手際よく次々と材料を仕込んでいく手つきからして慣れている感じが伝わる。そんな叶子の様子にジャックは感心しつつ、邪魔にならない程度に叶子の手伝いをした。

 たまねぎの皮をピーラーで剥こうとする位の残念な知識しか持ち合わせていないジャックの事だ、そんな彼が手伝うと言っても『〇〇取って』や『火止めて』、『お皿出して』と言った類ではあるが、一緒に食事を作っている感がしてジャックはかなり満足していた。


 横に立ち、見事な手さばきで何やら次々とおいしそうなものを作り上げる彼女の手元を見ながら、ふと思い立ったことを訊ねた。

「女の子ってさ。手料理振舞うのを嫌がる子の方が多いのに、君は全然平気なんだね」

 そのセリフにトントントンと綺麗なリズムを刻んでいた手が、一瞬ピタッと止まる。伏せられていた睫毛がピクリと震えたが、すぐに気を取り直し手元に視線を向けた。

「そう、ですね。――あ、でも私は学生の頃にアルバイトで少しやってたのであんまり抵抗ないのかも知れません。……あ、人参とって貰っていいですか?」

 まるで何も気にしていないかの様な台詞だったが、明らかに叶子の顔つきが曇っていた。その証拠に、ジャックに対する叶子の口調が敬語に戻っている。
 ようやく仕事を忘れ、普通の恋人同士の様になれたのに、とジャックは残念な気持ちで一杯になった。

「はい」
「有難う御座いま、す……って、あ、ちょ」

 何とかして叶子の機嫌を直そうと、ジャックは人参を渡すと同時に背後から叶子をそっと抱き締めた。

「も、もう、危ないから邪魔しないで」

 ジャックの作戦が成功したのか、動揺した叶子の口調は元に戻っている。その事が嬉しくてジャックの口元がフッと緩み始める。
 そして、叶子の肩を包み込むようにして、抱き締める力を更に強めた。

「もしかして……、妬いちゃった?」

 抱き締める力が強まれば、必然的に互いの距離も狭まる。掠れた声でジャックはそう呟くと、叶子は肩をピクリと竦めた。

 叶子がほんの少し横を向くだけで、口唇が触れ合いそうな距離。みるみる叶子の頬が朱に染まっていく様を見ていると、最初はそんなつもりで抱き締めたわけじゃないのに、妙に期待をしてしまう。初めて振る舞ってくれる叶子の手料理を味わうよりも先に、叶子自身を味わいたい。そんなどうしようもない欲望が沸いてくるのを必死で抑えようとした。

 そんな風にジャックが思っているとは知らず、叶子は自分の顔をジャックに見られたくないのか、髪で顔を隠すように俯きひたすら自分の手元を見ていた。

「な、なんで??」
「だって、女の子に料理作ってもらおうとした事が何度もあるって今思ったでしょ?」
「お、思ってっ――」
「ナイ?」

 顔を向けることが出来ない所為でジャックの今の表情は窺い知れないが、声のトーンで嬉しそうにニヤニヤと笑っているだろうと言うのが嫌でも判る。
『ちゃんと正直に言ってくれたら、ご褒美を上げるよ?』とか言って、叶子を焚き付けるのだからたまらない。
 まんまと彼の言った科白に激しく動揺した叶子は、彼の言う『ご褒美』は一体なんなのかが知りたくなった。でも、そのままなし崩しになってご飯が作れなくなってしまうのはそれはそれで困る。
 嘘を言ってこの場を切り抜けた方がいいのか否かを迷っている叶子の耳元に、又彼の掠れた声が降り注がれる。

「──しまいました!」

 もう色々と限界まで来てしまったのか、叶子は潔く言い切った。

「素直でよろしい」

 クスリとジャックが微笑む声まで聞こえる。彼から与えられるご褒美は一体何なのか期待で胸を膨らませていると、更にぎゅっと抱きしめながら彼の大きな掌が頭を撫でつけた。撫でている手でそのまま髪を掻き揚げ、あっけなく叶子の赤くなった横顔が暴かれてしまう。

