自分が藤宮の人間を好きになろうとは……。
 思わぬ誤算とはこういうことを言うのだろうか。
 腕時計に表示される月日を見て、しばし驚く。彼女と出会ってから、すでに二ヶ月が経っていた。
 短かったと思うのは俺だけか……?
 彼女がどう思っているのかは知らない。わかっていることといえば、噂が広まり飛躍すればすぐに身を引く、ということのみ。
 
 出勤すると、朝から院内が騒がしかった。
 騒がしいといっても、急患が運ばれてきて慌しい、という類のものではない。
 ただ、自分を取り巻く噂が一転したらしい、という程度。
 いつものようにそ知らぬ顔を決め込むと、とてもかわせそうにない人物がやってきた。
 藤宮紫、彼女の兄だ。
「芹沢先生、妹と婚約破棄って言うのは――」
「紫先生、おはようございます」
 にこやかに朝の挨拶などしてみた。
 その言葉にはっとしたのか、きちんと挨拶が返ってくる。
 こういうところに育ちのよさが出るな、などと思っていると、
「……じゃなくてっ」
 瞬時に話を戻された。
「落ち着いてください」
「落ち着くも何も……」
 いつもは温厚な人が、どうにもこうにもおさまりがつかない、といった感じだ。
 掴み掛かることはないが、そうされてもおかしくない勢いがあった。
「紫先生、噂は噂です」
「じゃあっ……」
「私は真白さんとお付き合いをすることは許されておりますが、婚約をしたわけではありません」
「っ!?」
 目を見開き怒りを露にする。
 俺はそれを無視して自分のペースを守る。
「最初の噂は交際。次が婚約、今は婚約解消のようですね? まだ私たちは婚約すらしてないというのに。噂ばかりが先行します」
 紫先生が口を開けた瞬間に、言葉を発した。
「ご安心を……。決して真白さんを弄んでるつもりはございません。私たちはまだ何も決まっておりません。噂は二転三転するものです。どうか、それに心煩わされないようお気をつけください」
 まだ納得もしていないし、言い足りないようでもあった。
 が、噂ごときに時間をとられるのは癪だ。
 そもそも、自分の想いに気づいた途端に婚約破棄説などと――

 噂は聞きたくなくとも聞こえてくる。そして、噂の事実確認をしにくる人間までもが出てきた。
 それらすべて、適当に答えあしらってはいたものの、休憩の度に訊かれていればうんざりもする。
 疲労とイラつきが最高潮に高まった日、帰り支度の済んだ俺に、事務の女が声をかけてきた。
「なんでしょう?」
 自然と、いつもより低い声になる。
 振り返ると、女の表情は硬く、言葉にするなら「緊張」の二文字。
「こちら……」
 そう言って差し出されたのは電話の子機。
 声音に気をつけ、問い返す。
「私に、ですか?」
「は、い……藤宮、会長から……です」
 もしかしたら女の緊張は俺に声をかける前からだったのかもしれない。
 電話をかけてきた人間、藤宮元に緊張を強いられているのだろう。そして、院内を跋扈ばっこする噂を知っていれば、どんな内容なのか、と詮索のひとつやふたつもするのが人間というもの。
「ありがとうございます」
 子機を受け取り、フロアの端へ移動する。
「お待たせいたしました。芹沢です」
『これから屋敷へ来い。十分以内だ』
 それだけで通話は切れた。
 ……紫先生もそうだったが、この狸もか? 情報が早い、というよりは頭に血がのぼりやすいのだろうか。
 血圧計を持っていって測ってみたいものだ、などと考えつつ、子機を先ほどの女に渡す。
「ありがとうございました」
「い、いえっ……」
 女は、俺の顔を見たまま眉をひそめていた。
 心配されるようなことでも、間柄でもないんだが……。
「どうやら噂の件でお叱りを受けるようですよ」
 俺は笑みを残してその場を去った。

 本院を出て数分のところにある車のドアを開け、身体は動かしたままに考える。
 さて、どうするか……。
 今から来い、ということはもう自宅にいるのだろう。
 だとしたら、彼女と連絡を取り、口裏を合わせることはできない。できることといえば――
「あのお手伝いさんがいるといいんだが……」
 いつも電話を取り次いでくれる使用人。名を川瀬といったか……。
 かばんから手帳を取り出しペンを走らせる。『私に話を合わせてください』とだけ記すために。
 書き終えると、そのページを切り、胸の内ポケットにしまった。

 病院から屋敷まで、さほど距離はない。
 あるのは、私有地入り口と屋敷前の警備システムだろう。
 私有地の入り口に着くと、車を降りるように言われる。
 ボディチェックを受けるところまではいつもと変わらないが、そのあと、敷地内に待機していた車に乗るよう指示された。
 車両チェックには今しばらく時間がかかるためだろう。
 エンジンのかかった車には運転手がおり、自分は後部座席へ乗るように言われる。
 運転手は彼女の護衛リーダーを勤める人間、藤堂武。
「お車は車両チェックが済み次第、邸内へ移動させていただきます」
 言うと、車を発進させた。
「お手数をおかけして申し訳ございません」
 儀礼的に礼を述べると、
「いえ……――」
 明らかに、何かを言おうとしてやめたような間。
「何か?」
 訊くと、バックミラー越しに鋭い視線が返された。
「いえ、何もございません」
「……初めてお会いしたときにも感じましたが、何も……というようには思えないのですが」
 この男のことは彼女から少しだけ聞いていた。
 藤宮の分家である藤守、さらにはその分家の藤堂の人間であること。それから、紫先生とは幼馴染で親友という仲であること。
 察しはついていた。この男も彼女が好きなのだろう、と。
「……真白様に何かあってみろ。ただじゃおかない」
 なんともわかりやすい敵意だった。むしろ、敬語を使われないほうがしっくりくる。
「あなたがそう仰らなくとも、すでに会長に呼び出しを食らっている私ですよ? それ以上の何があなたにできますか?」
 答えを訊く前に屋敷に着く。
「あなたは、一介のナイトのままでよろしいのですか?」
 降りる間際にたずねると、
「真白様の気持ちが第一です」
 言葉はまた敬語に戻った。それは俺に対してではなく、彼女に対してのもの。

 屋敷の入り口にはいつもと同じように川瀬という使用人が待っていた。
「応接室までご案内いたします」
「結構です」
「っ!?」
 びっくりした顔をして俺を見上げた。
「驚かせてしまって申し訳ございません。これを……」
 内ポケットから取り出した紙を握らせ、
「真白さんにお届けください。応接室に来る前に、必ず」
「……かしこまりました。応接室にはほかの者に案内させますので、今しばらくお待ちください」
 女が去ったあと、すぐに代わりの人間が来て応接室に案内された。
「失礼いたします」
 応接室に入ると、部屋の主の鋭い視線が飛んでくる。
「お待たせして申し訳ございません」
「時間内に来た者に文句は言わぬわ」
 向かいに座るように、と目で促され、浅めに腰掛けた。
「で、お話とは……?」
 知ってて訊く。
 彼女が来る前に終わらせることができるならばそれに越したことはない。が――
「真白がすぐに来るじゃろう。話はそれからじゃ」
 どうやら、ふたりだけで話を済ませるつもりはないようだった。
 使用人が茶請けと茶を運んできて数分。彼女の声がするまで、部屋はカッカッカッカッ、と人の背丈ほどある振り子時計の音のみ。
「失礼いたします」
 硬質な声が聞こえ、彼女が部屋に姿を現す。
 声だけではなく、表情も硬かった。
 自分と父親を交互に見る彼女に、
「真白さん、こちらへ」
 席を立ち手を伸ばした。 
 彼女は戸惑いながらもその手を取る。 
「ほぉ……どうやら噂は単なる噂のようじゃの?」
 ソファに座りなおすと狸に問われる。目は鋭いというよりも、ニヤリと笑っていた。
 ……仕方ない、受けて立ちましょう。
 す、と息を吸いこみ、静かに、淡々と話す。
「火のないところに煙は立たないものです」
 彼女がはっとした様子でこちらを見ているのを視界の端に捉えた。
 どうか、そのまま何も言わずにいてくれ……。
「ほぉ……? それはどういう意味かぜひ知りたいのぉ」
 狸は髭をいじりながらソファから身を乗り出して見せる。
「お付き合いを認めていただきたくこちらにご挨拶に伺った際にもお話させていただきましたが、現時点ですぐに結婚どうこうは考えていない……と、そう申しましたのを覚えていらっしゃいますでしょうか?」
「おぉ、そんなことも言っておったな? あのときは真白が大声を出すなぞ珍しいものを見たせいか、ほかのことをほとんど覚えておらんでな」
 きっと覚えていたとしてもそう答えるのだろう。だが、そんなことは問題ではない。
 このまま自分のペースで話させてもらえればそれで十分。
 ずっと聞いていた振り子時計の音に、いつしか自分の心拍が重なり始めていた。
 つまり、脈拍は毎分六十前後。速くも遅くもない、いいペースだ。
「院内で婚約、結婚間近だという噂が持ちきりになった際、私は同じことを申しました。お付き合いに関しては肯定しておりますが、結婚に関しては何ひとつ話しておりません」
「くっ……おぬし、なかなか狡賢いのぉ」
 狸はくつくつと笑う。
「それでは、真白が蔑ろにされているようではないか」
 抑揚をつけた口調にも淡々と言葉を返す。
「そのようなつもりはございません。ただ、職場での浮ついた噂は迷惑甚だしいのと厄介だと思いましたので、お付き合いすることはご了承いただいてますが、『婚約』のお許しを得たわけではない、と……そう申し上げたつもりだったのですが」
 笑みを送り、
「言葉の捉え方は実に三者三様ですね」
 言うと、狸は豪快に笑い出した。
 手元にある電話の子機を取り、「夕飯の用意を」と短く告げて切る。
「食べて行くじゃろう?」
 俺はその誘いを笑顔で断った。
「申し訳ございません。帰ってやらねばならないことがございますので」
「ほぉ……なんじゃ? 言ってみよ」
「明日のオペの予習を。勤続二年目の医師にはまだまだ勉強せねばならないことが山積みです。お話がお済みのようでしたら、こちらで失礼させていただきます」
 彼女の手を放し、席を立つと、
「真白、夕飯の席には遅れてもかまわん。そやつを送ってやれ」
「はい」

