車に乗ると、
「もう一ヶ所だけお付き合いいただけますか?」
 と訊ねられる。
「はい……どちらに?」
「ハナサキさん」と仰る方のところであろうことはわかるのだけれども、その方が涼さんとどのような関係にあるのかはわからない。
「ハナサキ、とは植物の花に宮崎や島崎の崎という字を書きます。花崎さんは、私がお世話になった施設の園長先生をなさっている方で、かつて、大学の奨学金申請時には保証人にもなってくださいました。今でも時々連絡は取るのですが……」
 とても言いづらそうに先を続ける。
「実は、園を出てから今日まで一度もお会いしてません……」
「え……?」
「墓参りには来ていましたが、実家や祖父母の家があった場所に赴いたのは建物を壊して以来です。私は、恩義ある方にも挨拶にいかない不義理な人間です」
「……不義理な方は寄付など続けないと思います」
「……あなたは優しいですね。資金提供をすればいい、というものではないでしょう」
 けれど、そうすることしかできなかった涼さんの心はとても痛切なものだったはず。
「ですが、その不義理も今日で終わりです。私はこれからも寄付をやめるつもりはありません。それと、墓参りの帰りには園に寄ることにしようと思います」
 陶器のような肌をじっと見つめていたら、口もとが緩んだ。
「どうやら、そのくらいの余裕が私にできたようです。――真白さん、あなたと出逢ってから」
 まだ私は何もできていない。けれど、そんなふうに仰っていただけることが、とても嬉しかった。

 行く道すがら、小さなケーキ屋さんを見つけ、涼さんはそこに寄った。
「園の子どもたちは誕生日の日しかケーキが食べられないんです」
 それはきっと、金銭面での問題があるからだろう。
「今、園にどのくらいの子どもがいるものか……」
 顎に手を当て考えた涼さんは、ショーケースの半分ほどのケーキを買い込んだ。
 ケーキのほか、日持ちしそうな焼き菓子やマドレーヌなど、お店の人がびっくりするほどの分量を。
「すごい分量ですね」
「えぇ……。その時々によるのですが、園には少なくても二十人、多いときは三十人近くの子どもがいますから。それと職員を含めれば四十人ほどですかね」
 今日の私は驚いてばかりだ。
 郊外を離れた場所にある園につくと、園庭で遊んでいた子どもたちが一斉にこちらを向いた。
「……少し緊張させてしまったかもしれません」
「え……?」
「ここに大人が来るときは、新しい子どもが来るときか、養子を望む人が来るときですから……」
 そう思うと、なんともやるせない気持ちになる。
 けれど、園庭で遊ぶ子どもたちは皆笑顔で、とても賑やかな風景を作り出していた。それが心からの笑顔なのかは少し疑問が残るけど……。
 私は小さいころから大人たちにちやほやされて生きてきた。けれど、ちやほやされる私は人の目を気にし、悪い印象が残らないように、と笑顔を作る術を身につけてしまった。それが自分の本当の笑顔なのかわからなくなるくらい、精神的に追い詰められたこともある。
 そんなことを思い返せば、この子たちはどんな思いで笑顔を見せているのだろう、と胸がチクリと痛む。

 建物こそ古びてはいるものの、きちんと手入れの行き届いた環境。
 園の入り口にはレンガで周りを固めた花壇があり、ダリアが見事に咲き誇っている。園庭の遊具は少ないながらも、皆が皆、譲り合って遊んでいた。
 お姉さんやお兄さんは小さな子の面倒を見、小さな子たちは洋服のボタンを留めるのに必死になっている。
「必要最低限、自分のことは自分でできるように……というのがこの園の方針なんです。高校を出れば園を出なくてはなりません。ですので、中学に上がると、炊事洗濯は中高生が分担をして行います」
 初めて知る世界の話だった。
 私は何もかも恵まれた環境で育っていて、その環境に慣れないと贅沢な悩みを抱えていたのだ。施設の方針を知って、自分が恥ずかしく思えた。
「家庭環境や育つ環境は人それぞれです。あなたが気に病む必要はありませんよ。それに、ここの子たちは皆が皆、それほど悲観してはいませんから。もっとも、施設に入りたての子は慣れない場所であり、突然のことにストレスを多分に抱えていますが、そのフォローをするのも職員や中高生の役目です。ここは意外と環境のいい施設なんです」
 その言葉を聞いて少しほっとした。
 園庭で遊ぶ子に涼さんが声をかける。
「花崎園長はいらっしゃいますか?」
「園長ー?」
「はい」
「園長ならこの時間、裏の畑でしゅうかくしてるよー。おじさんだぁれ?」
「芹沢涼と申します。この園の卒業生です」
「そうなのー!?」
「はい」
「今は何をしてるの?」
「医者を職業としています」
「お医者様……? ……ここで育ってもお医者様になれるの?」
「えぇ。たくさんご飯を食べて、たくさん勉強をすればなれますよ」
 腰をかがめ、目線を合わせて涼さんが話すと、男の子の表情はパァ~と明るいものになった。
 涼さんと私はその男の子にお礼を言って、建物の裏手にある畑へと向かった。
 畑、というだけに、さすがにヒールの靴では歩きづらい。すると、
「少しこちらでお待ちください。呼んできますから」
 私はその申し出をありがたく受け止めた。
 涼さんは足早に畑の中を歩いていく。と、数十メートル先に人が四人ほど農作業をしていた。
 涼さんに気づくと、皆が皆驚きの声をあげる。
 涼さんは深々と頭を下げ、私の方を指し示した。すると、こちらに向かって会釈をされ、四人のうちのひとりが涼さんと連れ立って戻ってきた。
「いやいやいやいや、暑い中ご足労いただきありがとうございます」
「いえ、突然お邪魔してしまい申し訳ございません」
「外ではなんですから、園長室にまいりましょう。何もないところですが、お茶くらいならお出しできます」
「それでしたら、お茶請けはこちらでご用意させていただきました。今、何人の子どもが園にいるのでしょう?」
 涼さんが尋ねると、
「今は総勢二十八人。職員を合わせれば三十五人といったところかな」
「よかった。ケーキを買ってきたのですが、念のために四十個用意して正解でしたね」
「気を遣わせて申し訳ないね」
「いえ……。それよりも、こちらを出てから一度も顔を出さなかったことのほうが申し訳ない……」
 花崎さんは麦茶をテーブル上に差し出すと、
「それだけの時間が必要だったということでしょう。何しろ、婚約者を伴って来てくれたのだから、これ以上に嬉しいことはない」
 まだ私が婚約者であることは話していない。きっと、お寺のご住職が話したのだろう。
「ご挨拶が遅れました。私、藤宮真白と申します。先週、涼さんと結納を済ませました。どうぞ、これからは私もご一緒にお邪魔させてください」
「喜んで」
 花崎さんはとても温和な方だった。
 涼さんが両親と暮らした家と、祖父母と暮らした家の界隈を歩いてきたことを話すと、それはそれは驚いた顔をなさった。
「一歩前へ進めたようだね」
「はい……。もっと早くに来れれば良かったのですが……」
「時間は問題ない。こうやって来てくれたことが何よりも嬉しい」
 本当に、涼さんが来たことを心から喜んでいるふうだった。
「そこで……図々しいお願いを聞いて頂きたいのですが……」
 涼さんが幾分か言いづらそうに申し出ると、
「なんでしょう? 私にできることがあればなんでも言ってみなさい」
「……私たちの結婚式に身内として出席してはいただけないでしょうか」
 ひどく緊張した面持ちで切り出した。
「それは……」
「私には身寄りがありません。ですが、藤宮の令嬢と結婚するにあたり、式は盛大なものになるでしょう。そんな場に呼べる人が花崎園長しか思いつかないのです」
「……私なんかでいいのかい?」
「むしろ、あなた以外が思いつきません。それと、住職にも来て頂きたく思っています。ですが、何分、住職ですからね……」
 と苦笑する。
「華やかな席に相応しくないと断られそうでしたので、先に花崎園長にお話させていただきました」
「わかりました。古藤ことうには私から話しましょう。――不躾な質問なのですが……藤宮というと、あの藤宮ですか?」
「えぇ、ご想像の通りです。藤宮グループ、現会長のご息女です」
「そうでしたか……。いやはや、実は元さんとは面識がありましてね」
「え……?」
 思わず口を挟んでしまった。
「父とお知り合いなのですか?」
「二ヶ月ほど前のことです。涼くんのことを尋ねにいらっしゃいました」
 父のことだから、涼さんのことはくまなく調べたのだろうとは思っていた。でも、まさか自ら足を運ぶとは思ってもみなくて……。
「とてもすてきなお父様でいらっしゃいますね」
 にこりと笑われて、少し戸惑ってしまう。そんな私の代わりに涼さんが、
「私などではとても太刀打ちできない方です。まだ知り合ったばかりですが、これ以上にないご恩を感じております」
「では、結婚式の招待状が届くのを楽しみに待っています。……それと、寄付金のことなのですが――」
 花崎さんの言葉の途中で涼さんは制止した。
「すみません。これは私の気持ちと思って受け取ってください。私は今後も寄付をやめるつもりはありません」
「ですが、家庭をもつのであれば、何かと物入りになるでしょう」
「それなのですが、どうやら私は婿養子に入ることが決まっておりまして、住む場所も何もかも、まったくお金がかからないのです」
 涼さんは肩を竦めて苦笑した。
 花崎さんもきょとんとしたまま固まった。
「ですから、今までと変わらず、好意として受け取ってください。それと、毎年墓参りの季節にはこちらにも立ち寄らせて頂きます」
 言うと、花崎さんはにこりと笑った。
「では、ありがたく頂戴いたします」

