どうして「泣いてはいけない」だなんていうことが浮かんだのか、その時の私にはよく分からなかった。
人前でだって(一度慧がデートを忘れていたことがあって、電話で謝られた瞬間に私は駅前の広場で大泣きした)、初対面の人の前でだって構わず泣ける私には有り得ないような思考だ。

もしかしたら「穂波さん」という呼び方が、母が私を呼ぶ呼び方と同じだったからかも知れない。よく考えてみると、家族の前では余り泣けなかったから。

「…泣くなとは言わないけどさ」
私が泣きやんで安心したのか、再び降ってくる優しい声。私の頭を撫でる、相変わらず不器用な手付き。
「泣かれたら、困る」
「…それ、泣くなって言ってるのと一緒よ?」
僅かに充血した目を細めて笑う私を見て一瞬目を瞬かせてから、そうかな?と笑う直之の笑顔はやっぱり慧に似ていた。