駅からタクシーに乗り込み、約一時間。到着した場所は一面の銀世界に一際映える大きなログハウスの前だった。

「さあ、着いたよ」
「わぁ……」

 寒いはずなのにとても暖かそうなぬくもりを感じさせられる様な趣のある建物で、大きな窓からは暖色系の明かりがこぼれ落ち、屋根にある煙突には煙が上がっている。
 まるで絵本の中に紛れ込んでしまったかの様なその建物に、自然と心が浮き足立った。

 中に入ると想像通りの内装だった。
 あちらこちらに大きなぬいぐるみや木製のおもちゃ、壁には小さな子供を題材にした絵があちらこちらに飾られていて、きっと、彼が三人の子供達を連れて一緒に来たりするのだろうと、楽しそうにしている家族団らんの様子が目に浮んだ。

「ここは僕の隠れ家なんだよ」
「隠れ家?」
「そう、誰にも邪魔されずにゆっくりする為の家だよ。家族や友人達と……たまに一人でもここに来るんだ。この家にはパソコンも無ければ携帯の電波も届かない。電話は一応あるけどここの番号を知ってる人は誰もいないんだ」

 ――『ね? 素敵な所でしょ?』
 そう言ってウィンクをする彼とは対照的に、叶子は別の事が気に掛かった。

「万が一の事があったらどうするの?」

 駅からも随分距離があるし、それより何よりも文明の利器とも言える携帯電話やネットが使えないほど山深いこんな場所で、何かあったらどうするのだろうか。それこそ雪崩とか、散歩中に熊と遭遇、とかあったりしたらたまったもんじゃない。
 叶子の心配も余所に、ジャックはよし来たとばかりにこの家のシステムについて説明を始めた。

「この山の麓(ふもと)にこの家を管理してくれるスタッフがいてね。皆、何かあったらそこに連絡する様になってる。そこのスタッフだけが唯一ここの電話番号を知っていて、緊急時のみここに電話してくるんだ。勿論、自然災害のおそれのある時なんかは、ここは使えないし、君の心配している熊なんかに遭遇しないようにこのエリアには赤外線が張られていて、反応したらすぐに映像が飛んでスタッフが駆けつけてくれるんだよ」
「へー、凄い」
「で、そのスタッフに今日僕が行くって言っといたから、ある程度必要な物は揃っているはず」

 進んでいるのか進んでいないのか良くわからないと思いつつも、ひたすら感心している叶子に対し、『意外に心配性なんだね』とジャックは笑っていた。
 天然木のいい香りが漂う廊下を二人で進めば、大きな二枚扉が現れる。彼が片方の扉を開けた途端暖かい空気が流れ出し、冷えていた筈の身体が一瞬で温かい空気に包み込まれた。

 暖炉には薪がくべられていて、パチパチと音を立てている。
 少し離れた場所に設置されたテーブルの上には、シャンパンとフルーツ、チーズなどが暖炉の熱で温まってしまわないように氷を下に張って用意されていた。

 長椅子に座った彼が手際よくシャンパンを抜くと、それをフルートグラスに注ぎ始める。対面に腰を下ろした叶子をチラッと見ては、何故かクスクスと笑っていた。

「何?」
「いや、……だって。―ープッ」
「っ!」

 明らかにムッとした表情に変わった叶子を気にしつつも、とりあえず二人分のシャンパンをグラスに注いでいる。注ぎ終わるとボトルをシャンパンクーラーに戻し、テーブルの上にグラスを二つ並べた。

「カナ。こっちへおいで、不自然だよ」

 ジャックは自分が座っている横をポンポンと叩いた。
 その科白を聞いてやっと、彼が笑っていた意味がわかった。確かについさっきまでは彼の横に座ってずっと手を握っていたなと思い出し、叶子も少し苦笑いを浮かべた。

 彼の隣に腰を落ち着かせると同時にグラスを手渡される。

「さて、とりあえず乾杯しようか」
「何に乾杯するの?」

 特に深い意味もなく問いかけた言葉に、ジャックは『うーん』と唸っている。しばらく考えて、急に真顔になって叶子の目を真剣に見つめた。

「素敵な夜に……かな?」

 そう言うや否や、『ごめん、やっぱ無理!』と言って噴出した彼に、お互い大笑いしながら、チンっと小さな音をたててグラスを傾けた。


 ◇◆◇

 空になったシャンパンボトルをさかさまにひっくり返すと、シャンパンクーラーにずぼっと突っ込んだ。二本目を空けるつもりは無いのか、両膝に肘をつき下から叶子の顔を窺うようにしているジャックの視線を感じた。