 帰りの車の中で涼さんはため息をつかれた。
「……お疲れですか?」
「いえ……少し緊張していたものですから」
 私が気づけたのは最後の結婚式のお話をされたときくらいだけれども、今日立ち寄ったすべての場所に緊張しながら赴いたのかもしれない。
「手を……」
「え?」
「手を取らせていただいてもよろしいですか?」
 不意に聞かれ、右手を差し出す。
「相変わらず冷たい手ですね……」
 言いながら、両手で優しく包み込まれた。
「でも、とても心地がいい」
 涼さんの大きな手に挟まれた右手と、もう片方の左手で涼さんの手を包み込む。
「私の手を必要としてくださいますか?」
 涼さんは目を瞠るようにして私を見た。
「……必要です。私が生きていくために……前に進むために必要な手です。必要な存在です」
「……嬉しいです」
「真白さんは――」
「……必要というよりは……ずっとお側にいたい方です。十年先も二十年先も……年老いてしわくちゃになっても……」
「えぇ……共に年を重ねましょう。この命が果てるまで。……ですが、私より先には逝かないでくださいね」
 それだけはお願いします、と真剣な目でお願いをされた。
「でも、残されるのはつらいです……」
 少し文句を言うと、
「では、ふたりで長生きをしましょう」
 柔らかに笑う涼さんを見たらほわりと胸があたたかくなった。
 涼さんの目をじっと見つめると、
「口付けてもよろしいでしょうか」
 訊かれて、私は目を閉じた。
 四月一日――それは私たちの結婚記念日。
 挙式だけはなるべく親しい人のみで行いたいとお父様にお願いし、三十人ほどの参列者に見守られる中、式を挙げた。
 披露宴こそ何百人という人を招いてのパーティーとなったわけだけれども、お色直しと称した途中退場を何度か挟むことで休憩を取り、その日一日を乗り切った。
 案の定、その夜から熱を出し、一週間ほど寝込むことになったのだけれども……。

 身体を起こせるようになって数日が過ぎ、私と涼さんは初めて結ばれた。
 怖い、痛い、恥ずかしい――様々な感情が入り混じる中、涼さんの細やかな気遣いと優しさを受け、今までに感じたことのない幸せを感じることができた。
 自分のものではない、人の体温をこんなにも感じたのはお母様以外では涼さんが初めて。けれど、お母様の柔らかな肌やぬくもりとは異なり、もっと熱く、細身なのにしっかりと筋肉のつく腕に触れるのはとてもドキドキするもので……。
 涼さんの肌に触れること、触れられることが嬉しくて、幸せだと思えた。
 そんな夜を幾度となく過ごした月末のこと。
 予定日を過ぎても生理は来なかった。
 私の生理周期はというと、ごく稀にひどく体調を崩すときのみ遅れる程度で、それ以外はたいてい規則正しく来ていた。
 身体の関係をもつと周期が乱れたりするのかしら……?
 思わず首を捻ってしまう。
 とくに体調に変化もなかったことから、私は何事もないように日々を過ごした。
 そうして二週間が過ぎようとしたころ、ひどい吐き気に襲われた。
 藤堂さんに連絡をしたあとのことはあまり覚えていない。きっと貧血を起こして気を失ってしまったのだろう。
 気づけば、病院のベッドに寝かされていた。
 相変わらず身体中が火照ったような熱さと吐き気があるものの、病院という場所にいるだけで少し安心してしまう。

 控え目なノックのあと、静かにドアが開いた。
 顔を覗かせたのは涼さんだった。
「真白さん、具合は?」
「あの、私……」
「自宅で具合が悪くなったところ、藤堂さんが病院へ運んでくださいました」
「すみません……」
「なぜ謝るのですか?」
「今、勤務時間でいらっしゃるのでは?」
「えぇ、ですが少し気になりましたもので……」
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
「……真白さん、最終月経はいつでしたか?」
「えっ!?」
 急に訊かれて頬が熱を持つ。
「大事なことですからお答えください」
「あの……生理一日目でよろしいのですか?」
「はい」
「……先月の二十九日です」
 涼さんは少し間を置いてから、「検査をしましょう」と言った。
「なんの、でしょう?」
「妊娠しているかどうか、です」
「えっ……!?」
 あまりにも私が驚いているからか、涼さんは少し困ったように笑った。
「あり得ないことではありません。規則正しく生理がある方でしたら、私たちが初夜を迎えた日は排卵日前後のはずです」
 涼さんはわかりやすいように、手帳に生理周期を書いて見せてくれた。それを見たことにより理解はできたものの、気持ちが追いつかない。
「微熱に吐き気、貧血は妊娠初期症状とも言えます。下手な薬を処方する前に検査をしたほうがいいと思いましたので……」
 こうして私は婦人科の先生に診ていただくことになり、妊娠を告げられたのだ。



「ただいま帰りました」
 そう言って涼さんが入ってくるのは病院の十階にある個室、特別室。
 私はひどい吐き気から脱水症状を起こしてしまい、体調が安定するまで管理入院することになった。
 ゆえに、涼さんが「ただいま帰りました」と言って入ってくるのは病院内の一病室。
「すみません……」
 つい謝罪の言葉が口をつく。
「謝ることはありません。真白さんがいるところが私の帰るべき場所ですから」
 まるで家も病院も関係ないみたいに言われて、そんなことがひどく嬉しいと思う。
 嬉しいのにどうしてか涙が出てくる。
「どうしましたか?」
「いえ……ただ、嬉しいと思っただけなんですけど……勝手に涙が」
 涼さんはティッシュでそっと涙を拭ってくれた。
「妊娠期間中は感情の起伏が激しくなるそうですよ。それならば、感じたままに過ごせばいい。なるべく側にいますから」
 今となっては涼さんも病院に寝泊りをしている始末。涼さんは毎晩病室に帰ってきて病室から出勤する。
 洗濯物などはすべて病院側で手配してくれるものの、何もできない自分がひどくもどかしかった。
「アイロンのひとつもかけられないなんて……」
 さらには一緒に食事を摂ることもできない。食べ物の匂いをかぐだけで戻してしまうのだ。だから、涼さんは病院の食堂で朝昼晩のご飯を食べることになってしまった。
「……気に病まないでください。その分、元気な子を産んでくださいね」
 にこりと優しく微笑まれ、私の心は溶けていく。
 愛する人の手に触れたくて、そっと手を伸ばす。と、触れる直前で気づかれ、逆に握られてしまった。
「どうしました?」
 優しく訊かれ、
「触れたいと思っただけです……」
 正直に答えると、額にキスが降ってきた。
「一緒に休みたいところですが、さすがに病院のベッドでは無理ですね」
 涼さんはクスリと笑って見せる。
 特別室のベッドは、シングルより多少広い程度。なぜかと言うなら、広すぎるベッドでは医療行為を行うのに不適切だからだ。そのため、ふたりで寝るのには手狭といわざるを得ない。
 涼さんはこの部屋に備え付けられている簡易ベッドで毎日寝ている。
「一緒に寝るのは無理ですが……」
 涼さんは手を握っている手とは別の手で、私の視界を遮断した。
「真白さんが眠るまでここにいます。そのあと少し勉強をしますが、隣のベッドで寝ていますから……。何かあれば起こしてください」
「……やっぱりご自宅に帰られたほうがゆっくり休めるのではないでしょうか?」
 ここにいる限り、涼さんはどうあっても医師なのだ。
 私が自宅にいたとしても同じことだっただろう。
 けれども今、私は入院しているわけで、本当なら涼さんは自宅でゆっくりと休めるはずなのに……。
 今度は悲しくなって涙が零れる。
「おやおや……本当に感情の起伏が激しいようですね」
 先ほどと同じように涙を拭き取り、
「では、少しお話をしましょう」
 と、ベッド脇に椅子を持ってきて私のベッドを少し起こしてくれた。
「真白さんは女の子をお望みですか? それとも男の子?」
 急な質問にびっくりする。
「あ……えっと……――」
「……妊娠したにもかかわらず、そのあたりは考えていなかったのですか?」
「……はい。今の今まですっかりと……」
 なんとも間抜けな話だ。
 妊娠がわかってから悪阻の症状がひどくなり、そんなことを考える余裕もなく入院してしまったのだ。
「涼さんは……? 涼さんはどちらをお望みですか?」
「そうですね……。女の子なら真白さんに似て優しい子になるでしょうし、男の子なら多少厳しく躾けようかと思っています」
「ふふ……やっぱり男親は女の子に甘いのですね」
「それはそうでしょう。逆に男は少し厳しく躾けるくらいがちょうどいいのだと思います」
「涼さんもそのように躾けられたのですか?」
「……どうでしょうね。両親に育てられた記憶は小学生までしかありませんので……」
「すみませんっ……」
「謝らなくても大丈夫ですよ。あなたなら、何を言っても大丈夫です。あなたの言葉で私が傷つくことはありません」
「どうしてそう言い切れるのですか?」
「……愛しているから、愛されているから、ですかね」
 その言葉に胸の奥でトクンと音がした。
「今も変わらず吐き気が?」
「……はい。でも、こうしてお話をしていると少しだけですが気が紛れるようです」
「では宿題を出しましょう」
「宿題、ですか?」
「はい。日中何もすることがなかったり何もできなかったりすると気分は滅入るものです。そんなときには子どもにつける名前や、女の子だったらどんな子に育ってほしいか、またはどんな習い事をさせたいか……そのようなことを考えてはいかがでしょう? 私はそれを聞くのを楽しみにしながら一日仕事をがんばります」
 涼さんはとても優しい。
 私の気持ちが楽になるような言葉をかけてくださる。
「では、涼さんにも宿題を出してもいいですか?」
「私にも、ですか?」
「はい。さほど難しいことではありません。子どもが生まれたらどんな場所に連れて行きたいですか?」
「……本当に簡単ですね? 今答えられてしまうくらいだ」
「え……?」
「あなたが行きたいところへ連れて行きましょう」
「……また行き先の候補を挙げてくださいますか?」
 涼さんはクスリと笑い、「かしこまりました」と答えてくれた。
 どんなに身体がつらくても、涼さんと話すだけで少し楽になる気がするから不思議。
「さ、そろそろ休まれてください」
「はい……」
 同じ病室に寝泊りしているとわかっていても、目を瞑って涼さんが見えなくなるのはなんだか名残惜しい。
 なかなか目を閉じることができないでいると、
「側にいますから」
 と、おやすみなさいのキスが降ってきた。
 まるで自分が子どものように思えてしまったけれど、でも、涼さんには素直に甘えられる自分を知って、安堵と幸せな気持ちで心が満たされた。
 私もいつの日にか、涼さんにそんな気持ちを与えられる人になりたい――
「さて、どうしますか?」
「今度こそは涼さんがお決めになられたらいかがですか?」
「ほほぉ……命名権をお譲りいただけるんですか?」
「そんな、今までは私が譲らなかったみたいな言い方なさらなくても……」
 彼は笑って「そうですね」と言う。
 今、私のお腹には三人目となる子どもの命が宿っている。今日、性別が男の子とはっきりしたばかりだった。
「湊(みなと)のときはそれなりに考えましたよね」
「それなりだなんてひどいです。私、一生懸命考えたんですよ?」
「くっ、そうでした。確か……」
「クリスマスが出産予定日で、音楽で賑わう季節でしたので……」
「それで『奏』という字を使いたいと仰った」
「はい。……それから、水の音がとても好きな子で、食器洗いやお風呂に入ってるときによく動く子でしたから……」
「えぇ。だから、三水をつけて湊にしたんでしたね」
 そんなに昔の話とは思わないのに、その湊はもう中学生。
「時間が経つのは早い」
 コーヒーカップに口をつけ、ふたり並んで雨の降るお庭を見ていた。
「楓(かえで)のときはまた素敵な持論を展開されましたよね?」
 テーブルにカップを置き、涼しげな目がこちらを向く。
「楓は紅葉(こうよう)がきれいな時期に出産予定でしたから……」
「えぇ、あまりにも『季節』に拘るあなたに、それでは紅葉(もみじ)にしたらどうかと提案したのを覚えています」
「私も覚えています」