 応接室を出ても彼女は蒼白な顔で黙り込んでいた。
 邸内ではできない会話がある。
 使用人と言えど、人目のある場所では「申し訳ない」と謝ることすらできない。契約解消の話も同様に――
 そんな状況に、俺はほっとしていた。
 長い廊下を歩き、玄関まで来ると、
「ここまでで結構ですよ」
 そう申し出る。
「いえ、せめてお車まで……」
「蚊に刺されたら痒いですよ? その白い肌が赤くなるのはもったいない。ここまでで結構です」
 瞳を潤ませる彼女を見かねてか、川瀬さんが申し出た。
「お嬢様、私が代わりにお見送りしてまいります。どうか、母屋にいらしてください」
 彼女ためらいながらもその言葉に従った。
 玄関を出て、
「川瀬さんも、こちらで結構ですよ。私はどこぞの令嬢でも跡取りでもありません。こういった見送りには慣れていないんです」
「……お嬢様に申し出た手前、お見送りさせてくださいませ」
 これ以上は困らせるだけか……。
 仕方なく、おとなしく見送られることにした。
 玄関を出て少し歩いた場所に、車が停まっていた。そのすぐ近くにあの男も立っている。
「お車の鍵です」
 渡されたキーを手に、車のドアを開けた。
「あのっ……」
 振り返ると、川瀬さんが早くも声をかけたことを後悔したような顔をしている。
「なんでしょう?」
 川瀬さんは男の目を気にしつつ、
「病院でのお噂は……お嬢様は……」
 あぁ……ここにも噂に踊らされている人間がいるわけか。
 しかし、これは紫先生と同質のもの。色濃く見えるのは「心配」の二文字。
「川瀬さん、噂は噂です。今日はそのことを申し上げに参りました。どうぞ、ご心配なく」
 ふたりに軽く会釈してから車に乗り込み、発進させる。
 車内すべての窓が開けてあったことから、息苦しいむわっとした暑さは感じない。
 ただ、夏の夜らしい、湿気多めの空気がそこにあった。
 屋敷に呼び出されてから数日――いつもより早くに診察室に着くと、看護師たちの話し声が聞こえてきた。が、何かおかしい。
 業務確認を行うときとは異なり、声は周囲を気にするように潜められている。
「ミキ、やばいってば。噂が本当だったらどうするの?」
「そうだよ、こんなのばれたらクビ飛ぶって」
 女はふん、と鼻で笑う。
「院内にどれだけの人間がいると思ってんの? ファックスを誰が流したかなんてばれるわけないじゃん」
 ミキと呼ばれているのは、検査のとき、俺につくことの多い看護師、笠原のことだ。ほかのふたりは同じ消化器科の看護師、楠田(くすだ)と猪瀬(いのせ)だろう。
「あんな噂デマだし」
「え? デマ?」
「デマデマ。あのふたり、別に好きあって付き合ってるわけじゃないから。それだけは確か」
 自信たっぷりに言い切った。
「でも、休みの日にデートしてるって、見かけた人結構いるみたいだし、会長宅にも出入りしてるらしいじゃん」
「ごっこだよ、ごっこ。お付き合いごっこ、恋人ごっこ。……私、聞いちゃったんだよねー。宮の姫が芹沢センセと話してるの」
「ちょっと、それっ、どういうことっ!?」
「マシロ様が検査した日、私、九十九つくも先生付きだったんだけど、検査が終わって診察室で検査結果話してるの聞いちゃったんだ」
「ミキっ!?」
「そしたらさ、見合いが負担でストレス性の胃潰瘍だって。バッカみたい。お姫様は見合いでも結婚でもさっさとすればいのに。でさ、芹沢先生も芹沢先生だよ。普段は藤宮なんてなんとも思ってないって感じなのに、『自分が交際相手になりましょう』とか言っちゃってさ。私たち看護師や院内の女蹴散らすのに丁度いいと思ったみたい」
「それっ、ホントなのっ!?」
「本当も本当。だから、絶対に結婚とかあり得ないしっ」
「だからミキ、芹沢先生のこと諦めなかったんだ?」
「そーゆーことっ!」
「でもさ、そのファックスはまずいって……」
「私もそう思う……。仮に交際してることが偽装だったとしても、そのファックス流したら姫様敵に回すようなものだよ!?」
「あんな女怖くないっ。おとなしそうな顔して、うちの医師、何人たぶらかせば気が済むのよっ」
 ピッ、と電子音がし、ファックス機に手をかけたのがわかる。
 ここまで聞けば十分だろう。
 こちらに背を向けている三人に歩み寄り、ファックス機の電源を根元から引き抜いた。
 当然、ファックス機はうんともすうとも言わなくなる。
 三人は、声もあげずに一斉に振り返った。
 正確には、声をあげることもできなかった、というべきか……。
 引き抜いたプラグを差し込むと、中途半端に吸い込まれた用紙が自動的に吐き出される。
 用紙にはいくつかの画像が写っていた。
 そのどれにも彼女、真白さんが写っている。見覚えのある場所はすべて院内。そして、相手はうちの病院の医師たち。
 さらには怪文書よろしく、雑誌や新聞を切り抜いた紙で、『宮の姫は淫乱。医師を手当たりしだいつまみ食い。写真の医師は被害者です』と貼られていた。
 それらをさらっと流し見て思う。
「よくこんなものが手に入りましたね?」
「せ、芹沢先生っ!? 私っ、違っ……」
 笠原が真っ青な顔で否定を口にする。両脇にいた楠田と猪瀬は口もとを手で覆い、悲愴そうな顔をしていた。
「……私と真白さんの写真がこの文の上にあるのは、今現在、噂の的になっているふたりだから、でしょうか? しかも、誘惑したのが真白さん、ですか。……ほほぉ。こうやって何人もの医師をたぶらかしている、と? ――そのような事実があったのですか?」
「そ、その写真が証拠ですっ」
「この写真が証拠とは……互いに手を添えて抱き合っていたり、口付けでもしていれば別ですが、これはどう見ても医師が真白さんの腕を掴んでいるようにしか見えませんね? もっと言うなら、真白さんは嫌がってるようにしか見えないのですが……」
「っ……男はそういうのにそそられるんでしょうっ!?」
 口調が変わったか……。
 くっ、と俺は喉の奥で笑う。
「好みは人それぞれかと……しかし、この写真が証拠ですか? 大変残念なことに、これだけでは『証拠』としては不十分でしょうねぇ。絶対的に数が少ない、。それに、写真を見た人の心証というものもあります。物証はもっと決定打になり得るものでなくてはいけません。もしくは、この写真に写っている医師や真白さんご本人から証言を得てるとでも?」
 笠原の目を見据えると目を逸らした。
「……そうでしょうね。笠原さんの目的は真白さんを中傷することにあるようなので、きちんとした証拠や証言など必要なかったでしょう」
「っ……」
「ですが……笠原さん、写真選びは慎重になさったほうがいいですよ。写真のここ、安全ミラーにあなたの姿が写っています。このファックスを誰が送ったかのはわからずとも、写真を撮った人間はすぐに特定できたでしょう。このファックスが公になれば、藤宮の方々が黙っているとは思えませんし……。ファックスを送った人間、写真を撮った人間くらいはすぐに割り出される。写真を撮った人間は共犯にはなり得ませんか?」
 にこりと笑って三人を順に見た。
「せ、芹沢先生っ、私たちは何もっ……」
 猪瀬が自分は関係ないと言い出し、それに楠田も続く。
「えぇ、存じてます。ふたりが笠原さんを止めている会話はすべて聞いておりましたので」
 ふたりは心底ほっとしたようだったが、激情したのが約一名。
「立ち聞きなんてっ」
「おや? 患者と医師の会話を立ち聞きし、さらには人に話すような方に、そのようなことを言及されたくありませんね」
「っ……だってっっっ」
 この状況で何をどう反論しようと言うのか、俺には理解できない。
 同僚のふたりも笠原と距離をとってしまう始末。
「なんでしょうか?」
 訊くと、
「芹沢先生、飲み会に誘ってもランチに誘ってもいつも断ってばかりでっ」
「それが何か? 断る自由くらい私にはあるかと思いますが?」
「っ……」
「内容がどんなものであれ、患者と医師の話を第三者に話すなど言語道断。決してあってはならないことだと思いますが……笠原さんがそのあたりをどう考えているのかお聞かせ願いたい」
「それは……」
 激情したあとには泣きそうな顔をしている。だが、もう救う道など残されてはいない。
 このファックスが流れていたら、いずれは彼女の耳にも入っただろう。
 そしたら、彼女は心を痛める。
 写真を撮られた己を愚かだと責め、共に写った医師が糾弾されないか、と心配するに違いない。それらを危惧して、こんな事実はない、と父親に泣きつくだろうか。
 すべて抱え込んで、口も心も閉ざしてしまいそうだ……。
 何にせよ、こんなことで良くなってきている胃を悪化させられるのはごめんだ。
 ましてや――自分の好きになった女を傷つけようとした人間を、おいそれと放置できるものか。
 そこまで考えて、ふと思う。
 藤堂武ならどうしただろうか、と。しかし、すぐに違う人間が脳裏に浮かぶ。
 あの狸が動かないわけがない。愛娘の耳に入る前に、きれいさっぱり片付けそうだ。
 とりあえず、そんな大事になる前に食い止められそうだが……。
「ここが病院であろうと、一企業であろうと、顧客の情報漏洩はあってはならないことだと思いませんか?」
 にこりと微笑みかけると笠原は完全に口を噤んだ
「私はあなたの上司ではありません。……が、もし仮にそうだったとして、守秘義務すら守れないような部下は持ちたくありませんね。……まぁ、上司であるかないかは別にして、大変申し訳ありませんが、私は患者の秘密も守れない人間には検査に立ちあっていただきたくはない。今回のことは看護部長に報告させていただきます。あなたは補佐としては非常に優秀な看護師だっただけに、とても残念です」
 この女が職場にいなくなることを清々すると思いながら口にすると、
「先生っ、好きなんですっ。私、芹沢先生が好きなんですっ。だからっっっ」
 まだ何か言うつもりなのか?
 俺は完全に笑みを消し去り、冷ややかな視線のみを向けた。
「だから、なんでしょう? あなたもご存知の通り、私にはお付き合いしている女性がいます」
「だってっ、あんなの偽装じゃないですかっ。藤宮の名に目がくらむなんて先生らしくありませんっ」
「……笠原さんがどれほど私のことをご理解してくださっているのかはわかりかねますが、私はいやなことや面倒なことにプライベートな時間を割くつもりはありません。それに、藤宮の名、ですか? そんなもの、興味などないに決まっているでしょう。面倒なだけだ」
「じゃぁ、どうしてっ!?」
 笠原は戸惑いと苛立ち、悲愴感。どれを表に出したらいいのかわからないような表情をしていた。
 代わりに口を開いたのは楠田。
「芹沢先生……もしかして、真白様のこと――」
「ご想像にお任せします。ですが、今回のことはやはり見過ごせない。私の大切な方にストレスを与えるとどうなるのか……。まずは笠原さんに身をもって証明していただきましょう。楠田さんも猪瀬さんも、どうぞお好きなように触れ回ってくれて結構ですよ?」
 にこりと笑みを添えると、ふたりはブルブルっと首を横に振った。
 もはや血の気のない笠原は、その場にしゃがみこみ、気の狂ったような笑い声を発し始めた。

