「月夜様」

 呼び止められて、月夜は振り返らずに立ち止まった。

「無理しなくて…ええんですよ。なぜそないに我慢してはるんです?」

「……何のことだ」

 背中越しに彼の気配を感じながら、月夜はわずかに緊張を走らせていた。

「白童様が、月夜様の大切な方やいうのは存じてます。そんな人を失って、悲しくないわけあらしまへん。そやけど、月夜様はまだ…泣かれてへんでしょう?」

 震えそうになる手をギュッと握りしめて、月夜はこれ以上なく冷淡に云い返した。

「泣いている暇などない。私には月読として、側使としてすべきことがある。悲しんでいてそれが務まるほど甘い役目ではない。いらぬ気遣いだ…」

 表面上は気丈に振る舞えたが、内心は動揺せずにいられなかった。
 事実はイシャナが思うほど易い状況ではなかった。
 しかしそれを悟られるわけにはいかない。

――私は曲がりなりにも帝の側使。他人に弱みを晒すなどあってはならない。

 そんな月夜を映していた暗色の瞳が、憐れみの光を宿した。

「泣きたくなったら、いつでもこの胸貸しますよって…」

 イシャナの小さなつぶやきはしかし、足早に去っていく月夜には届かなかった。
 帝の執務室に向かいながら、月夜は十六夜のことを考えていた。
 宮中で信頼できる相手はもう、十六夜以外に存在しない。
 もし白童が危惧した通り、彼に何かが起きれば、それこそこの国の根本を揺るがすことにもなる。
 なにを差し置いても、今は帝を守ることが月夜の唯一の使命だった。

「月夜!」

 執務室に入った途端、重厚な雰囲気の中で一人異彩を放つ、月夜と同じくらいの少年が声をあげた。