「案内人は、『最後の未練を解消しろ』ってそう言うの。それが終われば安らかに眠れる、って。もちろん、私はそれを望んだ。でも・・・」
「でも?」
恭子は私を見つめた。
「案内人の言う最後の未練・・・それは『彼を殺す』だった。それが最後に私が思い描いたことなんだと」
「案内人が未練の内容まで言うの?」
「自殺だとそうなんだって」
___へぇ。いろんなルールがあるんだな。
「でもそれって当然。そいつは殺しても殺しきれないくらいのひどいことしたんだから」
「うん・・・。そう思った。私も、彼が許せなかった。でもね」
立ち上がると、手すりに両肘を乗せて空を仰ぐ。私も立ち上がって、恭子に並ぶ。さっきよりも距離が近づいたが気にならなかった。
「未練を解消するために、深夜に彼の家に忍び込んだの。彼は真夏だというのに布団にくるまって寝ていた。案内人の言うとおり、私の身体は光りだした」
「未練の解消をしたの?」
恭子の目を見て問う。
「彼を殺そうと思った。それが正しいことだ、って・・・。でも、布団に手を伸ばしたとき、聞こえたの」
「聞こえた?」
恭子は言葉を止めると、苦しそうに顔をゆがめた。
「聞こえたのは、彼の泣き声だった。そう、彼は泣いていたの。布団にくるまって、声を押し殺しながら号泣していたの。『ごめんなぁ、ごめんなぁ』って、泣くの。何度も何度も泣いて謝るの」
泣いているかと思ったけれど、恭子は目を閉じて微笑んでいた。それは静かな強さに思えた。
「結局、私は殺せずにその場を後にした。それから期限まで、私の身体は光り続けたけれど何もできなかった。案内人は何度も説得してくれたけれど、どうしてもできなかった。たとえ地縛霊になっても、自分の意思で彼を殺すことなんてできなかった・・・。まだ彼を好きなんだと知ってしまったから」
「そんな・・・」
「でもね、後悔はしてないんだ」
恭子は私を見て笑った。
「案内人がやさしい人でね。ぐちゃぐちゃな身体を元に戻してくれただけじゃなく、地縛霊になった私の邪気をたまに吸い取りに今でも来てくれるの。だから、悪い霊にならずにここで座って過ごしているの」
「さっきは襲おうとしたくせに」
彼女のようにやさしく微笑もうとしたけれど、うまく笑えなかった。
「そろそろ吸い取ってもらう時期なんだけどな。へへ、ごめんね」
「・・・その後、彼とは?」
「力がなくってね、その後の人生は見に行ってないの。でも、知りたくないのも正直なとこ。彼はきっと新しい人生を過ごしている。そこに私はいないから、だから知りたくないの」
恭子がさみしげに言うと、その息は白く宙に消えた。
それは、まるで恭子の心の動揺を表しているように、はかなく弱く見えた。
強かったり弱かったり・・・それが人間なのだと思った。
「こんな話聞かせてごめんね」
身体全体で大きなため息をつくと、恭子はことさら元気な声でそう言った。
「ううん。つらい記憶を話させてこっちこそごめん」
未練をあえて解消しない決断は、相当な覚悟が必要なはず。自分にできるか、と自問することすら怖いと思う私は、まぎれもなく臆病だ。
「誰かに聞いてもらったのははじめて。だから、すごくうれしかった。蛍さんは、未練解消できそうなの?」
自分が悩んでいることなんて、恭子のそれに比べれば些細なことのように思えた。それを言うのも恥ずかしい。
「え?あ、うん。間もなくってとこ」
「そうなんだ。がんばってね」
ああ、彼女のような強さが私にあれば。
私にあれば。
ふいに視界がかげったような気がした。
白い煙があたりに立ち込めている。
「ああ、来た来た」
恭子が両手を合わせて、にっこりと笑った。
「案内人?」
確か、案内人が出現したり消えたりしたときにこの煙は出現していたはず。
「そう、邪気を吸い取りに来てくれたの」
煙は屋上を白く染めると、遠くに黒いズボンと黒い靴が見えた。
「よう」
男の声がする。
___この声は・・・?
徐々に薄くなる煙の向こうから現れたのは、まぎれもなくクロだった。
「クロ・・・」
思わず口を開くとクロはこっちを見た。しかし、すぐに視線を恭子に移すと、
「待たせたな」
と声をかけた。
「ちょっと遅いかな。さっき、この子を襲いそうになったもの」
冗談めかして恭子が言うと、再びクロは私を少しだけ見て、
「そっか」
と興味なさげに言った。
まだ怒っているのか・・・。
クロは私の存在なんてないようなそぶりで、
「恭子、今日は大事な話がある」
と声をかけた。
「何?改まって」
「今日でお前が死んでから20年だ」
恭子の目が大きく見開いた。何か声を出そうとしているが、動揺の方が大きいらしく、口からは白い息が出るだけだった。
「20年ていうと、人間で言うと『時効』にあたると言ったことあるよな」
糸の切れた操り人形みたく、コクンとうなずく。
「今までよくがんばったな。お前の苦しみもこれで終わる」
クロが恭子の頭に手を置く。
「じゃあ」
ようやく恭子が言葉を出した。声が震えているのは寒さからか動揺からなのか。
「これで解放・・・?」
「そうだ。長い間、苦しい気持ちだっただろう?今からお前を解放する」
「ああ・・・」
恭子の目から涙があふれ出た。
「恭子さん、行っちゃうの?」
恭子はくしゃくしゃになった顔で私を見た。
「そうみたい。でもこれで・・・やっと、やっと穏やかな気持ちになれる」
「そう・・・良かったね」
気づくと私も泣いていた。それは彼女の喜びを感じたからではなく、20年も苦しい想いを持ち続けていたことを憂いてのことだった。
恭子はクロを見上げると微笑んだ。
「あなたが、あなたが私の精気を吸い取ってくれていたから。だから、ここまで来れました。本当にありがとう」
「俺は関係ない。お前が未練を解消しなかったことは、今でも俺の成績に響いてるんだからな」
その言い方は、とてもやさしく聞こえた。クロは、言葉は悪いがやさしい人なんだ。
___それなのに、私は
「準備はいいか?」
クロの言葉に恭子がこちらを向く。精神が安定したのか、息も白くない。
「蛍さん。先に行くね。色々聞いてくれてありがとう」
首を横に振った。言葉なんて意味がない。
涙を流しながら笑ってみせると、彼女も大きくうなずいた。
「よし、行くぞ」
クロが右手を高く挙げて、何やらつぶやくとまばゆい光が恭子を包んだ。まぶしくて目を開けていられないほど。
その光に包まれた恭子がだんだんと薄くなってゆく。
「ありがとう」
その言葉はまるで風のように私を通り過ぎてゆく。
光が急速に1点に集まったかと思うと、はじけるようにして消えた。
もう、そこには恭子の姿はなかった。
「ああ・・・。良かった、良かったね恭子さん」
こぼれる涙をぬぐうと、もういないその姿に私は声をかけた。
ふと、クロの視線に気づく。
___どうしよう
「あ、あのさ」
「じゃ、またな」
クロがそっけなく背中を向けた。
「待って、待ってよ」
クロが振り向くのと同時に私は飛びついた。
「バ、バカ。お前」
体勢が不安定だったのだろう。ふたりして地面に派手に転ぶ。
「あ、ごめん」
何やってんだ、私は。これでは逆効果ではないか!クロは、舌打ちをしながら上半身だけ起こすと、ひと息大きく吸い、私を指差した。
「お前はバカか。案内人への暴力はご法度なんだぞ」