「季節に因んだ名前をつけたいです」
 そう言った私に、
「紅葉(こうよう)の季節なら『紅葉(もみじ)』なんじゃないですか?」
 と、涼さんが言った。
「紅葉(こうよう)の紅(あか)はとてもきれいですよね……」
「ならば、『紅葉(もみじ)』でいいのでは?」
 涼さんという人は、女の子だから男の子だから名前の響きがどうとか、そういったことに拘る人ではなく、ニュアンスに任せて決めてしまう私になんの反対もしない人だった。
 でも、『紅葉(もみじ)』という名前の提案には賛成できなかった。
 理由は――『紅』は強すぎるから。
 藤宮においてはそのくらい主張できるほどに強い方がいいのかもしれない。けれど、私はそれを望まない。
 私は強い子、というよりは、穏やかで優しい子に育って欲しいと思う。一族の中で目立つ必要などない。
「『紅葉(もみじ)』もすてきですが、『楓』のあの柔らかい黄色が好きです。銀杏の黄色よりほんのりオレンジ味がかった柔らかい黄色……」
「……長女が三水。長男が木偏というのも悪くない」
「そう言っていつも折れてくださるのですね」
 クスクスと笑う私に、
「折れてるわけではなく賛同しているんですよ」
 と、目を伏せ答えてくれた。
「実のところは、名前を一文字にしたいだけなんです」
「そうなんですか?」
 私はにこりと笑うだけで返事はしなかった。
 少しだけ……少しだけ気持ちをごまかすことを許してください。



 あれから八年ちょっと経つのね。
「実は、木偏の『楓』に賛成したのにはちゃんとした理由があるんです」
「え?」
 そんなお話は聞いたことがない。
「楓は長男ですからね。いやでも藤宮に縛られることになるでしょう。先に生まれるのは斎さんたちの子どもであっても、きっと藤宮に縛られることになります」
 添えられた笑みはとても穏やかなのに、どこか憂いを含む。
「どれだけ優しい子に育てても、この一族の中で生き延びなくてはなりません。そのためには『木偏』くらい逞しいものが名前に入っていたほうが良いでしょう? 糸は切れてしまうかもしれない。葉はいずれ散ります。木は精根こめて育てればそうそう倒れることはない」
「そんなことをお考えだったなんて知りませんでした」
「あなただって、紅(くれない)ほど強い主張がいやだからとは仰ってはくださいませんでしたよ?」
「っ!?」
「……あなたは紅子さんと自分を比べる必要なんてない」
 そう言われ、ふわりと抱きしめられた。
「私、紅子が嫌いなわけでは……」
「わかってますよ。嫌うどころかかわいくて仕方がないのでしょう?」
「…………」
「紅よりも柔らかい黄色が好き、という発想はとてもあなたらしい。それに、あなたに紅は強すぎる。あなたはふわりと色づく桜や藤、楓のような色が似合います。でも、紅や紫は白という色で中和され、柔らかい色になれることも忘れずに」
 あのとき、「紅」がいやだなどとは一言も口にはしなかったのに……。
 涼さんは気づいていらしたのね。けれど、敢えてそのことには触れずにいてくださった。
「実は次男になるこの子には偏を使わない名前を考えてます」
 偏を使わない名前……?
「湊は自由奔放で勝気な姉です。兄の楓は一見穏やかそうですが芯を曲げない頑固さと狡猾をも持ちあわせています。――まぁ、なんと言いますか、ふたりとも適度に癖があるわけです」
 肩口で涼さんが苦笑する。
 確かに、湊は一族の集まりのときこそおとなしくはしていてくれるものの、それでも変わり者扱いを受けることが多い。如何せん、我が強すぎるのだ。
 父に、「湊が男だったら藤宮も安泰だったな」と言われたこともある。
 まだ年端もいかないというのに、父に惜しいと思われるほどに利発で処世術に長け、豪胆な性格。
 私の娘というのが信じられないくらい……。けれど、涼さんの血を引いているから――と考えれば、さほど違和感はなかった。
 楓はどんなこともそつなくこなすけれど、こうと自分で決めたことは一切曲げない。一族の集まりで、容姿がそっくりな秋斗くんの身代わりにされても、大人たちを相手にさらりとかわすことのできる子。
「上のふたりに負けない名前をつけてあげなければ……と考えたら、これしか思いつきませんでした」
 クスクスと笑いながら私の手をとり、手の平に文字を書く。
「……司(つかさ)?」
「はい。次男ですし三人目ですが、少々癖のある姉と兄を牛耳ってもらおうかと画策しています」
「それは難しいのでは……?」
「どうしてですか?」
「どうしてって……。あまりにも年が離れてますもの」
「きっと大丈夫ですよ」
 何を根拠に……?
 後ろから抱きしめてくれている涼さんを肩越しに見上げると、ふっと笑みを浮かべた。
「私と真白さんの子どもであり、さらにはあの湊と楓にも面倒を見てもらえるんです。……あぁ、きっと秋斗も構ってくれるでしょう。まず、癖のない子に育つわけがないと思いませんか? それに、『司』はあなたの好きな一文字ですよ?」
「…………」
「今日のランチは外食にしましょう。あなたのケープを取ってきます」
 涼さんは、す、と私から離れた。

