「とりあえず、伸びた鼻の下元に戻せよ。それに彦星と織姫って年に一回しか会えないっていうけど、あれって変だと思うんだよ。だってさ、」
「ちょい待った!」
言いかけたところで陽平からストップの手が出される。
「その先は絶対俺のロマンチックな夢を壊す発言が待ってるだろ! 何も言うな! ていうか言わないで!」
バスケットボールやバレーボール経験者と間違われるほどに背が高く、ガタイの良い男が全身で聞くことを拒否している。この様はなんて可笑しいんだろう。
足元は若干内股になっているし、少女漫画のヒロイン気分に浸っているかのような仕草に思わず吹き出してしまった。
「陽平、マジでオカマ目指した方がいいよ」
「だってぇー、遼君がアタシの夢壊そうとするからぁ」
「あ、やばい。なんか寒気してきた。気持ち悪い」
「おいおい、折角ノッてやったのにそういうこと言っちゃう? 可愛いとか言えないの?」
「はいはい、悪かったよ」
「気持ち込もってねぇし…」
「悪かったって。それに…、俺も雨は早く止んで欲しいからな」
遼は外に目を遣るとつきんと痛む胸に手を当て、「まだ痛んで当然だ」と言い聞かせるように数回叩いた。とんとん…とんとん…と。
時計の針も進み、時刻は二十二時半。
その間に来た客は一人だけだった。缶ビールとつまみを買って早々に退店している。
そろそろ深夜番のスタッフが出勤してくる時間だし、引き継ぐレジ金に過不足がないか確認しておくか。
次のスタッフが来るまでに、レジの売上金や釣銭に使用する準備金に誤りがないよう紙幣や小銭の枚数を数えておかねばならないのだ。行動に移そうとした時、佐々木さんが今日何度か腰を叩いては疲れた表情を見せていたことを思い出した。
佐々木さんは四十代後半で未婚だが、婚活の為にお稽古事を始めたことなどを明るく話してくれる気さくなおじさんだ。昨日はお見合いパーティーで知り合った女性と山登りをしてきたと言っていたから、きっと低い姿勢での商品陳列はつらいだろう。遼は店内を見回すと、ゼリーやヨーグルト等の賞味期限をチェックしていた佐々木さんに駆け寄った。
「佐々木さん。もう廃棄確認終わりますよね? そしたら俺と陽平で陳列やっちゃうんで、レジ金のチェックお願いしてもいいですか? 再確認は俺がやりますから声掛けてください」
笑顔でそう告げると佐々木さんは「ありがとう」と言って、レジに向かって行った。小銭の枚数を数える為のコインケースもデスクに用意しておいたので、しゃがむ動作はしなくて済むだろう。
「今日は俺が過不足チェックやりたかった」とぶつぶつ言う陽平を小突き、お菓子やカップラーメンのコーナーを任せて、遼はお弁当やパックジュースのコーナーに手を掛けた。賞味期限が迫っているものが手前に来るよう並べ直していく。
ある程度並べた時点で佐々木さんから声が掛かり、遼の手でもレジ金の枚数を確認した。誤差もなく、安心したところで佐々木さんには早退を勧めた。
定時まで残り二十分程ではあるが、あまりにもつらそうな表情とこれからも強まりそうな雨足を見ると無理はして欲しくないと思ってしまったのだ。
佐々木さんも最初は遠慮をしていたが、遼の「明日も出勤なんでしょう?」という一言に折れてくれたようだった。挨拶を済まし、残りの陳列に取り掛かろうとした時にスナック菓子のコーナーからガタッという破壊音が聞こえた。
レジから死角になっているそこを、数歩進んで見に行くとやってしまったというように額に手を当てながら項垂れている大きな影が一つ。
「また派手にやったな」
遼がそう声を掛けると、棚が外れて雪崩を起こしたのであろうポテトチップスの袋が散らばる中から、眉を八の字にさせている陽平が情けなくこちらを向いた。
「そんな顔するなよ」
「…奥のを取ろうと思ってちょっと力掛けただけだぜ…」
「わかってるよ。ほら、今は客いないし早いとこ片付けようぜ」
「そうだよな! 女の子とかみんなダイエットしたがってこんな夜中にお菓子なんて買いに来ねえよな? でもさ、夜中でも何でも美味しそうにニコニコ食べてる方が可愛くない? 一緒に食べながら『そっちも一口ちょうだい!』みたいな」
「ああ、それで付き合った女の子に『一緒にいると太る!』って言われてフラれるのが陽平のパターンだっけ?」
「今のすっげぇ傷抉られた。俺もう無理。帰っていい?」
「いいから早く棚戻せって」
その時、来客を知らせる音楽が店内に響いた。
やばい。
棚も床はまだ散らかっており、煩い客だと指摘してくることだってある。いや、指摘ならまだいいが、クレームに発展することもあるのだ。
