

「……」

「…聞こえないの?」

予想以上に透き通った声に、再び思考が奪われてしまっていた。

少女は怪訝そうに陽平を見つめると眉間に皺を寄せて、陽平の後ろで黙る遼に視線を向けつつ再度口を開く。

「ねえ。コンソメパンチ、ないの?」

「えっと…コンソメパンチって、あの?」

陽平と同じく片膝をついて、今度は遼が聞き返した。

「ポテチのコンソメパンチでいいのかな?」

「…ポテチ以外でコンソメパンチがあるの?」

「あ、それもそうか。ちょっと待ってね、今…」

「二人して跪いたりして馬っ鹿みたい」

「…は?」

「どこの王子気取り? あるかないかだけハッキリ言いなさいよ。こんな短時間に『コンソメパンチ』って何度も言わされたの初めてだわ!」

思い掛けない毒舌攻撃にこれまた間抜けな反応をしてしまった。

遼の言葉を遮って捲し立てる姿はお姫様なんて可愛いものじゃなく、威圧感たっぷりの女王様のようである。

呆然とする遼を余所に組んでいた腕を解き、腰に手を当てながら「役立たず」だの「耳腐ってんじゃないの?」などと言い続けている少女。

すると、その様子をじっと見ていた陽平がにんまり笑ってパチンと指を鳴らした。