 看護部長にはありのままを話した。
 笠原が中傷と思える内容を病院中にファックスしようとしていたこと。同僚ふたりがそれを止めようとしていたこと。
 物証には、流そうとしていた用紙を添えれば十分だった。
 厳重注意などで済むわけがない。笠原は懲戒解雇された。
 解雇された腹いせに何かしようものなら、そのときこそ「藤宮」が動くだろう。

 帰り際、猪瀬に声をかけられた。「共犯にしないでくれてありがとうございます」と。
「本当に共犯ではなかったのでしょう? でしたら、そのようにかしこまる必要はありません」
「でも……やっぱりお礼が言いたくて」
「そうですか。では、気持ちだけ受け取りましょう」
 この日、通常通り診察や検査の業務が行われてはいたが、中はてんやわんやだった。
 シフト制で動いている看護師ひとりが朝一番で懲戒解雇になったのだ。人手が足りなくなるのは必須。
 半狂乱で泣き笑いをする笠原を見た人間により、すぐに噂は広まった。
 しかし、事の真相が伏せられていたこともあり、関わった人間の名前までは広まらなかった。
 
 病院を出ようとしたとき、事務の女に呼び止められた。
 このタイミングで呼び止められるのは二回目だ。
 もはやいやな予感しかしない。
「なんでしょう?」
「あ、あのっ、か、会長からお電話がっ」
「……何番ですか?」
 内線番号を聞くと、
「こ、こちらに、直接つながっております」
 そう言って、電話の子機を渡された。
「電話機がカウンター内にありますので、このフロア内でお話いただけますか? でないと、切れてしまう恐れが……」
「ご親切にありがとうございます。このフロア内ですね」
 女は浅く礼をしてカウンターへと戻った。
 子機の通話ボタンを押すと、
『わしを待たすとはいい度胸じゃな』
「失礼いたしました。病院を出るところでしたので、危うく、この電話が無駄になるところでした」
 受話器からくつくつと笑い声が聞こえてくる。
『わしにそんな対応するのはおぬしくらいなものであろうな』
「お気に障りましたでしょうか?」
『良い。じゃが……真白のことはどうするつもりじゃ?』
「……と、申しますと?」
『とぼけるでない。院内での噂くらいとうに知っておるわ』
「恐れ入りますが……どの噂でしょう?」
『この狸めが……』
 どっちがだ、と言いたい。
「あまり噂は気にしない性質でして、すべて把握しているわけではございません」
『良かろう。わしが重要視しておるのは、婚約破棄説の次。結婚数秒説じゃ。それと、今日、おぬしが最後通牒を渡した若い看護師、笠原美紀のことも知っておるわ。その場にいた、楠田と猪瀬という看護師のこともな』
「いやはや、隠し立てはできませんね」
 クスクス、と声をたてて笑ってみせたが、実のところは少し肝が冷えていた。
 この狸のもとには、毎日膨大な情報が寄せられていることだろう。その中には娘に関わる噂も含まれるようだ。
 何に感心するというのならば、一情報として埋もれさせることなくそれらを把握していること――
『わしが訊きたいのは結婚のことじゃ。おぬし、どう考えておる?』
「どう――ですか? ……そうですね、こればかりは自分の一存ではなんとも申し上げられませんので、少しお時間をいただきたいのですが」
『もったいぶりおって……。真白に打診するか?』
「えぇ。当人同士の問題、ということでしたら、まずは真白さんにおうかがいしなくてはいけないでしょう」
 いけるところまですっとぼけてやろうと思った。
 だが、狸は意外とあっさり手を引く。
『よかろう。今週の土曜にうちへ来い。そのときに答えを聞かせてもらおう。答えによっては、今後、真白と会うことを禁ずる』
「かしこまりました」
 俺は通話が切れるのを確認してから、「切る」というボタンを押した。
 明日には彼女の検査予約が入っている。電話をせずとも話す機会は得られる……。