「……っ」

 遠慮なく注がれる彼の視線が、更に己の身体を火照らせる。見られていると思えば思う程心臓が早鐘を打ち、耐え難い羞恥に目を硬く閉じた。

「──耳、真っ赤だよ?」
「っっ!? ……もっ、もうっ! いいからあっちへ行ってて!!」
「あははっ、……うぅっ」

 叶子のリアクションがが自分が思っていた通りだったからなのか、鳩尾に肘鉄を食らいながらもジャックはどこか満足そうに笑っていた。


 ◇◆◇

「ふぅーっ、おいしかったー。ご馳走様でした!」
「はーい」

 叶子が立ち上がり、彼の分のお皿も重ねると彼はグラスを集め始めた。

「凄い料理上手だね。お店で食べてるみたいだ」
「お店でだしてたからね」
「あぁ、そっか」

 他愛のないやり取りをしては大きな声で笑う。こんな何気ない事にも幸せを感じる。
 誰の目も気にする必要がないと言うのは、こんなに気持ちに余裕が出るものなのであろうか。
 つい数時間前まで感じていた自分の気持ちを考えると、百八十度違う今の気持ちに改めて驚かされた。

 洗い物を一緒に片付け、先に役割を終えた彼はソファーで本を読みながらくつろいでいる。全ての片付けを終えた叶子が今度はちゃんとジャックの横に腰を下ろす。チラッと叶子を見たジャックは本を読みながら叶子の肩に手を回し、そのままそっと引き寄せた。

 テレビも音楽もないこの部屋は、とても静かで薪がパチパチと弾ける様に燃える音しか聞こえない。ゆるりと流れる時間がこれ程までに心地良いものなのだと、叶子は初めて知った。叶子でもそう思うのだから、いつも仕事に追われているジャックはより格別なものに感じるだろう。
 都会の喧騒から少し離れるだけで、これ程までに人の心に余裕を与える事が出来るのかと思うと、ジャックが一人でここに来る気持ちがわからなくも無いなと叶子は思った。

「──?」

 背中を反らし彼の向こう側に見える大きな窓から外の景色を見てみると、無数の星が綺麗に輝いているのが見えた。
 その彼女の視界に同じく背を反らした彼が割り込んできて、

「星でも見る?」

 眼鏡を取って読みかけの本をテーブルに置くと、スクッと立ち上がり彼女に手を差し出した。


 ◇◆◇

 ジャックの手に導かれ、屋根裏へと続く梯子の前で立ち止まる。
 彼が先にそのはしごによじ登り天井の扉を押し上げると、ひんやりと冷たい空気が流れ落ちてきた。
 屋根裏へと続く扉をジャックが潜り抜ける。聞こえて来る足音により、ジャックがあっちへ行ったりこっちへ行ったりとうろうろとしている様だった。

「どうかしたの?」

 叶子が下から声を掛けると、梯子の上からジャックの姿が現れた。

「上がってこれる?」
「うん」

 梯子につかまり少しづつ登っていくが、見てるのとやってみるのとでは大違いで傾斜の無い梯子は少しでも油断すると下に落ちそうになる。
 子供の頃はこれ位ならひょいひょいっと登れたのでそんな風に思いもしなかったが、大きくなっってしまったこの身体は、ちゃんとここにも重力があるのだと言う事を証明していた。

 上まで上りきった時に差し伸べられた手に掴まり、ようやく屋根裏部屋へ上ることが出来た。すると、いきなり目に飛び込んできたのは大きな天窓だった。
 窓の枠が額縁の代わりとなり、光り輝く無数の星たちがまるで一枚の美しい絵の様にも見える。自然が作り出す美しさに圧倒された叶子は、あまりの美しさに動く事も話す事さえも忘れてしまっていた。

「ここに来る人は皆そんな顔するなぁ」

 何気なく呟いた言葉だったが、すぐに『しまった!』と言うような顔をして慌てて付け加える。

「あ! そ、そう言う意味じゃないよ?」
「……。――え?」

 また、何人もの女性をここに連れてきて口説いていると思われたのかもと、余計な心配をしているジャックに構う事無く、当の彼女は目の前に広がる素晴らしい光景に感動していて彼の話を全く聞いていなかったのか、赤くしたジャックの顔を見て首を傾げた。

「え、えーっと、あ! こっちおいで。天井低いから頭ぶつけないように気をつけて」

 先に彼がスイッチを入れてくれていたのか、赤々と暗い部屋を照らしているストーブと、その前には大きなクッションが二つ並べられている。一人で先に上がってうろうろしていたのはこの為だったのかと言う事が判り、何気ない彼の優しさに触れて嬉しくなった。
 言われるがままに座ると、大きなブランケットを広げながら横に寄り添う様にジャックが座り温かいブランケットが二人を包み込んだ。

「……暖かい」
「……ん」

 どんな暖房器具よりも人のぬくもりが一番あったかい事を実感する。
 ジャックの胸に頭を預けると、彼の心臓の音がトクントクンと小さく刻むのが判った。

 彼の甘い香りに包まれながら、満天の星空をただ黙って見上げていた。