「──さて、ゲームでもしようか」
「ゲーム?」
「うん、ここには誰も居ないって言ったよね?」
「うん」
「と、言う事は――」
「と言う事は??」

 口元に人差し指を置いてなにやら上目遣いで叶子を見つめる。妙に艶っぽいその表情にドクンッと心臓が一つ大きな音を立てた。彼が何を言おうとしているのか良くわからないが、焦らされれば焦らされるほどに妙な汗が吹き出てくるのがわかった。

 見詰め合う事に耐え切れずに視線を逸らし、羽織っているカーディガンの前をかきあわせた。

「誰も居ないという事は……、食事を作ってくれる人も居ないって事なんだよ?」

 予想していたのとは全く違ったその科白に、叶子は大きく目を見開きながらジャックの顔を覗き込んだ。
『さあどうする?』と言いたげな彼の表情に、勝手に勘違いして不謹慎な事を考えていた自分が本当に恥ずかしい。
 かぁっと頬が熱くなるのを感じながら、空々しく会話を続けた。

「あっ、ああ、そうね……。で、ゲームするのと食事を作ってくれる人が居ないって言うのと、一体何の関係があるの?」

 その言葉を待ってましたと言わんばかりに、ジャックは満面の笑みを見せた。

 ◇◆◇

「ああ~ちくしょう! 負けちゃったよー!」

 手にしたカードを空に放り投げると、大の字になって寝転んだ。ばら撒かれたカードを拾いながら叶子は勝ち誇った顔をしている。

「じゃあ、ご馳走お願いしまーす」
「……はーい」

 渋々起き上がると、頬を膨らませながら一緒にカードを拾い集めた。



 キッチンに立った彼は顎と腰に手を置き、冷蔵庫の中にあった沢山の食材をカウンターに並べ、今宵のディナーメニューを考えている。

「うわぁー、凄い沢山材料あるのね」
「うん。でも、生の鴨肉とか……絶対使わなくない?」
「そ、そうね」

 彼がキッチンに立つのを見る日が来るとは想像もしていなかったが、様子を見ているとかなりおもしろい。
 細身のブラックスーツのジャケットを脱ぐと、ピンと立ち上がったボタンダウンの白襟に黒地の細いグレーのストライプが入ったクレリックシャツのボタンを開けて首を寛げると、ダブルカフスに付いているクリスタルとブラックダイヤモンドのスワロフスキーのカフリンクスを一旦外して袖を捲った。
 体の細さの割に太くて筋張った二の腕が、中性的な彼の“男らしい”部分が垣間見えて思わず溜息が零れ落ちる。
 立っているだけでも優雅な佇まいを魅せている彼が、たまねぎと皮むき器を手にして皮を剥こうと必死になっているその危なっかしい手つきが、とても新鮮でとてもおもしろかった。

「ねぇ、たまねぎの皮ってどこまでが皮なのかなぁ?」

 首をかしげながら、どんどん皮むき器でたまねぎを削っていく。

「――プッ」

 そんな彼の様子を黙って見ていたが、とうとう耐え切れずに噴出してしまった。
 ケタケタと笑いながらカウンター越しに彼の手からたまねぎを取り上げる。

「あははっ、たまねぎは皮むき器で皮をむくもんじゃないのよ?」

 小さな子供に教えるかのようにそう言うと、カウンターの中に入って来て水を張ったボウルにたまねぎを入れた。

「?」
「たまねぎの皮はね、水に少し浸してから剥くと剥きやすいのよ」

 そう言って微笑むと次々と食材を準備し、さっきの彼と同じように顎と腰に手をやった。
 きょとんとしている彼に視線を向け、

「私が作ります。あなたに任せるとゲームに勝ったはずのに、罰ゲームをさせられてる気分になり兼ねないもの」
「酷いなぁ!」

 仕事の時の厳しい表情と違って、ぷぅっと頬を膨らませている様子を見ていると、四十六歳のいい大人とは思えない程愛らしく、そしてそのギャップが叶子の心を虜にさせた。