 一緒に暮らすようになってずいぶんと時は経つたのに、未だに何を考えているのかわからないことがある。
 どこまでが本音でどこからが冗談なのか――けれど、そんなところも魅力的と思ってしまう。
「司……」
 手に書かれた文字を口にする。
「司……」
 次はお腹に向かって声を発した。
「あなたは司。……姉の湊と兄の楓はふたりともいい子だけど、ちょっとだけ癖があるの。――だから、あなたはそれに負けない子になってね?」
「真白さん、行きますよ」
 リビングの入り口から声をかけられそちらへ向かう。
「三人目が生まれたらまた賑やかになりますね。……ですが、こうやって時間を見つけてはふたりの時間も大切にしましょう」
 私はその笑顔に何度でも恋をする。
 ケープを肩にかけられ、差し出された手に右手を乗せれば、「愛してます」と低く静かな声が耳の奥まで響く。
 切れ長の目が近づいてきたらキス――
「――私も、心からお慕いしております」
 わずかに上気した頬を見られるのが恥ずかしいと思いつつも、その漆黒の瞳から目が離せない。
「さぁ、行きましょう」
「はい」
 玄関のドアを開けると、さっきまで降っていた雨は上がり、雲の切れ間から太陽が見えた。
 四月一日、それは自分たちの結婚記念日。
 この日だけは夫婦水入らずで過ごせるように、とお義母さんが子どもたちの面倒を買って出てくれる。
 そんなわけで午前中に子どもたちを彼女の実家に預けると、久しぶりに真白さんとふたりでドライブへ出かけた。
 相変わらず、警護につく車が数台ついてくるものの、車から降りたあとはある程度の距離を保ち、必要最低限のプライバシーは守ってくれる。それもこれも、未だに真白さんが人の多いところに出かけないからなせることなのだろう。
 遅咲きの桜がまだ咲いている公園を歩きながら、結婚してからの十五年間を振り返っていた。
「早いものですね」
「はい。もう湊は中等部三年生ですし、楓は初等部五年生。司は二歳ですものね」
 結婚したその年に長女が生まれたため、ふたりきりで過ごせた時間は少ない。
 そんなこともあってか、お義母さんは記念日になるとふたりきりで過ごす時間を作ってくれていた。
「十五年とはあっという間でしたね」
「そうですね。でも、子どもの成長を見ながらの十五年は、とても充実していたように思います」
 彼女は風に髪をなびかせながら、嬉しそうに笑う。
「結婚記念日を家族で過ごすのもいいと思うのですが……涼さんはどう思われますか?」
「そうですね……。大切な記念日を家族で過ごすのは悪くはない。けれど、やはりふたりの時間というのは貴重ですから、私はお義母さんに感謝しています」
「ですが……子どもたちはやがて大きくなったら家を出てしまうでしょう?」
 少し寂しそうな表情の彼女は歩くのをやめ、頭上に咲き誇る八重桜を見上げた。
「湊が成人するまであと五年。楓が成人するまでにはあと九年。司は……」
 そこまで口にすると、彼女はふふ、と笑った。
「楓と司はまだ当分家にいてくれそうですね」
「えぇ……。湊は高等部を出たら医大に進みますから支倉でひとり暮らしを始めるでしょう」
「今から覚悟なさっているのですか?」
「……そうですね。女の子ですから心配は心配ですが、栞ちゃんも一緒でしょうから、ルームシェアをしたらどうかと勧めるつもりです」
「涼さんったら、少し先を考えすぎです」
 彼女はクスクスと笑った。
 その後、彼女が好きなレストランでランチコースを堪能して帰宅した。

 子どもたちは夕方にお義母さんが送ってきてくれることになっており、まだ三時間ほどの余裕がある。
 帰宅すると、真白さんがダイニングテーブルの上に置いてあったメモ用紙を手に、首を傾げている。
「どうかなさいましたか?」
「湊たちからの置き手紙なのですが……」
「置き手紙、ですか……?」
 三人とも、自分たちが出かける際に実家に連れて行った。家を出るときには置き手紙などなかったはず。……ということは、一度帰ってきたのだろうか。
「なんと書いてあるのですか?」
「ケーキが冷蔵庫に入っているそうです」
「……ケーキ、ですか?」
「はい。ふたりで食べるように、と……。それから、テレビに録画されているものを見るようにとの指示も書かれていて……」
 ふたり顔を見合わせてしまう。いったいなんのことだろうか、と。
 ひとまず、冷蔵庫に入っているというケーキを取りにキッチンへ行くと、冷蔵庫には透明なプラスチックの容器に、黒い蓋、さらには金色のリボンがかけられたものが入っていた。
「どうやらこれのようですね」
 ふたり揃って蓋を開ける。と、直径六センチ、高さ六センチほどの円柱、こっくりと黒光りするケーキが入っていた。
「コーヒーでしょうか? チョコレートでしょうか?」
 見ただけではどちらとはわからず真白さんが鼻を近づけると、
「……チョコレートです」
 と、若干申し訳なさそうに告げた。
「……私にチョコレートケーキを食べろ、と子どもたちは言ってるわけですね」
 自分は甘いものが苦手なため、この手の食べ物は一切食べない。が、真白さんはチョコレートが好きである。
 うちにおいては真白さんが最優先されるため、チョコレートケーキのチョイスになったことは理解できても、それを一緒に食べろという要求は呑めそうにない。
「これは真白さんが食べてください」
 食器棚からプレートを取り出し、ケーキを乗せる。
 ついでに、昨夜から今朝にかけて作っていた水出しコーヒーを添えた。

 次なるミッションは録画されたテレビなわけだが……。
 ふたりでリビングへ向かいテレビをつけ、指定された録画を見る。と――
 ひとつのケーキを前に、
『ねぇ、美味しい?』
『すっごく美味しい!』
 男が女に訊き、女は嬉しそうに答える。
 画面に映りこむケーキこそが、今自分たちの前に置かれているものと同じものだった。
『食べたい? 食べさせてあげようか?』
「あーん」と女がスプーンを男の口もとに近づけると、男はそれを口にし、食べ終わるとぺろりと唇を舐めた。その様がなんとも艶めかしい。
『ん、美味しい。でも――ねぇ、ケーキとぼくのキス、どっちが好き?』
 男が甘く囁くシーンで、「初恋ショコラ・新発売」というテロップが流れた。
 録画は以上だった。
「……あの、これはいったい……?」
 ほんのりと頬を染めた真白さんが答えを求めて自分を見る。
 なんとなくわからなくはない。非常に遠まわしではあるが、これと同じことをしろという意味なのだろう。
「……やはり、ケーキは真白さんが食べてください」
「でも、子どもたちがせっかく私たちのために用意してくれたものですし、涼さんも一口くらいはお食べたになられてはいかがですか?」
「…………」
「私が味見してみます。とても甘いようでしたら無理にとはお勧めはしませんから」
 言って彼女はスプーンで小さくケーキを掬った。
 そんな彼女の隣で自分はパッケージに記載されているカロリー表示や原材料の一覧を見ていたわけだが、普通のケーキと比べるとカロリーは控え目なようだ。
 一口食べて沈黙してしまった彼女が心配になり声をかけると、
「あの……すごくおいしいです。これ、どちらのケーキなのでしょう?」
 真面目な顔で訊かれた。
「パッケージを見たところ、コンビニで売られているもののようですが?」
「コンビニ――……コンビニエンスストアですか?」
「はい」
「私、行ったことがないのですけど、こんなにおいしいケーキも売っているのですね」
 どこか的外れな感動の仕方をしている気がしなくもない。が、そこは気にしても仕方がないので、どのようにおいしいのかをたずねてみた。
「真白さんが普段食べられるアンダンテのケーキやウィステリアホテルのケーキだって十分においしいでしょう? それとどう違うのですか?」
「なんて言うんでしょう……? スポンジはしっとりとしていて、口の中に入れるとホロリと崩れるんです。あと、チョコレートクリームが濃厚で、ただ甘いだけではなくて……」
 濃厚なのに甘いだけではないとはいったいどのようなものか……。
 ほんの少し好奇心をかきたてられ、目の前にブラックのアイスコーヒーがあることを確認してから、
「では、一口だけいただくことにします」
 言うと、真白さんはスプーンに半分ほど取り自分の口もとに近づけてきた。
 台詞こそないものの、さっきのCMと同じシチュエーションである。
 抵抗があるというよりは照れが生じる。
 すると、クスクスと笑い声が聞こえてきた。ほかでもない真白さんの笑い声。
「少しだけ……CMの真似をしてみました。抵抗があるようでしたらやめます」
 あまりにもかわいらしく笑うものだから、恥ずかしさを我慢しそのままの状態で食べさせてもらう。と、口の中にチョコレートの香りが広がる。
 甘いことは甘いのだが、香り自体が甘ったるいものではなく、クリームにもカカオ独特の苦味を残す。
「間にブラックコーヒーを挟めばなんとか食べられそうです」
「良かったです! それでは、半分ずつ食べましょう?」
 彼女の笑顔につられ、自分ひとりだったらまずは食べないケーキを食べた。
 食べ終わると、彼女はとても幸せそうな顔をしていた。どうやらひとつのものを分け合って食べることが、ひどく新鮮だったらしい。
「真白さん」
「はい?」
「どうせなら、最後のアレもやりますか?」
 彼女は一瞬、「え?」といった反応を見せ、
「CMの最後の」
 と、補足をすると顔を真っ赤に染めた。
 彼女の唇を塞ぎ、舌を絡める。と、自分が飲んだばかりのコーヒーと、彼女の口に残るチョコレートの甘さが程よくブレンドされ、いつもとは違うキスの味になった。
「私のキスとケーキ、どちらがお好みですか?」
 訊くと、彼女は恥ずかしそうに顔を染めたまま、自分の胸に額を押し当てた。
 それはつまり――私のキス、ということでよろしいのでしょうか。
 子どもができてからというものの、ここまで甘やかな時間を過ごすことはそうそうなかった。
 そう思えば、チョコレートケーキを自分に食べさせようとした子どもたちのいたずらもかわいく思える。
 そんなげんきんな自分に、ふと笑みが漏れた。
 今日は末の息子が幼稚舎で学芸会があるので有給休暇を取っていた。
 家族のほか、隣に住む甥ふたりも一緒に来ている。
 長男の楓と同い年の秋斗はデジタルカメラを手にしており、司のひとつ年下の海斗は、クマの着ぐるみを着て真白さんの近くをうろちょろしていた。
 司が劇に出ることは聞いていたが、まさかウサギ役とは思いもよらず、真白さんが作ったであろう白いモフモフの着ぐるみを着た司を新鮮な気持ちで見ていると、湊と楓が弟に賛辞を述べ始める。
「司、すっごくかわいいわよっ」
「うんうん、よく似合ってる」
 司は皆に囲まれて立っていた。
「司ったら、家では絶対に着ないって言って……。サイズが合うか心配だったんですけど、大丈夫みたいで良かったです」
 真白さんはにこにことその光景を見ているわけだが、末の息子にとっては至上最悪の状況のようだ。
 写真を撮り続ける秋斗を一瞥し、かわいいかわいいと絶賛する姉と兄を睨みつける。
 が、睨みを利きかせたところで賛辞と称したからかいが止むわけもなく、耐えかねた司は両の手でフードをぎゅっとつかみ、目深にかぶって顔を隠した。
 本人は人の視線から逃れるのに必死だったのだろうが、こちらからしてみればその動作すらかわいく見えてしまうわけで、墓穴を掘っていることを教えてやりたくなる。
 しかし、思うだけで自分はいつもと変わらず静観するに留めるわけだが――
 悪鬼三人は思い思いのことを口にした。
「あれ、隠れたつもりよね?」
「隠れたんだろうね。でも、その仕草がなんとも言えないよねっ」
 湊と楓の言葉を聞きながらも、秋斗は写真を撮る手を緩めない。緩めるどころか、
「こぉ、耐えてるふうなところがまたそそるよね?」
 もっとも的を射た発言をした。
 司は全身をプルプルと震わせ始める。
 そろそろ限界なのだろう。
「くく、耐えてる耐えてる……」
「もしかしたら拗ねてるのかもよ?」
 湊と楓の言葉に秋斗が答える。
「どっちもじゃない? もう、あれは全力で帰りたがってるよね」
「そのくらいにしておきなさい」
 三人を優しく嗜めると、真白さんは宥めるように司の背に手を添えた。
「もう劇が始まるわ」
「……帰りたい」
 ようやく司が口を開いた。
「だめよ」
「じゃあ、ライオン襲ってもいい?」
「それは難しいと思うわ」
「どうして?」
「だって、ウサギさんは草食動物だもの」
 会話はそれで終わり劇が始まったわけだが、ライオン役の美都くんとトラ役の笹野くんを不憫に思った。
 劇中で、あんなにも柄の悪いウサギはそうそう拝めるものではない。
 まだ四歳にもかかわらず、底冷えするような冷気を漂わせ、眼力を駆使していた。
 いったいどこで――いつの間にあんな目つきを習得したのだろうか。
 見間違いでなければ、先ほど司は間違いなく秋斗に向かって舌打ちしたと思うのだが……。
 何にしろ、今日は面白いものが見れた。
 気になることと言えば――
「真白さん、ほかの子の着ぐるみのファスナーは前についていましたが、司のは後ろでしたね?」
「えぇ、だって司ですもの。前にファスナーがあったら自分で脱いでしまいますでしょう?」
「……つまり、自分では脱げないようにするために後ろにつけたと?」
「はい」
 屈託のない笑顔で息子の逃げ場を封じるこの人は、間違いなく藤宮の血が流れていると認識した――