 検査当日、彼女はどこか緊張した面持ちではあったが、検査結果はとても良いものだった。
 これなら投薬をやめていいだろう……。
 検査室に彼女を呼び、とりあえず「おうかがい」をたてることにした。
「さて、どうしましょうか?」
 彼女は「え?」といった顔をして、目を白黒させる。
 それはそうだ。彼女は今入ってきたばかりで、こんなふうに切り出される会話など検査中にもしていないのだから。
 昨日のことは彼女の耳には入っていないだろう。それを前提に、俺は話を続ける。
「先日の件です。会長にああは申しておきましたが……婚約破棄説は打ち消せたものの、どうしたことか、結婚まであと数秒説が浮上しています」
「っ……!?」
 彼女は目を瞠った。
 俺は彼女の表情が変わる様を見るのが好きなようだ。
 気づけばクスクスと音をたてて笑っていた。
「迷惑な話ですが、人の口には戸が立てられないとはよく言ったものですね」
「……どうして、どうしてそんなに冷静でいられるのですか?」
「さぁ、どうしてでしょう?」
 少し首を傾け、彼女を見やる。
 彼女はほんのりと顔を赤らめ俯いた。
 あなたが気に入っているのはこの顔だけですか? それとも――
「どうなさいますか?」
 訊くと、彼女の頭がビクリと動き、それに伴って長い髪が少し揺れた。
「実はですね、またしても会長に呼び出されているのですが……」
 カレンダーを見ながら言う。
 指定された土曜日まであと二日。
「今度は何を……?」
 彼女は恐る恐る、というように顔を上げ質問をしてくる。
「いつまでこの状態でいるつもりだと訊かれました」
 途端に彼女の顔が真っ青になった。
「どうお答えしたものかと。このままでは本当に結婚することになってしまいそうですが……」
「……あのっ」
 珍しく、言葉を遮られた。
 だが、答えを出す前に検査結果は伝えたほうがいいだろう。
 何か言おうとしている彼女より先に口を開き、先の検査結果を伝える。それと共に、自分と彼女の分かれ道を提示した。
「あなたの胃はだいぶ良くなっている。出血もきれいに止まっているし、炎症も起こしていない。もう、投薬の必要はないでしょう。このタイミングが契約解消のラストチャンスかと思いますが……」
「――あのっ」
「何でしょう?」
 さぁ、なんと答えを出す?
「あのっ、私ではだめでしょうか!? ……本当の、本物の恋人に……婚約者になってはいただけませんか?」
 一瞬、目を見開いてしまったかもしれない。が、さほど表情に変化はなかったはず。
 けれど、心はかなりの衝撃を受けていた。
 今、彼女をつなぎとめられるのは「契約」のみだと思っていた――まさか、本物の恋人に、婚約者に、とこの場で言われるとは思いもしなかった。
 しかし、それを鵜呑みにできるほど素直でもない。
 俺は間をおかずに答える。
「それは困ってるからですか?」
 彼女は少し唇を噛み、否定した。
「違います。あの……私……私っ、初めてお会いしたときに一目惚れしてしまったみたいなんですっ」
 言葉の途中から彼女はぎゅっと握った自分の手元に視線を落とす。
 わかっている――彼女が冗談や嘘を言う人間ではないことを。
 それでも確認せずにはいられない。
「それは、愛の告白と解釈してもよろしいのでしょうか?」
 顔を上げた彼女の目をじっと見る。
 答えは遅れてやってきた。実に彼女らしいシンプルな返事で「はい」と一言。
「それでは……藤宮真白さん、私と結婚してください」
 プロポーズの言葉を発すると、彼女は無言になった。
「返事は?」
 催促に応じて、「はい」と答える。
 答えたあとは、どうしてかポカンと口を開けていた。
 彼女にしては珍しい、と思いつつ、
「では、今週の土曜日に会長お会いする際にはそういう話の方向で」
 とっとと話をつけてしまおうと、頭の中で算段を始めたそのとき、
「涼さん……?」
 彼女に呼びかけられ、今の今で覆されたりはしないだろうな、と少し不安になる。
「なんでしょう?」
「涼さんは……涼さんはそれでよろしいのですか?」
 何を問われているのか一瞬悩んだが、問われていることは「結婚」そのものだろう。
「えぇ、構いませんよ?」
「こんな……こんな成り行きのような形で結婚が決まっても……ですか?」
 どこからかはわからない。だが、俺にとっては途中から成り行きではなくなっていた。
 出逢いや交際のきっかけが「偶然」や「成り行き」でも、「結婚」は違う。自分で選んだつもりだ。
 しかし、そんなことを彼女が知るわけがない。
「もとより、どうでもいい人間の交際相手を買って出るほど私はお人好しではないんですよ。……互いが一目惚れというのも悪くないでしょう?」
 言うと、彼女は頬を真っ赤に染めた。
 一目惚れというものがどういうものかはわからない。
 けれど、「隠れ蓑」は知らないうちに恋愛対象になっていた。気づかぬうちに、守りたい人になっていた――
 その週の土曜日、屋敷へ赴き、ふたり揃って結婚の意志を伝えると、早々に結納の日取りが決められた。
 決めたのはほかでもない会長自身。
 目の前で部下に連絡を入れ、手早くスケジュールを調整したうえで、
「不都合はあるか?」
 と訊いてくる。
 普通は訊いてからスケジュールを空けるものじゃないだろうか……。
 しかし、そんなことは口にしない。
「いえ、ございません」
 平日だろうとなんだろうと、結納の日だと言えば病院は休ませてもらえるだろう。
 藤宮元の下した厳命に誰が逆らえようか――
 結納の日取りが決まると、彼女とその母親は夕飯の準備に、と席を外した。
 こういうときにこそ使用人が役立つものなんじゃないのか?
 不思議に思っていると、彼女が言った。
「私の手料理を食べていただきたいのです」
 と。
 たかが料理――だが、彼女の中では俺とは違う価値、もしくは意味があるようで、嬉しそうに笑っては、足取り軽やかに応接室をあとにした。

