いつか、眠りにつく日

 3階についてエレベーターから降りると、私は大きくため息をついた。

 不思議な気分だ。

 自分が死ぬ瞬間に思い描いた未練を、自分自身の手で解消しようとしている。しかも全部終わったときが私の『本当に死』を意味しているなんて。

 ナースステーションのカウンターに両肘を乗せてみる。

「あ、平石さんだ」
ステーションの中で何か書き物をしているのは、祖母である福嶋タキの担当の看護師だった。

「こんにちは~」
にこやかに挨拶をしてみせるが、当然のごとく平石は私の声に気づかなかった。

「おーい。おーい」

 叫んでみるが、心底むなしい。

「いい加減、現実を見極めなきゃね」
鼻からため息をこぼす。





 ナースステーションから視線を廊下にうつす。

 祖母の部屋は廊下の突き当たりだ。

 もう一度ナースステーションに目を戻す。

___?


 何かが視界に入ったような気がした。

 もう一度ゆっくりと廊下を見る。

 看護師が点滴台を運んでいる。その向こうには患者であろうパジャマの男性が歩いている。さらに、はしっこにある簡易ベンチに老婦人が腰掛けてこっちを見ている。

___こっちを見ている?

 パジャマ姿の老婦人、歳のころは70歳くらいだろうか。視線が私の目にあるような気がする。

 軽く右手を振ってみる。

 すると、彼女もこちらに手を振っているではないか。

「見えるんですか?」
思わず声をかけると、彼女は目をまんまるく開いたまま何度もうなずいた。



「うそ・・・なんで・・・?」

 すると彼女は老人にしてはすばやい動きでスクッと立ち上がると、小走りに私の横をすり抜けてエレベーターのボタンを押した。

 すぐにエレベーターの扉が開く。

「乗って、早く」
声を押し殺して彼女は手招きをした。

「私?」

「他に誰がいるの。気づかれる前に早く」

 その声に私はあわてて後に続く。

 扉が閉まると、私は彼女を見つめる。

「あの、おばあさん、私のことが見えているんですね?」
興奮が抑えられない私がそう尋ねると、彼女は私の目をじーっと見て、そして口を開いた。


「見えとるよ。あんた、幽霊じゃろ?」





 屋上には誰もいなかった。

 快晴の日差しが降り注ぐ中、たくさんのシーツが風を受けてはためいている。まるで海にたくさんのヨットが並んでいるみたいだ。

 手すりの方まで歩いてゆく老婦人に遅れまいとついてゆくが、思ったよりも彼女は足が速かった。

「ここまで来ればいいじゃろ」
手すりを背に、老婦人は向きを変えた。

「あの、どうして私が見えるんですか?」

「まあ、待ちなさいな」
彼女はポケットから煙草を取り出すと、火をつけて気持ち良さそうに白煙を宙に逃がした。
「あー、生き返るなぁ。あ、お前さんの前で言うのは失礼じゃな」

「・・・いいえ」

「しかし、この病院にあんたみたいな若い幽霊がいるとはな。名前は何て言うんだい?」








「森野蛍です」

 老婦人は、おかしそうに笑うと、
「もりのほたる、かい?おもしろい名前じゃな。わしは竹本トシっていうんじゃ」
と目を細めた。

「あの・・・」

「ああ、『何で見えるか?』じゃな。これは昔から。もうず~っと昔からいろんな幽霊を見てきたんじゃ。最近は歳のせいであまり見えなくなってきてたが、何年かぶりに見ることができたわい」

「私、成仏するために未練を解消しに来たんです」
横に並ぶように手すりの方へ歩くと、目線は景色に向けたまま私は言った。

「未練解消・・・か。昔よく話をした霊たちもそんなことを言っておったな。たったひとつの未練がなかなか見つからんで困っておった」

「え?未練は3つある、って言われましたけど」

 竹本トシは「へ?」と眉をひそめ、
「お前さんの案内人が3つって言ったのかい?」
と逆に聞き返した。





「はい。それでひとり目がここにいるって言われて」

「ちょっと待った」
右手を前に出し、
「相手の名前まで言ったのか、その案内人は」

「はい」

「・・・妙だな」
煙を大きく吐き出しながらつぶやく。
「昔は、未練がひとつって決まってたみたいじゃがな。3つに増えた代わりに名前まで教えるようになったのかもな。人間はどんどん貪欲になっているものじゃな」

「はあ・・・」
自分だって人間のくせに、そんなこと私に言われてもよく分からない。適当にあいずちをうつ。

「しかし、死ぬ前にこうやってもう一度幽霊を見ることができるとはな。長生きはするもんじゃ」
ガハハとシワを深くして笑う。






「おばあさん・・・竹本さんはここに入院しているんですよね?」

「ああ。もう5年になるな」

「そんなに・・・」
5年というと相当な時間だ。改めて竹本を見ると、確かに良いとは言えない顔色をしている。
話題を変えようと明るい口調で尋ねた。
「もしかして、私のおばあさんをご存知じゃないですか?一番奥の部屋にいる福嶋タキっていう名前です」

 すると、竹本は細い目を見開いてこちらを見た。その顔には、驚きの表情が表れていた。

「どういうことじゃ・・・これは一体・・・」
竹本は視線をそらすと、ブツブツと独り言のようにそう言った。

「なんですか?どうしたんですか?」
視線の先に回りこみながら尋ねる。

 それでもしばらく竹本はなにやら言っていたが、ついに観念したのかこちらを見た。






「森野蛍さんと言ったな・・・よくお聞き。あんたのおばあさん、福嶋タキさんは・・・死んだよ」

 その言葉はすんなりと頭に入ってきたが、思考が追いつかなかった。
「え?何言ってるんですか・・・?」

「もう1ヶ月くらい前じゃよ。福嶋タキさんが亡くなったのは」

「まさか。そんなはずは」

 私のつぶやきにかぶせるように竹本が続ける。
「タキさんには良くしてもらっててね。部屋を行き来してたんじゃよ。だから、タキさんが亡くなる時、私もそばにいたんじゃ」

 よほどひどい顔をして呆然としていたのだろう。竹本が心配そうな顔をして話を続けた。

「あんたの案内人、あやしいね。何かよからぬ魂胆があってあんたを連れまわしているんじゃないのかね」

 クロの顔を思い浮かべる。

 まだ知り合ったばかりなのに、確かに信じてしまっているところはある。よく考えたら、彼が善人だなんて、なぜそう思ったのだろう。



 足から力が抜けるような気がして私はその場に座り込んだ。

「何か悪事に巻き込まれてるんじゃないかい?」
頭から降る竹本の言葉にも反応ができなかった。

 ぼんやりと手すりの向こうの町並みを見つめる。

「だいたい、おかしいよ。未練の解消はひとりにつきひとつって決まってるんだよ。それに相手の名前なんて教えない。どうも納得できないね」

「何がなんだか分からなくなりました・・・」

 肩に竹本の手が置かれた。
「・・・どんな気持ちだい?」

___どうでもいい

 なぜ人間である竹本の手がすり抜けずに肩に触れられるのか、そんなことも考えられずに頭が真っ白になってゆく。

「全部、どうでも良くなりました」

「そうかいそうかい。苦しいんだね?」

___苦しい

「はい・・・」