「少し寒いけどいい天気……」
 私は司と涼さんを送り出し、リビングから間続きになっているウッドデッキでお茶を飲んでいた。
 お庭には先日降り積もった雪がまだ残っている。
 ガーデンテーブルにはティーポットとカップ、それから司と涼さんの予定のみが書き込まれたカレンダー。
 司は今年中等部三年、楓はあと一年で大学を卒業、湊は社会人。
 すでに湊と楓は家を出て一人暮らしをしている。
 司はあと四年、長くても五年経てば湊たちと同様、支倉で一人暮らしを始めるだろう。
 しかし、留学という選択肢が加わった今ではそれも定かではない。
「……寂しくなるわね」
 私の言葉は庭の草木にしか届かない。
 子どもたちが成長するのは嬉しいけれど、成長すると共に、一緒に過ごす時間が少なくなることが玉に瑕。
 自分でもわかっているのだ。
 自分の世界が狭いことなど……。
 けれど、知っていても外へ出ようとは思わない。思えない――
 今の生活に不満があるわけではないけれど、変化を求めている自分もいた。
「おかしいわ……。今まで変化なんて求めたことなかったのに」
 ただ平穏な日々を求めていた学生時代。
 涼さんと出逢って、私の世界はとても色鮮やかな日々に変わった。
 そして、子どもたちが生まれてからは新しい発見のある日々を送ってきた。
 この先だって子どもたちの成長を見ることはできるだろう。
 けれども、如実に距離が開き始めるのも事実。
 子どもが手を離れて何もない人間になるのはいやだけど、今のままでは間違いなく何もない人間になってしまうだろう。
 趣味は人並みに持っている。
 でも今は、それとは別のものを求めている気がした。
 考え続けたら「何か」は明確になるだろうか……。
 考え続けたら――



 翌週、ふと思い立ち、子どもたちが小さかったときに使っていたものがしまってあるクローゼットを開いた。
 おもちゃなどは残していないものの、お絵描き帳からスケッチブックはすべて残してある。
 子ども三人のお絵描き帳は三者三様。
 湊は風景画を描くことが多く、楓は人物画を描くことが多かった。
 そして司は、動物の絵ばかりを描いていた。
 幼稚部の遠足で動物園に行ったことを今でも鮮明に思い出せる。
 周りの子たちが騒ぐ中、司はひとり静かだった。
 自分のリュックからお絵描き帳を取り出しクレヨンを手に取ると、黙々と動物を描き始めた。
 その日だけではすべての動物を見て回ることができず、とても名残惜しそうな顔をしていたのを覚えている。
 物事に執着することのなかった司が帰りのバスの中で、
「お母さん、また動物園に行きたい」
 真っ直ぐな目に請われ、次の日曜日には涼さんと私と司の三人で動物園へ出かけた。
 その日もすべての動物を見て回ることはなく、ひとつひとつの動物を一生懸命お絵描き帳に描いていた。
 八回目の訪問でようやくすべての動物を見て回ることができ、九回目には犬や猫、ウサギ、インコといった触れることのできる動物に執心していた。
 司は年頃の子が好む乗り物のおもちゃよりも何よりも、動物が好きだったのだ。
「懐かしい……」
 動物を見るとき、動物を相手にするときだけ、司の表情に変化が見られる。
 そんな司を見たくて、私も涼さんも熱心に動物園へ通ったものだ。
「家に動物がいたらどんな反応をするかしら……?」
 そんな思い付きがひとつのきっかけとなった。

 その日の夜、寝る間際にベッドの中で涼さんに相談してみた。
「涼さん」
「なんでしょう?」
「動物を飼いたいとお願いしたら聞いていただけますか?」
「……動物、ですか?」
「はい、動物です」
 涼さんは不意をつかれたような表情でメガネを外した。
 私の隣に横になり、優しい眼差しを向けられる。
「なんの動物でしょう?」
「おうちで飼える動物だと――犬、猫、鳥、ウサギあたりでしょうか?」
「……真白さんはそんなに動物がお好きでしたか?」
「動物は好きです。でも、飼いたいと思ったことはありませんでした」
「ではなぜ……?」
 当然すぎる質問に、正直な理由を口にする。
「……少し変化が欲しくなったみたいです」
「変化、ですか?」
「はい……。子どもが小さいころは家にいてもたくさんの発見があって、日々目まぐるしく過ごしていたのですが、子どもがある程度大きくなると、やることがなくなってしまうものなんですね」
「……寂しいから、その穴埋めを動物に求めていらっしゃる?」
「……否定はしません」
「潔いですね」
 涼さんは目を細め穏やかに笑った。
「そういうわけではないのですが……。だめですか?」
「では、飼う動物を決めなくてはいけませんね」
「あの、実はもうひとつお願いがあります」
「なんでしょう?」
「動物は、司に選ばせたくて……」
「……目的はそちらでしたか?」
 涼さんはうかがうような視線を向けてくる。
「どうでしょう? 自分が寂しくなるから、という理由は間違いなくあるんです。でも……今日、あの子たちが小さいころに描いていたお絵描き帳を見て思い出してしまって」
 クスリと笑うと涼さんも笑った。
「よくも毎週毎週動物園へ通ったものです。司は覚えているでしょうか?」
「どうでしょう? でも、初等部では動物の飼育に熱心というコメントを多々いただきました。中等部には動物がおりませんので、少し寂しいのではないかと……」
「おや、真白さんと同じ、寂しいつながりですね?」
 ほんの少し皮肉じみた言い方だった。
「……涼さんの意地悪」
「そうでしたか?」
 嘘……涼さんの眼差しはとても優しい。
 いつも優しく私を包んでくれる。
 それは何年経っても変わることはない。
「それでは、あの捻くれ者からどうやって希望を訊き出しましょうか」
「ご自分の子どもなのに捻くれ者だなんて……」
「ですが、あれは十二分に捻くれていると思いますよ? 実に私の子どもらしい」
 確かに司は少し変わっている。
 湊や楓が司くらいのときはもっと言葉数も多かったし、もう少し年相応だった。
 けれども司はどこか落ち着きすぎていて、言葉数も少ない。
 年でいうなら海斗くんが最も近いけれど、司が従兄弟の中で一番仲がいいのは楓と同い年の秋斗くん。
 学校でもクラスにあまり馴染んでいない、という話は担任の先生からうかがっている。
 けど、それ自体は幼稚部、初等部のときからずっと言われ続けていることでもあり、今に始まったわけではない。
「動物が家に来たら少しは変わると思いますか?」
「どうでしょうね……。そのあたりはなんとも自信がありません」
「涼さんったら……。明日、司に訊いてみます」
「なんと?」
「動物を飼うとしたら何がいい? って」
「直球ですね?」
「司相手には直球が一番いい気がします」
「……覚えておきましょう」