 俺は目の前の人間に向き直る。
「すでにご存知かと思いますが、私は身寄りがおりません。両親は交通事故で亡くし、祖父母も他界しております。兄妹はおらず、親戚縁者とも疎遠。結納を執り行うにあたり、芹沢には私しかおりません」
 俺の家族構成など、とっくに調べはついているはずだ。そのうえで、結婚することを認めたのだと思いたい。
 なんともいえない不安が湧き起こる。そんなものが湧いたところで過去や今現在が変わるわけではない。
 こんなことならもっと早くに申し出ておくべきだった――
 だが、最初は単なる契約にすぎなかったのだ。
 まさか、本当に結婚することになるとは、自分が藤宮の人間を好きになるとは思いもしなかった。
 想定外すぎる今となっては対処のしようがない。
 後手に回ったことを悔いていると、
「結納は結納じゃ」
 そう言葉が返された。
「おぬしの家族のことなどとうに調べはついておるわ。どんな経緯で施設に入り、どんな幼少期を過ごしたのか。当時の施設の人間からも人柄、素行などは聴取済みじゃ。その施設を出て今もなお、毎月一定額をその施設に寄付していることもの。そのうえで結婚を認めると申しておる。……不服か?」
「……でしたら、なおのこと。形だけの結納は不要かと存じます」
「ふぅむ……親じゃからのぉ。親族の手前、形式に則り娘を家から送り出したい。わかってくれぬか?」
「……下世話な話で申し訳ございません。すでに私の口座もお調べかと存じますが、あるのは一千万に満たない貯金です。婚約指輪くらいは用意できるでしょう。……しかし、そちらが望まれる結納金を支払えるかはわかりかねます」
 両親の残した保険金を元手に株の運用を始めたのは大学生のころ。大学卒業後、奨学金を返済し、給料や株で得た利益はまだそのくらいにしかなっていない。
 勤続二年の医者にしては持っているほうだろう。だが、自分の結婚相手は財閥令嬢――
 腹を据え、義父になろうという人間の顔を見る――と、ぎょっとした顔をしていた。
 目が合い、
「そんなことを気にしておったのか?」
 そんなこととはなんだ……と言いたい。
 結納と言われれば、誰もがそう思うだろう。しかも、この家を相手にするともなれば……。
「芹沢よ、結納金はいらぬ。――代わりに姓を捨て、婿入りせよ」
「……それにどんな意味が?」
「わしがおぬしを欲しいからじゃ」
 くつくつと笑いながら、勤続二年の小童に金など求めぬ、と言い捨てる。
「うちが婿をとるのなら、結納金はこちらが払うべきじゃろうて」
 今度は自分が瞠目する番だった。
「おぬしの医師としての技量は院長のお墨付き。さらには、経営においては紫よりも素質があると見た。紫は何分欲がなくてのぉ。あやつに任せておったら経営はおろか、ボランティアになりかねん。そこで、経営学者と互角に渡り合えるおぬしに、いずれは病院の経営を任せたい」
 年に一、二度会うか会わないか――そんな人間との交流まで調べられているとは思わなかった。
 自分は医学部の出であり、経済学部とは無縁だ。ただ、唯一交流のあった人間が経営学部出身で、在籍中から経営学部名誉教授と食事を共にすることがあった。それは今も続いている。しかし――
「申し訳ございませんが、面倒ごとは好みません」
「くっくっく……そういうところが良いわ。おぬし、藤宮なんぞどうでもいいと思っておるじゃろう?」
「失礼は承知のうえ……自分が関わるのは真白さんと、そのご家族のみに留めたいと思う程度には」
 職場において、ひとりの例外を除けば藤宮一族に好感の持てる人間はいなかった。
「急に正直になりおって。――その潔さと豪胆さが気に入ったわ」
 ずいぶんと変なところを気に入られたものだ。
「真白のことも最初は女避けくらいにしか考えてなかったんじゃろう?」
 ここまで見透かされていては嘘をつくのもバカらしい。
「はい。確かに最初は互いに利害一致の契約に過ぎませんでした。ですが、今は――」
 手で続きを遮られる。
「良いわ、気にしておらん。わしは、藤宮を頼らず真白を守れる男を欲しておる。が……藤宮の名が真白を守ることもあるじゃろう。この苗字にはいい面と悪い側面がある。おぬしならそれをうまく使えるのではないかと思ってな」
 今、自分と話をしている人間は藤宮グループ会長ではなく、「藤宮元」というただ娘のことを案ずる親だった。
「……それが真白さんを守る盾になりえるのならば、芹沢の姓を捨て、藤宮姓の利点を生かしましょう」
 そういうことなら婿養子に入ることに依存はない。もともと自分の姓に執着はなかった。
「それとのぉ……結納の日はおぬしの誕生日であろう?」
「それが何か?」
「なんじゃ……冷めておるの」
「祝われて嬉しい年でもありませんので」
 何も考えずに返答すると、くつくつと笑われた。
「結納は表向きの名文じゃ。その日は、わしの家族がおぬしの誕生日を祝うためだけに集まる」
「っ……!?」
「祝われる覚悟をして来るんじゃな。――親にもろうた命じゃろうて、その日を喜ぶ人間がいるなら素直に祝われろ」
 俺は面食らった。文字通り、面食らっていた。
 施設では、慎ましいながらも毎年誕生日を祝われた。だが、そのころの自分は誕生日の何がめでたいのか、そんなこともわからなくなっていた。
 施設を出てからは、誰に誕生日を教えるでもなく、祝われるでもなく、ただ親の命日として存在していた。
 それがいきなりこんな形で祝われることになると、誰が思うだろうか。
 呆気にとられている俺を一頻り笑うと、急に真剣な目を向けられる。
「真白を頼む」
 男親の、強い眼差しと視線が交わる。
「……言われずとも――」
 答えて一拍置いたころ、
「失礼します」
 と、彼女とその母親、ローラさんが使用人を何人か伴って入ってきた。
 テーブルには彼女の手料理と思われるものが並ぶ。
 そのどれもが、ふたりで行ったレストランで自分がおいしいと思った料理ばかりで驚く。
「……涼さんのお好きなものではなかったですか?」
 控え目に訊かれる。
「いえ……好きなものばかりです」
「良かった」
 彼女はほわりとした笑顔を浮かべた。
「一緒にお出かけした際にお食べになられていたものを必死に思い出して作ったんです」
 その笑顔に、一瞬にして心のしこりが解きほぐされた。
 これからは、彼女が毎年俺の誕生日を祝ってくれるのか……?
 氷に熱い湯が注がれたように、冷たい塊は消えてなくなる。
「今度は、涼さんのお好きな食べ物を教えてください」
 言いながら、使用人たちがテーブルセッティングするのを手伝い始めた。
 その後はローラさんの話術によって、結納という誕生会の話しに移行する。
 食べ物は何が好きか、苦手な食べ物があるか、酒は飲むのか、飲むのなら何を好んで飲むのか……。
 とても彼女の母親とは思えない勢いで質問攻めにされた。
 今まで夫の後ろでおとなしく佇んでいた女性と同一人物か、と悩むほどに。
 けれど、今まで俺に集ってきた女どもとは明らかに違う。質問攻めではあるものの、纏う空気や選ぶ言葉、その端々に気遣いを感じ取れた。
 そして、その気遣いに彼女との共通点を見出す。

 この日、自分のペースを乱されることが多々あり、正直戸惑っていた。
 そんな俺を察してか、彼女が心配そうな視線を投げてくる。
「何か心配ごとでも?」
 まるでなんともない素振りを装い彼女に話しかけると、
「……私ではありません」
 双方の目は俺を捉えていた。
「私なら大丈夫ですよ」
「……本当ですか?」
 責める響きを含まない声が返される。
 簡単すぎる一言では彼女の不安を拭うことはできなかった。
 仕方なしに、本音の一部を話す。
「普段、これほど人と話すことはないんです」
 彼女はきょとんとした顔で目を瞬かせる。
「でも、お仕事では患者様とお話をなさいますよね?」
「えぇ、仕事ですからね。ですが、それは患者の話を聞いたうえで、検査を行い、検査結果や今後の治療方針を話すにすぎません。自分のことを訊かれ、話す状況にはなり得ない」
 そこまで話しても彼女は不思議そうな目で俺を見ていた。
「真白さんと出かけても、それほど会話は続かなかったでしょう?」
「……そうでしたでしょうか?」
 彼女はとくに違和感を抱いてはいなかったようだ。
「どちらかと言うなら、いつも話しかけてくださるのは涼さんでしたし、私が話しかけた際にはきちんとお答えくださっていましたけれど……」
 俺はそんな彼女に笑みを漏らす。
「……あなたに出逢えて良かった。もとは契約とはいえ、付き合ったのがあなたで良かったです」
 心からの言葉だった。
 彼女と出逢わなければ、自分は一生独身を貫いただろう。
 彼女は頬を赤らめ、
「私もです。……初めてお付き合いした方が涼さんで幸せです」
 と、恥ずかしそうに、けれど笑みを添えて答える。