二人は屈んでいる為に客の姿は見えないが、コツコツと足音が近づいてくる。
出来ればお菓子コーナーに用がない人であって欲しいと願ったが、その願いは儚く散り、足音はきれいに二人の背後で止まった。苦情を言われるより先に謝ってしまおうと、陽平と遼は顔を見合わせて勢い良く立ち上がり、足音の主に向けて頭を下げた。
「散らかしていてすみません! すぐ片付けますから!」
そう告げるも相手から反応は無い。
恐る恐る顔を上げると、子供の頃に読んだ童話のお姫様みたいな女の子が、斜めに崩れて空の状態になっている棚を眺めながら立っていた。
横顔しか見えないが、鎖骨あたりまでの艶やかしい真っ直ぐな黒髪も、雪みたいな白い肌も、口紅は塗っていないだろうピンク色の唇も、大きな瞳を飾る長いまつげも、ふわふわしたコットン素材の白いワンピースも…
全てがこの世のものではないと思わせるほど綺麗で、遼と陽平は見事なまでに目を奪われていた。
「やべえ……」
陽平がぼそっと呟くと、目の前の少女はスローモーションのようにゆっくりと遼達を視界に捉えた。
瞬間、今まで見えなかった少女の左目に掛けられている真っ赤な眼帯がこちらを向く。パッツンに切り揃えられた前髪の下、毒々しいほどに真っ赤なそれ。
あまりにも異様な雰囲気に遼達は次の言葉を発せず、ただ立ち尽くしていた。
少女が訝しげに右目を細め、威圧するかのように腕を組んで指をとんとんと叩き出した時、沈黙を破ったのは陽平だった。
「えっと、何をお求めでしょうか?」
身長が百五十センチあるかないかと思われる少女に対して、目線を合わせるように片膝をついて尋ねる。
「…コンソメパンチ」
「……」
「…聞こえないの?」
予想以上に透き通った声に、再び思考が奪われてしまっていた。
少女は怪訝そうに陽平を見つめると眉間に皺を寄せて、陽平の後ろで黙る遼に視線を向けつつ再度口を開く。
「ねえ。コンソメパンチ、ないの?」
「えっと…コンソメパンチって、あの?」
陽平と同じく片膝をついて、今度は遼が聞き返した。
「ポテチのコンソメパンチでいいのかな?」
「…ポテチ以外でコンソメパンチがあるの?」
「あ、それもそうか。ちょっと待ってね、今…」
「二人して跪いたりして馬っ鹿みたい」
「…は?」
「どこの王子気取り? あるかないかだけハッキリ言いなさいよ。こんな短時間に『コンソメパンチ』って何度も言わされたの初めてだわ!」
思い掛けない毒舌攻撃にこれまた間抜けな反応をしてしまった。
遼の言葉を遮って捲し立てる姿はお姫様なんて可愛いものじゃなく、威圧感たっぷりの女王様のようである。
呆然とする遼を余所に組んでいた腕を解き、腰に手を当てながら「役立たず」だの「耳腐ってんじゃないの?」などと言い続けている少女。
すると、その様子をじっと見ていた陽平がにんまり笑ってパチンと指を鳴らした。
「俺、君が怒ってる理由わかった!」
いきなり何を言うんだこいつは。
サスペンスドラマでこれから犯人を解き明かす探偵のような雰囲気の陽平に、遼は嫌な予感しかしない。
「こうやって俺達がしゃがんだのが子供扱いされた気がして勘に触ったんだろ? お兄さん達は接客する時のマナーでやったんだけど、ちっこくても女だもんな! 悪かった! ごめんな!」
にかっとした邪気の無い笑顔で、少女の頭をガシガシと無遠慮に撫でている陽平に店内の空気が止まった気がした。
このバカ、余計怒らせるようなことを言いやがって。
しかし、乱暴に撫でられて乱れてしまった髪をそのままに、少女は顔を上げて意外にもにこっと微笑んだ。それは棘々しい薔薇の花が可憐なチューリップにでも変化したような柔らかい笑顔で。
鈍感な陽平の読みが珍しく当たったのだろうかと、遼は納得は出来ないまでも胸を撫で下ろした。
…が、次の瞬間。少女は陽平の股間を思いっ切りバコッと蹴り上げて言い放った。
「本っ当に馬鹿ばっかりね! もういいわ!!」
床に転がって悶える陽平が「待て!」と力無く叫んだが、ぴたりと立ち止まった少女は唇の片端だけを持ち上げて、見事なまでにしてやったり顔をしている。
「もう一発欲しいなら戻ってあげるけど?」
皮肉たっぷりの一言を残して、少女は振り返ることなく店を出て行った。遼は呆気に取られていたが我に返り口元を手で覆う。
「すげえ女……ん?」
ふと外の傘立てに目をやると真っ赤な傘が一本残っている。先程の少女の物だろうか。
だとすれば、ざあざあと降り続いているこの雨の中をどうやって帰っているのだ。
「マジかよ…」
遼は軽く頭を掻いてから今だに悶えている陽平を跨ぎ、その手で傘を引っ掴んで店を飛び出した。