 翌日の夕飯時――
「司、もし動物を飼うとしたら何がいい?」
「は?」
「司は動物を飼うとしたら何を飼いたい?」
 私がたずねているにも関わらず、司は涼さんの方を向く。
「……父さん、これ、なんの質問?」
「司はいつから日本語を理解できなくなったんだ?」
 涼さんはさも不思議そうな顔でたずねた。
 すると司は、ひとつため息をつき、
「俺の言い方が悪かった。何がどうしてこんな質問をされてるのかを知りたいんだけど」
「あら、純粋な好奇心よ?」
「それ、父さんも絡んでるの?」
「それはどうだろう?」
 涼さんがとぼけて見せると、司の表情はいっそう険しくなる。
「動物、飼うの?」
「まだ決めてはいないわ」
「ふーん……動物飼うなら飼育方法をちゃんと心得てからのほうがいいと思うけど」
 そう言って司は黙った。
 けれども、本音は違ったのかもしれない。
 翌日にはネットでオーダーしたであろう本が届いたのだ。
 届いた本は、犬と猫の飼育方法が書かれたもの。
 きっとそれらが司の選択肢にあがったのだろう。
 考えてみれば、ウサギと鳥は初等部の飼育広場にいるけれど、犬や猫はいない。
 自分が飼育したことのない動物を選択するあたりが司らしいと思えた。

 その週の土曜日、「これ」と司に本を渡された。
 本は二冊、犬と猫の本だ。
「俺はどっちでもいい。家にいて一緒にいる時間が長いのは母さんだから、母さんが決めたほうがいいと思う」
 そうは言うものの、付箋の数が歴然としている。
 司の関心は犬に向けられていた。
 司が家を出てから涼さんがくつくつと笑いだす。
「司は素直なのか捻くれているのかわかりませんね」
「そうですか? 私はとても優しい子だと思います」
 言いながら、付箋がたくさんつけられた本を開く。
 基本的な飼育方法に加え、犬種や重量によって異なるそれぞれのポイントにも事細かに付箋やアンダーラインが引かれていた。
 犬は大きさによってご飯の量も違えば必要とされる運動量も異なるらしい。そして、大きな犬になればなるほどリードを引く強さも強くなる。
 それらを司が考慮した結果、小型犬がいいのではないか、という問いかけが余白部分に書きこまれていた。
「ふふ……」
「なんですか?」
「やっぱり優しい子です。ただ、少し不器用なだけ……」
 私は涼さんに開いた本を渡す。
「……朝は無理だけど、夕方の散歩は俺が行く……?」
「えぇ。ほかにも……」
 そのページの下の方を指差すと、涼さんは司の書きこんだものを読んで目を細めた。
「そうですね。どうにも不器用なところが玉に瑕ですが」
「でもきっと……そんな不器用な司に気づいてくれる子もいるはずです」
「だといいのですが、なかなかハードルが高いようにも思えます。……真白さん、今日は出かけましょうか」
「どちらへ?」
「ペットショップへ」
 涼さんはにこりと笑んだ。
「嬉しいですっ!」
「朝食の片付けは私が引き受けましょう。真白さんは出かける支度をしてきてください」
 今日の休みは急遽ペットショップを巡ることになった。
 先週、真白さんに動物を飼いたいと言われたときは少し驚いた。
 だが、子どもが手を離れて「寂しい」というのはわからなくもなく、司がここにいるうちに新たなる家族を迎えるのも悪くはないと思えた。
 ただ、大型犬は存在感はあるが運動量もそれなり。
 真白さんに面倒が見られるかと訊かれれば不安は大きい。
 もしも大型犬を飼いたいと言い出したらどう宥めようかと思っていたところ、真白さんは何を飼うのかは司の希望を訊きたいと言った。
 そもそも、「寂しい」以外の理由がこの息子にある。
 小さいころから無口で表情が乏しい司は成長するたび、より無口に、より無表情になっていった。
 真白さんは久しぶりに三人の成長を振り返るようにクローゼットを開いたという。
 その中で場所を占めているのがスケッチブック。
 うちの子どもたちは描くものこそ違うものの、三人とも絵を描くことが好きだった。
 中でも司はとくに……。
 司は口数こそ少ないものの、絵を描く枚数は少なくなかった。
 幼稚部のときはクレヨンでのお絵描き。初等部へ上がると色鉛筆やクーピーで描くようになり、少し描写が細かくなった。
 初等部二年になるころには模写を覚え、庭先に来る鳥の模写をするようになった。
 ほかには初等部で飼育されている動物の絵が大半。
 時々真白さんにお願いされて花の絵も描いていた。
 真白さんは司が描いた絵をもとに刺繍をしていたのだ。
 つまり、刺繍の図案になるほど司の絵は上手だったといえる。
 小さかった司が中等部へ上がると、絵を描く姿はめっきり見なくなった。
 今は弓道に打ち込んでいるようだが、精神修行にはなっても感情をアウトプットする役割は果たさない。
 そういう意味では動物を飼うのはいいきっかけになるようにも思えた。
 
 食器を洗い終え、リビングのソファて司の購入した本を手に取る。
 それは猫と犬の飼育方法や犬種の選び方が書かれている。
 猫の本には申し訳なさ程度に付箋が貼られており、犬の本にはびっしりと付箋が貼られていた。
 それらを見て口元が緩む。
 司なりに真白さんのことを考えていたのがうかがえる。
 猫には散歩はいらないが、犬には必要。
 つまり、真白さんを家から出すきっかけになるとでも思ったのだろう。
 確かに、日々家の中で過ごす真白さんは少し陽に当たったほうがいいし、藤山内でかまわないから散歩程度に外へ出るべきだ。
 さらには、それをすべて押し付けるつもりではない、という書き込み。
 小型犬においても決めやすいようにいくつかの犬種がピックアップされていた。
 犬種別の性格やなりやすい病気なども簡潔に書き記されている。
 そこで選択肢として挙げられたのは、チワワ、ミニチュアダックス、トイプードル、シーズー、パピヨン、ヨークシャー・テリア。
 さて、真白さんはどの犬種を選ぶのか――

 真白さんの支度が整うと、警護の人間に連絡を入れてから藤山を出た。
 物々しい警備がつくのはいつものこと。
 この人間たちが動くことを考えて藤山から出られなくなる彼女にとっては、実に久しぶりの「外」だろう。
 真白さんは車窓から見える外の風景を楽しんでいるように見えた。
「嬉しそうですね」
「はい、とても楽しみです」
「犬種はお決まりですか?」
 真白さんは付箋がたくさんついている本を広げ、
「どの子もかわいくて……。涼さんは?」
「小型犬ならどの犬種でも」
「……大型犬はお好きではないのですか?」
「いえ、そんなことはありませんが……」
 不思議そうな顔をした真白さんは、その顔のまま話を続けた。
「私、司が選ぶのなら絶対に大型犬だと思っていました。でも、小型犬……。本当に優しい子」
 そう言って、真白さんは穏やかに微笑を浮かべた