「新居はどうするつもりか?」
 不意にたずねられ、
「まだ考えていません」
 正直に答えると、
「この屋敷は広い。部屋はあまっておるぞ」
 同居の申し出だった。
 自分はそれを断る。
「警護上、そのほうが安全なことは察しますが、できればこの近くに家を建てられないかと考えています。藤山の一角をお借りする、もしくは買うことはできますか?」
「ふむ……では、そのように手配しよう。だが、真白はそれで良いのか? こやつが仕事でいない日は家にひとりきりになるが……」
 彼女は満面の笑みで頷いた。
 しかし、父親の表情は険しい。
「ここを出ても警備体制は変わらんぞ」
「わかってます……。武さんたちにご迷惑をおかけすることも――でも、私は家事をしたいのです。普通の主婦になりたいです。涼さんと暮らす家を、自分で手入れしたいのです」
 控え目ながら、彼女ははっきりと口にした。
「――良かろう。ここから徒歩十分のところに土地が空いておる。そこに結納を含めた結婚祝いとして家を建てよう。警備システムを万全にすれば、それなりのプライベートは守られるじゃろう」
 それが答えだった。
 彼女は嬉しそうに礼を述べる。
「それで良いか?」
 次は俺への確認だった。
「結納金にしてはずいぶんと高額な気がしますが……?」
「それはおぬしを買ってのこと。未来料……将来性を含んでの対価とすれば安いくらいじゃ」
 食えない狸はどこまでも食えない狸だった。
「それにのぉ……手元に置いておきたいのは山々じゃが、真白の胃はここでは治らんじゃろう」
 その言葉に彼女の肩がビクリと揺れる。
「これは人に気遣われるのが苦手での……。使用人の多いこの家が苦手なんじゃ。しかし、結婚して家庭をもち、自分を守ってくれる夫がいるのなら、ここにいる必要もなかろうて……」
 その言葉に納得する。
 思春期を迎えたころから慢性胃炎を抱え、胃潰瘍を繰り返し通院していた意味がようやくわかった。
 見合いのストレスは一端に過ぎず、ほかに彼女の負担になるものがあったのだ。それも、この「家」という毎日を過ごす環境の中に。
 彼女はここが自宅であろうと、家族以外の人間が多くいる場所で心を休めることはできなかったのだろう。そのことに気づきつつも、父親であるこの人は娘から護衛を外すことはできなかったのだ。
「真白はおとなしいが、ぞんがい手がかかるぞ?」
 狸はニヤリと笑う。
「護衛につく人間のことを考え、人の多いところ、危険が及びそうな場所には決して近づこうとせん。さらには藤山からも出ようとはせん。おぬしはそれとどう向き合う?」
 今までの出かけ先の共通点に合点がいった。警護しやすい場所を選ぶからこそ、迷うことなく返事を得られていたのだと。
 どれだけ周りを気遣えば気が済むのか……。
 こんなことではストレス地獄で胃に穴が開いてもおかしくもなんともない。
 そう思ったとき、はっとした。
 こういったことからも……ありとあらゆるすべてから彼女を守ろう。心も身体も何もかも。
 俺は答える。今までと何も変わりません、と。
 彼女の父親、藤宮元が俺に提示した条件はただひとつ――何にかえても娘を守れ。
 この約束、決して違えることなく守りましょう。
 彼女を守るために権力が必要となるなら、惜しみなく藤宮の名を振りかざそう。
 藤宮の中で権力がいるというのなら、持ち前の狡猾さを駆使して病院を牛耳ろう。
 どんなことからも彼女を守る――俺の命がある限り。
 彼女と彼女の家族に、そして己自身に固く誓った夜だった。



 初めて逢ったあの日から、今日で一年になる。
 窓辺に佇む彼女は妊婦となった。
 その彼女の隣に並ぶと、
「今年は雨でしたね」
 彼女は広い窓から空を見上げ、口にする。
 空は暗いが、彼女の手入れしている庭の草花は生き生きと恵みの雨を浴びている。
 その夏らしい庭を見て心が和む。植物の彩りにではない。彼女の甲斐甲斐しい世話に応えるかのように花をつける植物に、心が和むのだ。これがそこらで売られている花ならなんとも思わないだろう。
「あぁ……今日は七夕でしたか」
 出逢った日が七月七日であることは覚えていたが、それが「七夕」という認識には欠けていた。
 彼女のことだ。きっと織姫と彦星のことでも考えているのだろう。
 今年は会えない、などと心を痛められてはたまらない。
 俺は即座にフォローする。
「雨空の上にはちゃんと天の川はあります」
 自分を見上げる瞳を見返し、「冷えないように」とだけ念を押して書斎へ戻った。

 俺は一年前の患者に感謝しなければならない。
 あの日、あの患者がいなければ病院に行くことはなく、彼女に逢うこともなかった。
 偶然が重なって導かれた巡り合わせ。
 彼女のように「赤い糸」を信じる性質ではないが、今生でたったひとつの運命を信じるのなら、彼女との出逢いを運命と呼ぶのも悪くはないかもしれない――
お話は書いた順(投稿順)に並んでいるため、時系列が前後していることがございます。
こちらにおおまかな時系列を記載いたしますので、ご参考にしていただけたら幸いですm(_ _"m)ペコリ


「過去」……婚約前

「彼の過去」……婚約後

「初めての……」……結婚直後(新婚二ヶ月くらい)

「子どもたちの名前」……司を妊娠した直後

「小さなプレゼント」……湊(中等部三年)楓(初等部五年)司(二歳)

「末の息子」……司(幼稚部年少)

「新しい家族」……司(中等部二年末)




 ――「結納まであと一週間ある。その間に自分のことは自分で真白に話せ」
 ――「っ……!? 真白さんはまだ知らないのですか?」
 ――「バカもん……素性は調べるが、暴く趣味は持ち合わせとらんわ」
 ――「……ありがとう、ございます」
 ――「安心せい……。過去を知ったところで婚約を取り消すような娘に育てた覚えはない」

 あの日の夕食会、縁側に呼ばれそう言われた。
 自分の過去を人に話すなど、片手で足るほどにしかない。そもそも、自分から身の上話をすることはなかった。訊かれても、答える必要がなければ答えなかった。
 けれど、彼女には話さなくてはいけない。
 とくだん抵抗があるわけではない。狸が言っていたとおり、彼女は婚約を取りやめるとは言わないだろう。しかし――彼女の心に影を落とすことにはならないだろうか。
 それだけが気がかりだった。

 俺は狸に許可を求めた。
「真白さんを自宅へ招きたいのですが、お許しいただけますでしょうか」
『……変なところで律儀じゃの?』
「律儀なのではなく、ごく当たり前のことかと存じますが?」
 まだ結納が済んだわけではない。
 警護の人間がついているにしても、マンションの一室ともなれば密室と言えるだろう。
『かまわん。過去を話すときには資料があったほうがよかろう』
 場所を自宅にした理由までもが読まれていた。
「ありがとうございます」
『おぬしに礼を言われると背中が痒くてならんわ』
 おぉ痒い痒い、と言いながら通話が切れた。



 今、目の前に彼女がいる。
 自宅キッチンでコーヒーを淹れる用意をしていると、彼女は興味深そうに、カウンターからこちらをうかがっていた。
 自分の手元にあるのは臼式の手挽きミル。コーヒー豆を挽くためだけに購入し、時間があるときは時間をかけて挽いていた。
「挽いてみますか?」
「よろしいのですか?」
「えぇ、かまいませんよ。……ところで、コーヒーはよくお飲みになるのですか?」
「胃の負担になるとうかがいましたので、普段はハーブティーを……。ですが、お茶のお稽古がありますから、完全にカフェインをカットしているわけではなくて……」
 彼女はどこか後ろめたそうに話す。それはきっと、自分が消化器科の医師だからだろう。
「今はさほど胃が荒れているわけではありません。ですから、そんな顔をなさらなくても大丈夫ですよ。でなければ、私がコーヒーを用意するわけがないでしょう?」
 笑いながら答えると、彼女は白い頬を真っ赤に染めた。
 カウンターに手挽きミルを置き、彼女にはカウンターチェアーに座るよう促した。
「このハンドルを右に回してください。粉は下に、この引き出しへ落ちます」
 実際に引き出しを引いて見せる。と、彼女はすぅ、と香りを吸い込んだ。
「いい香りですね」
「えぇ。どんな手順を踏んでも香りは堪能できますが、時間をかけて挽いたものは一味違う気がしまして。自分への褒美に、と買ったものです」
 彼女がミルを挽き始めると、自分が挽くときとは違った不規則な間隔で音が鳴る。
 ガリガリ……ガリ、ゴリ、ガリゴリ――
 部屋に豆が砕ける音だけが響く。
 しばらくすると、音は規則正しく鳴り始めた。
 ガリゴリガリゴリ――
 対面に座る彼女と会話はなく、香りだけがふわりと浮遊し広まっていく。
 最後、キュルンと手ごたえのない回転をさせてから、
「できました!」
 彼女は花が綻ぶような笑顔を見せた。
「ありがとうございます。では、コーヒーを淹れましょう」
 彼女からミルを受け取り、フラスコに水を入れた。
 彼女はまだ珍しそうな面持ちでこちらを見ている。
「サイフォンも珍しいですか?」
「あ……はい。自宅ではペーパーフィルターを使うか、エスプレッソマシーンを使ってしまうので、ひとつひとつ手作業でやるものは目にすることがなくて……」
 言いながら、彼女は俺の手元をじっと見ていた。
 アルコールランプに火をつけ少しすると、中の水がゆらゆらと動き出す。ボコボコと景気よく沸騰し始めたらアルコールランプの火を消す。フィルターに湯を通し、布巾で水気をおさえると、フィルターが冷めないうちにロートへセットし、ロートには彼女が挽いてくれた挽き立ての粉を入れる。
 フラスコの沸騰が鎮まると、その上にロートをセットした。
 再びアルコールランプに火をつけると、湯がロートの方へと上昇を始める。
 湯が完全に上がりきる前に竹べらで粉を撹拌し、アルコールランプを少し弱めてから三十秒。再度撹拌してから火を止める。あとはフラスコにコーヒーが落ちるのを待つだけ。
 夏はなかなかフラスコの温度が下がらずコーヒーが落ちてこない。いつもなら香りを楽しみながらその時間を過ごすが、今日は「相手」がいる。「客」がいる。
 俺は濡らした布巾でフラスコを覆い、フラスコの熱を冷ました。すると、つ、と褐色の液体がロートから落ちてくる。
「……実験みたいですね?」
「そうですね。『サイフォンの原理』をそのまま名づけられてしまう程度には、同様のものです」