だが、通りを見渡しても既に少女の姿はなかった。店を出ればすぐに分かれ道となっているので、どちらに進んだかなどわかるはずもない。全身濡れてしまった状態で店へ戻ると、いつの間に来たのか、深夜番のスタッフ二人が床に転がっている陽平を見て笑っていた。
「あ、篠田君、お疲れ様。もう二十三時だから上がっていいよ。ていうか塚原君が変なのはいつものことだけど、篠田君も傘持ってるのに何で濡れてるの?」
「ああ…急に嵐が来っていうか…」
「え?」
「いや…これ今出てったお客さんの忘れ物で。とりあえず追い掛けたんですけど、足の速い人だったみたいです」
遼は軽く傘を掲げて、返せませんでしたという仕草をした。
「へえ、こんな大降りなのに変な客だね」
「ええ、本当に」
「それに傘って引き取りに来る客少ないしさ。まあ月末にでもまとめて処分するから、拾得物入れの中にでも突っ込んどいてよ。奥にあるの知ってるでしょ?」
「わかりました。それじゃあお先に失礼します。あ、あと佐々木さんなんですけど、腰痛そうだったんで早退してもらいました。後でタイムカードで確認してください」
「了解。じゃあ、お疲れ様」
「はい、お疲れ様です。陽平、帰るぞ」
「うぅ…」
唸る陽平に声を掛けて足早にバックヤードへ向かうと、ロッカー横にある『拾得物用』と黒いマジックで書かれたダンボール箱に赤い傘を突っ込んだ。
ちょうど鞄に入れていたタオルで身体を拭き、着替えを済ませてからヘアワックスをつけるが濡れた髪ではやはりきまらない。
だが、ここ一週間ほど続いていた苛立ちは不思議なほど感じなかった。
───それよりも、あの少女のことが頭から離れない。
拾得物入れを見遣り、少女の眼帯と同じく熟した苺のように真っ赤な傘を、こっそり自分のロッカーにしまった。
物凄く整った綺麗な容姿で、物凄い睨みを利かせて、物凄い毒舌を巻いて、赤い眼帯よりも強烈な印象を残して帰っていく。
荒れ狂う大型台風のような女の子だと思った。
今日、あの曲がり角で飛び出してきた女の子が眼帯の少女だったなら、一体どんな反応をされたのだろうか。
「ったく…なんだっていうのよ。あの馬鹿男っ!!」
ああ、もう、本当にむかつく。
全身ずぶ濡れになりながら三センチ程しかない靴のヒールをカツカツと鳴らし、競歩の如くスピードで歩く高崎真白の心の中は荒れ模様どころではない。
地面を撃つような雨の中買い出しに行ったにも関わらず、客の要望も汲めない馬鹿な店員のせいで目当ての商品も手に出来ず、仕舞いにはその店に傘まで忘れて出て来てしまったのだ。
勿論店を出てすぐに気がついたが、取りに戻るなんてかっこ悪いところをあの店員に見られたらと思うと引き返せず、今に至る。
「あの男…もう一発と言わず、もう二~三発入れてやれば良かったっ!!」
苦虫を噛み潰したような表情で握った拳に力を込め、真白は歩みを更に速めた。
辿り着いた先にはオートロック式の高層マンション。
エントランスの佇まいからして高級感漂うそこを臆することなく突き抜け、扉の前にあるキーボードで認証番号を押す。苛立っていたせいか一度押し間違えてしまったが、舌打ちしながら行なった二回目の入力で自動ドアが開くと、運良く一階に止まっていたエレベーターに乗り込み最上階のボタンを押した。
エレベーターが到着したフロアには厳かなフローラルブーケや絵画が飾られており、まるでロココ調を意識したホテルのロビーのようであるが玄関扉は一つしかない。真白はそこにカードキーを差し込み、カチリという音と同時にバンッと乱暴にドアを開けて財布を床に投げつけた。すると。
「おかえりー! 早かったね!」
玄関から一番近い真白の部屋のドアが開き、栗色のショートボブを揺らしながら横山結衣が顔を出した。すると真白の恰好を見て目を見開く。
「ちょ、ちょっと! さっき傘持って行ったでしょ!? なんでそんなずぶ濡れなのよ!?」
「馬鹿男一号と二号のせい」
「はあ?」
「だから、馬鹿男一号と二号のせい!」
「んー…よくわかんないけど、とりあえずタオル持ってくるから待ってて!」
「いいよ。着替えるし、いらない」
「だめ! 風邪引くからシャワーも浴びなさいよ!」
床が水浸しになることも気にせず、そのまま室内に上がろうとする真白をなんとか制した結衣は、素早く洗面所から持ってきたふかふかのタオルを真白の頭に被せると、軽く髪の水気を拭き取ってやる。その間もシャワーを浴びなさいと言われた真白は、叱られた子供のように唇を尖らしながら渋々バスルームへと足を向けた。