 あらかじめピックアップしていたペットショップを数軒回るつもりでいたものの、一軒目で真白さんのおめがねにかなう犬と出逢うことになる。
 店内は小さく区切られたショーケースと、子犬たちがじゃれて遊ぶスペースに分かれていた。
 真白さんは店内に入るなり幼犬に釘付けになる。
「涼さんっ、小さくてコロコロしていてかわいいですねっ?」
 それはそれは嬉しそうに、腕に手を絡められた。
 好奇心に目を輝かせる彼女は初めて見た気がする。
「えぇ、かわいいですね」
 自分から見るに、かわいいを通り越してやんちゃすぎやしないだろうか、などと思っていると、
「涼さん……あの子真っ白です」
 真白さんは掴んでいた腕をするりと解き、ショーケースに歩み寄った。
 真白さんが見入ったショーケースには真っ白なチワワが眠っていた。
 スースー、と身体をわずかに上下させながら眠る様が愛らしい。
「ぬいぐるみのような」という形容がぴったりな犬である。
「かわいい……」
 真白さんがショーケースにそっと手を伸ばすと、閉じていた目がぱちりと開く。
 それは黒目がちで潤んだ瞳。
「あ……起こしちゃったかしら? ごめんなさいね」
 ショーウィンドウ越しに話かける真白さんを少し離れた場所から見ていた。
 すると店員がやってきて、
「抱っこすることもできますよ」
「本当ですかっ!?」
「はい。連れてきましょうか?」
 真白さんはキョロキョロと辺りを見回し俺の姿を見つけると、
「涼さんっ――」
 少し慌てた様子で声をかけられた。
 俺は彼女の背後に立ち店員に返答する。
「少し見せていただいても?」
「かしこまりました」
 その後、店員がすぐに真っ白なチワワを連れてきたわけだが、間違いなくこの幼犬を連れて帰ることになるだろう、と予想する。
 なぜなら、真白さんが運命の出逢いでもしたような顔でその幼犬を見つめていたから。
 ふと、その幼犬がいたショーケースに目をやると――生後二ヶ月の女の子。誕生日は去年の十二月一日。
 彼女はこのことに気づいているだろうか。
 ――いや、気づいていない気がする。
「涼さん、小さいですっ。あたたかいですっ」
 目を輝かせた真白さんに、「触ってみませんか?」と勧められた。
 引き受けた子犬を抱き、「確かに小さい」と納得する。
「この子は成犬になったらどのくらいになるのでしょう?」
 店員にたずねると、店員は子犬の前足に視線を移す。
「この子はチワワの中では少し大きいかもしれませんね。骨格がしっかりしているので四キロ前後まで大きくなるかもしれません」
「だそうですよ。真白さん、いかがなさいますか?」
 どうしたことか、彼女は言葉を噤んだ。
「私はこの子を連れて帰りたいのですが……」
「……司、ですか?」
「はい。私ひとりで決めていいものかと……」
「では、司にも選ぶ権利を与えましょう」
 俺は携帯でいくつか写真を撮ると司に送りつけた。
 しばらくすると司から連絡が入る。
『なんで写真?』
「情報を共有するには有効だろう?」
『なるほど……。別に父さんと母さんで決めてくれてかまわないんだけど』
「真白さんが司の意見を訊きたいと言っている」
『なら、母さんと同じ誕生日の犬にすれば? 確か白いチワワだったと思う』
 通話はそれで切られた。
「なんとも素っ気ない息子ですね」
「司はなんて……?」
「司もその白いチワワがいいそうです」
「本当ですかっ!?」
「えぇ、司が言ってましたよ。その子の誕生日が真白さんと同じだと」
「えっ……?」
 彼女は目を見開いてショーケースを振り返った。

 予想どおり、真白さんが一番に手を伸ばしたチワワを連れて帰ることになり、その場で動物保険なるものにも加入した。
 ほか、サークルに始まり、食器にカラー、リード、フードにトイレシーツ。
 ありとあらゆる備品を買って大荷物での帰宅。
 家についてからはサークルの設置場所を決め、その場で組み立てる。
 周りがある程度片付いたところで子犬を部屋に放した。
 最初は戸惑っていたものの、数分もすると鼻をひくつかせてあちこちを嗅いで回り始める。
 リビングからダイニング、キッチンへ行って戻ってくると、躊躇しながら廊下に出て寝室へ向かう。
 寝室伝いにある書斎へ行くと、次は書庫。
 子犬の好奇心は絶えないらしい。
 然して大きな家ではないものの、子犬には広すぎたようだ。
 ぴょんぴょんと跳ねるようにして歩いていた動作が鈍くなる。
「疲れちゃったのかしら?」
「そうかもしれませんね。先ほどお店の人にも言われましたし、まずはサークルに入れて休ませましょう」
 三限が終わったところで携帯が震えた。
 ディスプレイを見ればメールの着信を伝える表示。
 メールを開こうとすると、続けていくつかのメールを受信した。
 差出人は父さんだった。
 そして、添付されているファイルはすべて子犬の写真。
 これは間違いなく犬を買うつもりでペットショップめぐりをしているのだろう。
 届いたメールすべてに目を通し、父さんに電話をかけた。
「なんで写真?」
『情報を共有するには有効だろう?』
「なるほど……。別に父さんと母さんで決めてくれてかまわないんだけど」
『真白さんが司の意見を訊きたいと言っている』
 そんなことだろうと思った……。
「なら、母さんと同じ誕生日の犬にすれば? 確か白いチワワだったと思う」
 それだけを伝えて切った。

 先日、夕飯の席で、「動物を飼うとしたら何がいいか」と母さんにたずねられた。
 前振りが一切なく、「藪から棒に」という言葉がぴったりな状況で訊かれて困惑した俺は、どうしてこんな質問をされているのかを問い返した。
 それに対する答えは、「純粋な好奇心」。
 その言葉に嘘はないだろう。
 けれども、あれは間違いなく何か動物を飼うことを前提で訊かれていたと思う。
 突拍子もない問いかけにすぐ答えることはできなかった。が、家で飼うなら犬か猫、ウサギ、鳥――このあたりだろうか。
 ウサギと鳥に関しては初等部で飼育経験がある。
 飼育経験があるもののほうが問題なく飼うことができそうだが、新しい動物に触れたいという欲求がなくもない。
 だとしたら、猫か犬――
 ふと脳裏を掠めたのは大型犬。
 しかし、その選択肢は早々に却下する。
 動物を飼ったとして、自宅で一緒にいる時間が長いのは母さんだ。
 飼うなら飼うで責任を持って育てられる生き物のほうがいいだろう。
 たとえば猫や小型犬なら、何かあっても母さんでも抱え上げることができる。
 大型犬はどう考えても無理だろう。
 ならば、猫と小型犬ならどちらがいいか……。
 猫は共に散歩する必要はないが、犬は一緒に散歩をする必要がある。
 ……犬にしたら母さんの負担になるだろうか。
 でも、母さんは少し家から出たほうがいいことは確か……。
 それなら、朝の散歩は母さんに任せるにしても、夕方の散歩は俺が行こう。
 そうすれば、母さんの身体にもいいだろうし、母さんだけに負担がかかることもない。
 躾を入れるのも犬のほうが入りやすいだろうし……。
 俺は取り寄せた本に付箋やアンダーラインを引き、それを今朝母さんに渡してきた。
 そしてこの時間に連絡……。
 もしかしたら、今日は家に帰ったら犬がいるかもしれない。
 そう思うと、少し帰宅時間が楽しみに思えた。

 部活を終えて自宅へ帰ると、
 ワンワンッ――ワンワンワンワンッッッ。
 リビングにいるであろう犬にこれでもか、というほどに吼えられていた。
 リビングに顔を出すと、
「司、おかえりなさい!」
「ただいま……」
 部屋の中に新設されたスペースへ視線を移すと、小さなぬいぐるみみたいな犬がいた。
 見かけはかわいいのに、吼え方には険があっていただけない。
「なんで吼えられてるのかわからないんだけど……」
「今まで私と涼さんしかいなかったから、もしかしたら警戒しているのかもしれないわ」
「ふーん……」
 サークルの上から見下ろすと、「ウー」と唸られる。
 こんなに小さいのに、唸り声や鳴き声はいっぱし。
 しかし、母さんがサークルを開けて抱き上げると、嬉しそうに尻尾を振る。
 何、この差……。
「司も抱っこしてみる?」
「……抱っこした瞬間に吼えられたら教育的指導しそうなんだけど」
「別にかまわないわ。叩いたりしなければいいわよ?」
 そう言われて、いやがる子犬を抱っこした。
 子犬は険しい視線を向けて歯を剥く。
「……あのさ、俺はここの住人。認識してもらわないと困るんだけど」
 子犬は警戒心を帯びたままにきょとんとした顔を見せ、ほんの少し鼻先を俺に近づけた。
 クンクン――匂いを嗅いで首を傾げる。
 ……こいつ、何考えてるんだろ。
 子犬は母さんを振り返り、母さんが手を出すと、今度はその手の匂いを嗅ぐ。
 何か思うところがあったのか、また俺のほうを向くと、今度はペロリと手を舐めた。
 何こいつ……かわいい――
「母さん、これの名前は?」
「まだ決めてないの。名前は司が決めてあげて?」
「……雪か花。――雪は冷たそうだから却下で、花」
「ハナ! かわいい! ハナ、良かったわね! あなたの名前はハナよ?」
 ハナは今まで聞いたこともない響きで自分が呼ばれていることを不思議そうに耳をピクピクと動かす。
「ハナ……今日からよろしく」
 それだけ言ってサークルにハナを戻した。

 その日の夜半、コーヒーを淹れに一階へ下りると、暗がりの中でふたつの目がこちらを見ていた。
 なんとなしに近寄ると、ハナは身を震わせていた。
「なんで震えてる……? 寒いのか?」
 でも、ベッドの中にはホットマットが敷いてあるはずだし……。
 カップをダイニングテーブルに置きハナに手を伸ばす。と、縋るように手にまとわりついてきた。
 その直後、バリバリバリドドーン――季節はずれの雷が轟く。
 もしかして、雷が怖いのか?
 抱き寄せると、俺の脇に鼻先を突っ込む始末。
「……怖いのか」
 犬の聴覚は人間の四倍から十倍というし、人間が十六方向から音を感知するのに対し、犬は倍の三十二方向――
 恐らく、人間が感じる以上のものを感じているのだろう。
「……俺の部屋に来るか?」
 ハナは一度俺を見上げてから、再度きゅ、と脇に鼻をうずめた。
「……了解」
 俺はコーヒーを淹れるのをやめ、ハナを連れて自室へ戻った。