 自分の住むマンションは、玄関を入ってすぐ右側に四畳弱のキッチンがあり、その対面にトイレがある。廊下と言えるのはキッチンからリビングダイニングに続く一・五メートルほどの部分。その左側に洗面所への入り口があり、洗面所の奥にバスルームがある。
 リビングダイニングは十五畳。主寝室は八畳。備え付けのクローゼットは主寝室のみ。狭すぎず広すぎず、独り暮らしにはちょうどいい。
 主寝室はリビングダイニングと曇りガラスのスライドドアで隔てられている。普段、自分ひとりのときは冷暖房を入れない限りは開け放たれているが、今日はさすがに閉めてある。
 珍しいつくりではない。しかし、人を呼ぶ、ということが想定されていないため、ダイニングテーブルもなければリビングテーブルもない。
 キッチンカウンターの前にカウンターチェアーがひとつ。リビングダイニングの壁面には床から天井までの本棚。ほかには、リビングの三分の一を占める大きなデスク。
 家電製品は冷蔵庫と電子レンジ、トースター、電気ポット。洗濯乾燥機にエアコン、電話機にパソコンくらいなもの。オーディオの類やテレビはない。
 世間で起きていることは新聞から情報を得ることが常。もしテレビがあったとしても、電源を入れることはさほどなかっただろう。
 時間さえあれば文献を読み漁るというのが自分のスタイルだったし、何よりも、それが自分の糧になり有意義な過ごし方だと思っていたからだ。
 彼女が来るにあたり用意したものはひとつ。それは、コーヒーを注ぐためのカップ。
 この家には食器も一組ずつしかなかった。これらが彼女の目にどう映っただろう……。
「何もない部屋でしょう?」
 訊くと、彼女はゆっくりと部屋を見回す。
 さして広くもない、くるりと一回転すれば見渡せてしまう部屋を。
「何もない、というよりは本がたくさんあります。それに、うちにはない手挽きミルやサイフォンがありました」
 彼女はごく自然ににこりと笑む。
「……何もない、とはそいうことではなく――」
 彼女が俺の手に触れた。
「人によって必要なものは違います。ここには涼さんにとって必要なものはすべて揃っていらっしゃるのでしょう?」
「っ……」
「でしたら、何もない部屋、ではなく、何もかもが揃った部屋だと思います」
 このとき悟った。
 俺はきっと、彼女に一生敵わない。そして、彼女以上の女性には出逢えないだろう、と。

「この部屋にひとつだけ、昨日まではなかったものがあります」
「そうなんですか……?」
「はい」
 俺は彼女の手が触れていない右手でデスクに置いたカップをソーサーごと取り、それを差し出す。彼女は俺の手を放し、両手でそれらを受け取った。
「カップは一客しかありませんでした。そのカップは真白さんのために買ってきたものです」
「あ、お手数おかけしてしまってすみませんっ」
 自分の気持ち上の問題だが、謝らないでほしかった。俺が欲しかったのは謝罪の言葉ではなく――
「どうして……どうして悲しそうな顔をされるのですか? 私、何か傷つけるようなことを口にしましたか?」
 彼女の眉根が寄り、泣きそうな顔になる。
「……すみません、違います。ただ、ありがとう、と……謝らずに、ありがとう、と仰っていただけませんか?」
「え……?」
「そのカップは――自分が勤め、稼ぐようになってから、初めて自分以外の人へ買ったものです」
 今日はすべてを話すつもりでいた。だから、どんな自分をも見せるつもりで話す。
「私のために……選んでくださった、もの?」
 彼女は改めて手中にあるカップに視線を移す。
「ブランド品を選ぶのは簡単です。何が流行りで女性がどんなものを好むのか――そんなことは頼まずともショップの店員が教えてくれます。ですが……それは自分で選んだものです」
 彼女が持つことを想像し、彼女の装いを踏まえたうえで、華美になりすぎず気に入ってもらえるものを、と選んだつもりだった。
「……嬉しいです」
 彼女は驚きながら口にし、カップとソーサーを愛しむように見る。
「真っ白な陶器に金銀の細いライン……私、白い食器が大好きなんです。ありがとうございます」
 最後の一言は目を見て言われた。欲した言葉を得られ、心が満ちる。「嬉しい」と感じる。
 無機質な部屋に一輪、白く可憐な花が咲く。それは、殺風景な己の心に花が咲いたかのようだった。

 デスクの椅子を彼女に差し出し、そこへ座るように促す。と、
「涼さんは……? どちらにお座りになるのですか?」
「自分はどこでもかまいません」
 答えてフローリングに腰を下ろすと、彼女も同じようにフローリングに座る。
「普段、床には座り慣れてないのでは?」
「えぇ、畳でしたら慣れてますけど」
 彼女はクスリと笑った。
「足が痛くなっても知りませんよ?」
「お話をしてくださる方を上から見下ろすよりもいいです」
 こういうところに彼女らしさを感じる。
「……ラグかクッションを用意しておくべきでしたね」
 手を加えない部屋を、ありのままの自分を見てもらおうと思って購入をやめたわけだが、早くも後悔し始めていた。
「少し待っていてください」
 立ち上がり、寝室へ向う。
 ベッドの上にたたまれているタオルケットを目にしつつ、これではクッション性に欠けると判断した。
 クローゼットを開け、薄手の羽毛布団を下ろす。三つ折の状態でフローリングに敷き、
「せめて、その上に座ってください」
「涼さんは?」
 先ほどと同じ問いが返された。
「自分はかまいません」
「……一緒に、座りませんか? 私が座っても半分は空きます。もし狭ければ二つ折りに……」
 彼女は羽毛布団を広げようとする。
「真白さん――さすがに二つ折りではクッション性も何もないかと思うのですが……」
「えぇ、でも……」
 どうやらとことん同じ場所、同じ目線でいたいようだ。
 カウンターチェアに一度視線をやったが、いつも使っている椅子の四本の脚が異様なほど華奢に思え、不安定そうに見えてならなかった。自分も椅子に座るから、とは言い出せなかった。バランスの崩しようがない、安定した場所で話したいと思った。
「それでは――隣にお邪魔します」
 自分の家だというのによそよそしく彼女の隣に並ぶ。
 デートのとき、手を差し伸べることもあれば、車では常に隣に座っていた。けれど、これほどまでに距離が近かったわけではない。
 俺は柄にもなく緊張していた。初めてオペに挑んだときより、何よりも。
 それが、これから話すことに起因しているのか、それとも、隣にいるのが好きな人だからなのか――答えは出なかった。