 電気の点いていた部屋にハナを放すと、ハナは初めて入る部屋に関心を移す。
 色んなものの匂いを嗅いで回っては、雷が鳴るたびに俺の足元に逃げてきて抱っこをせがむ。
 俺は久しぶりにスケッチブックを開き、膝に乗せたハナを描いた。
 時間的には二十分くらいなもの。
 膝でうとうとしては雷の音に起こされるハナが少々哀れになり、布団に入れて一緒に寝ることにした。
 布団に入ることで少しは音が小さくなるといいけれど――
 俺の腕を顎置きにしているハナは時折ビクビクと身を震わせていたが、一時間もすると雷は止み、すやすやと寝息を立てて眠り始めた。
 動物のぬくもりに触れるのが久しぶりで、あたたかな身体を撫でると心が満たされる気がした。
 動物に触れるにしても、こんなふうに一緒に寝るのは初めてのこと。
 くすぐったいのが柔らかな毛のせいなのか、「一緒に寝る」という行為に対してなのかがわからなかった。
 ハナ、三回目の予防接種が終わったら、藤山を案内してやる。
 そんなことを思いながらハナの眉間をさすると、薄く目を開け「ぷしゅ」と鼻を鳴らして目を閉じた。

 翌朝、ハナがいないことに慌てた母さんが部屋へ飛び込んできた。
「司っ、ハナがいないのっ」
「ハナならここにいる」
 ハナは俺のベッドの上で身を投げ出していた。
「昨日、夜遅くに雷鳴ってて、それが怖かったみたいだから一緒に寝た」
「あら……そうだったのね。……ハナ、気づかなくてごめんね」
 母さんがそっと手を伸ばすと、ハナは尻尾を千切れんばかりに振って立ち上がる。
「司、ありがとうね。そうそう、今日は楓と湊ちゃんが来るのよ」
「なんで……」
「なんでって……実家だもの。何もなくてもいいでしょう? でも、今回はの目的はこの子、ハナを見に帰ってくるの」
「あぁ、そういうこと……」
 ふと、玄関を開けた瞬間にハナに吼えられるふたりを想像して笑みが漏れた。

 ハナは一階へ下りるとトイレを済ませ、母さんにご飯をねだり始める。
 母さんは嬉しそうに、それに応えるべく朝ご飯を用意した。
 先にハナにエサをあげようとした母さんに、
「母さん、ハナは人間のあと」
「え?」
「優先順位を教えるため、それは崩したらだめ」
「……わかったわ」
「渡した本、ちゃんと読んだ?」
「まだ全部は読めていないの」
「なるべく早くに読破して」
「はい……」
 しゅんとした母さんを見た父さんが、
「真白さん、エサをあげる順番が多少前後したところでハナのヒエラルキーにはさほど影響はないかと思いますよ」
「どうしてでしょう?」
「犬はエサをくれる人が一番好きですし、逆らってはいけない人だと認知します。そこからすると、真白さんに対してだけはハナがつけ上がることはないでしょう。……そうですね、つけ上がるとするなら私か司に対してでしょう」
 言いながらも俺が下にくることを匂わす視線をよこす。
「……いや、俺は最下位にならない」
 昨夜だって一緒に寝てやったし……。
 これから来る姉さんと兄さんに負けるはずがない。
 そんなことを考えていると、母さんはクスクスと笑いだし、父さんはくつくつと笑った。
「司は動物を目の前にしてるときは感情が表情に表れやすいわね」
「そんなことない」
「ムキになった時点で肯定しているも同然だ」
 これ以上言い返したところで溝にはまるだけな気がした。
 俺は朝食の用意を手伝うために無言でキッチンへと逃れた。
 自分でもなんとなくわかってはいる。
 感情がどうこう以前に、人間より動物と向き合うほうが楽。
 動物は嘘をつかないし損得勘定もしない。
 エサをくれる人間には媚を売るかもしれないが、その程度ならかわいいものだ。
 藤宮の名にたかる強欲な人間たちとはわけが違う。
 動物の生態を知ることは楽しいと思えたし、何よりも利害関係がないところに惹かれた。
 こんなことを考えているからか、俺には友人と呼べる人間がいない。
 でも、それで問題が生じるわけでもなければ俺が困ることはない。
 だから、きっとこの先も何が変わることはないだろう――
 ハナを迎えて一ヶ月が過ぎたころ、三度目の予防接種も終わりお散歩へ出かけることができるようになった。
 お散歩に行く、といっても藤山の中を歩くだけ。
 いつもは、お父様がお母様のために作った散策ルートの短距離コースをハナと歩く。でも今日は、涼さんも一緒だから長距離コース。
 ハナは足取り軽やかに私たちの少し前を歩いていた。
「司の様子はいかがですか?」
「どうでしょうね。あまり表立った変化はないのですが、ここのところリビングでハナの絵を描くことが増えました」
「ほほう……。学校から帰宅したら部屋に篭って勉強ばかりしていた司が、ですか?」
「えぇ、その司が、です」
 私たちはクスクスと笑う。
「あとは、私よりも一生懸命ハナに躾や芸を入れようとしています」
「くっ、ハナにとってはいい迷惑ですね」
 ハナは自分の話題であることに気づいたのか、歩みは止めることなくこちらを振り向いた。
「ハナ、司はとってもいいお兄ちゃんよね?」
 たずねると、ハナはどこかツンとした表情で、それまでよりもテンポを速め意気揚々と歩きだす。
「おやおや、私がお姉ちゃんよ、といった歩きぶりですね」
 司は三人姉弟の末っ子。
 けれども、隣の家には従兄の秋斗くんもいるため、姉がひとり、兄がふたりといった環境で育ってきた。
 この子が小さいころは、「子どもらしくない子ども」とよく言われたものだけど、末っ子の気質はしっかりとあった。
 わがままを言うことこそなかったものの、人一倍負けん気が強い子だった。
 常に湊や楓、秋斗くんをライバル視しており、三人がしていることはなんでもやりたがった。
 絵を描き始めたのも三人の影響。
 湊が風景画、楓が人物画、秋斗くんが静物画。
 司も最初は静物画を描いていたけれど、対象はしだいに動物へと変わっていった。
 そして、司のこの向上心に目をつけた湊たちは、面白がって勉強を教え始めた。
 おかげで、司は幼稚部の時点で九九が言えるようになっていたし、初等部に上がる前には分数や小数点の足し算引き算掛け算割り算までできるようになっていた。
 学習の分野は算数に留まらず、ほかの教科も満遍なく。
 同学年の子が学ぶものの先をいく司は、入学したときから学校という場所に不満を持っていた。
 なぜなら、学校で学ぶことはすでに湊たちから習ったものばかりだったからだ。
 学校へ行っても新しい知識は得られないと解釈してしまった司は、さらに湊たちから得られるものを無心し、学校に価値を見出すことはなかった。
 そんな司が学校へ休まず通っていた理由は、「義務教育」であることを理解していたから。そして、学校へ行けば動物がいたからだろう。
 しかし、それも初等部までのこと。
 中等部には動物がいないため、気づけば司は先へ先へと勉強を進め、あっという間に高等部までの勉強を終わらせてしまった。
 先日、高等部へは上がらず留学したいと言い出したけれど、それはどうなることか――

「真白さん、何を考えていらっしゃいますか?」
「……司のことです」
「留学のことでしょうか」
「えぇ……」
「真白さんは反対ですか?」
「……司が価値を見出せる場所に身を移すことには反対しません。ですが、海外ともなると寂しいです」
「……そうですね。でも、なるようにしかならないでしょう」
 涼さんは相変わらず涼やかな顔をしている。ちょっと悔しくなって、
「もしも湊が留学したいと言ったらどうしましたか?」
「そうきましたか……。そうですね、どうしたでしょう」
 涼さんは確かな言葉は述べなかった。
「真白さん、きっと大丈夫ですよ」
「え……?」
「湊と楓、秋斗の三人が司の成長を見逃すと思いますか?」
 涼さんが何を言わんとするのかがわからない。
「あの三人は私たち以上に司に手を尽くしてきたでしょう。これからの成長が楽しみな弟分をそう易々と手放すとは思えません。そのくらいには我の強い三人だと思いますよ」
「そうでしょうか……」
「では賭けますか?」
「えっ!?」
「私は湊たちが説得に説得を重ねて海外へ行かせないほうへ一票。真白さんは?」
「……これが賭けならば、私が海外へ行くほうへ賭けなくては成立しなくなってしまいます」
「おや、ご不満そうですね。では、留学しないことを願いましょう」
 願ったなら、司は国内に留まってくれるのだろうか……。
 不明瞭な未来を案じていると、涼さんに手を掴まれた。
 そのまま引き寄せられ胸に頭を預ける。
「大丈夫ですよ。すでに言質は取ってあります」
「言質、ですか……?」
「はい。真白さん、司に渡された犬の育て方の本は大切にしまっておくように」
「え……?」
「あれには司の一筆が書かれていますからね」
「一筆……」
「思い出してください」
 何を……?
「ハナの朝の散歩は真白さんが、夕方の散歩は司が行くと書かれています。いざとなれば、その役割を放棄するのか、と問い質せばいい」
 私が絶句していると、
「私は子どもたちを無責任な人間に育てた覚えはありません」
 涼さんの顔を見上げると、額にふわり、と優しい口付けが降ってきた。
「真白さんに悲しい顔はさせません」
 涼さんは真っ直ぐな視線で、
「私の言うことが信じられませんか?」
「いえ……」
「では、信じていてください」
「……はい」
 涼さんはにこりと笑い、今度は少し腰を屈めて唇へと口付けられた。

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