 部屋は適度にエアコンが利いていて、ギラギラとうるさい日差しはブラインドが遮ってくれている。
 そんな中、俺は前触れもなく話し始めた。
「当時九歳の、少年の話です。――彼は自分の九歳の誕生日に両親を交通事故で亡くしました。その日は土曜日で、学校帰りに両親が車で迎えに来て、一泊二日で旅行に行く予定でした。学校に迎えに来る際、国道を走っていた両親の車に飲酒運転の大型トラックが突っ込み、両親はほぼ即死だったといいます」
 この話を自分から人に話したことはない。
 当時子どもだった自分は何を話さずとも、大人たちが勝手に詳細を伝えて事後処理までしてくれた。もし、その車に自分も同乗していて自分だけが助かったともなれば、そのときのことを思い出せる限りでいいから、と根掘り葉掘り訊かれたことだろう。
 だが、俺は学校で両親の到着を待っていただけの――ただの子どもだった。
 話しだすと、どこで息継ぎをし、どこで話を区切ればいいのかわからなくなる。
「彼の母親は孤児でした。つまり、彼の親族は父方の親戚しかいないわけです。……が、親戚と言っても父親は一人っ子だったこともあり、従兄弟や叔父伯母、という人間もおりません。必然的に、彼は父方の祖父母に引き取られることになりました」
 苗字は変わらず、住む場所と学校だけが変わった。それは、祖父母の気遣いだった。
 同じ学校に通う術がなかったわけではない。ただ、先生や友人、友人の保護者は新聞に大きく載ったその事故を知っていた。誰もが哀れみの目で俺を見ては、腫れ物に触れるように接した。
 それが当然だといえば、当然なのだろう――けれど、九歳の俺には耐えられなかった。
 転校することで周りの環境を変えてくれたのが祖父母だった。
 しかし、その祖父母との生活も長くは続かない。
「彼の両親は少ないながらにも保険金を残しましたが、祖父母は彼の将来のことを考え、その金には手をつけませんでした。彼の父親は年がいってからの子だったので、彼を引き取ったとき、祖父母は文字通り、『老後』を謳歌する年でした。ですが、祖父母は彼を引き取ってから、できる仕事を見つけては、ささやかながら収入を得る生活に転向したのです。祖母は家で内職を、祖父は新聞配達を。彼が学校から帰ってきたとき、家に誰もいない、ということはありませんでした」
 それが普通だと思っていたわけじゃない。祖父母に負担をかけていることはわかっていた。
 わかったところで何ができるわけでもない。「子供」の自分には何をどうすることもできなかった。
 勉強をがんばりいい成績を持ち帰る――それしかできなかった。
 あとは家の手伝いをするくらい。
 祖父母と暮らし始めたとき、近所の人に「えらいわね」とよく声をかけられたがそれは違う。
 うちは両親が共働きだったこともあり、家事を手伝うのが習慣になっていただけだ。
 習慣とは面白いもので、環境が変わっても身体が勝手に動く。何をしようと思ってやっていたわけではない。もし、そこに何かしらの変化があったというのなら……。
 両親にはそうすることで褒められることが嬉しかった。が、祖父母に褒められるのは気が引けた。どうしようもなく心苦しかった。
 自分が子供じゃなかったら、もっと大人だったら、バイトができる年だったら――
 何度考えたか知れない。

「彼が十二歳のときのことです。祖父がインフルエンザから肺炎になり、入院することになりました。……すぐに退院できるはずだったのですが、その入院は思いの外長引き、ようやく祖父の退院の目処が立ったころ――祖母が倒れました。検査結果は胃がん、ステージ四でした。癌が体中に転移しており、手術ができる状態じゃなかった。祖父と入れ替わりで入院しましたが、化学療法に耐える体力もなかったため、祖母は一切の治療を受けることができず、三ヵ月後に亡くなりました」
 祖母の顔色が悪いことも、日に日に食べる分量が落ちていたことも、食べては戻していたことも、俺は知っていたのに――
「医者に診てもらおう」
 そう言うことしかできなかった。何度勧めても、
「薬を飲んでるから大丈夫だよ」
 と、祖母は優しい笑みを浮かべるだけで、決して病院へかかろうとはしなかった。もしかしたら、「嫌な予感」がしていたのかもしれない。患者だけが感じる、「嫌な予感」を。医者に、決定的なことを言われるのを避けるために受診を拒んでいたのかもしれない。
 それとも、自分まで入院することになったら、家に俺がひとりになってしまうことを懸念したのだろうか。
 口にしたことはない。でも、確かに俺は「独り」になることを恐れていたと思う。ある日突然、家族がいなくなる恐怖を、二度と味わいたくないと思うほどには……。
 真実がどうであろうと、俺が何もできなかった過去は変わらない。
 時計は決して左回りには進まないし、たとえ過去に戻れたところで、そこにいるのは無力な子供の自分なのだ。何を変えられるわけでもない。
「祖父が入院し、祖母が亡くなるまで、彼は四ヶ月間毎日のように病院に通いました。祖母の告別式が済んだあと、祖父はすっかりやつれていました。自分が肺炎で入院などしなければ……と自分を責めていましたが、残されたのは自分だけではなく孫もいるということに気づき、気持ちを切り替えようとします。しかし――慣れない家事に老いという現実。予期せぬ時期に伴侶を失った衝撃は大きく、刻々と祖父の身体を蝕んでいった。……祖母が亡くなってから半年と経たないうちに、彼は祖父も亡くしました」

 ――「ごめんなぁ。ひとりにしちまって、ごめんなぁ」

 祖父は目に涙を浮かべ、最後の力で俺の手を握りしめた。俺は流れる涙をそのままに、たれる鼻水をそのままに、力の限り祖父の手を握り返した。
 行かないで、おいていかないで。ひとりにしないで――
 思いは言葉にならず、嗚咽と祖父の苦しそうな呼吸音が古民家の六畳間に響いていた。
 祖父は震える俺の手を握りしめ、涙に濡れる目でじっと俺を見ながら――目を閉じ、息を、心臓を、血の流れを、止めた。生きるために必要なものの一切を、停止させた。
 俺は、自分の手を握る手から力が抜けても、その手を放せなかった。何時間もずっと、最後のぬくもりが消えるまで――
 
 祖父母に兄妹はいた。しかし、皆高齢ということもあり、自分を引き取る者はいなかった。祖父母の甥と姪にあたる五十代半ばの夫婦が二組いたものの、そこには子供が二人、三人といたため、とてもじゃないけど引き取る余裕はないと言われた。
 自分の居場所はどこにもなかった。
 家族がいて、何も考えずに寝食ができる場所があることは当然ではないのだと、このとき痛いほどに思い知った。
「彼は十三歳になる月に施設に入りました。施設は高校を卒業するまでは面倒を見てくれますが、高校を卒業すると出なくてはいけません。たいていの人が就職しますが、彼は成績だけは優秀でしたので、第一種奨学金を得て大学に進むことを決めました。それを機会に、両親と祖父母の残した遺産を持ってその地を離れました」
 両親と暮らしたのは祖父母の住む隣の市だった。祖父母と暮らしたのは四年。施設に入って五年半。何も感じないように、何も思い出さないように過ごそうとした。
 祖父母は両親と暮らした家をそのまま残してくれていたが、それに固定資産税やなんやかやと金がかかるなど、子供の自分にはわからなかった。
 祖父が亡くなってからそれらを知り、両親と暮らした家も、祖父母と暮らした家も、すべてを手放し金に換えた。
 建物ごと土地を売ることもできたが、跡形もなく壊してしまいたかった。なくしてしまいたかった。幸せな思い出が残る場所で、もう誰にも過ごしてほしくなかった。
 だから、金が余計にかかると言われても、それらすべてを処分した。
 今でも覚えている。ショベルカーの刃先が家にめり込む瞬間を。
 ガッ、バリバリバリ、ガゴゴゴゴ、ドーン――
 けたたましい音をたてて外壁を貫く様を、俺は間近で眺めていた。
 壁がはがれ、自分の使っていた部屋がむき出しになる。使っていた勉強机やベッド、愛着あるそれらが家と共に崩れていくのをじっと見ていた。目をそらすことなく、涙ひとつ零さずに――

 いつ何があるかわからない。この世で自分が頼れるのは自分しかいない。
 そう思えば、金の無駄使いをすることはなかったし、大学にしても何にしても、無利子で立て替えてもらえるものは立て替えてもらう。そういう考えを貫いた。
 第一種奨学金は無利子だ。大学を出て、就職をしてからの返済でも返済額が変わるわけではない。ならば、安定した収入を得られるようになってから、自分の衣食住に困らないことを確認してから一括返済しようと考えた。
 通常、連帯保証人は親族の四等親以内と言われるが、俺にそんな関係の人間はいなかった。誰を頼ることもできず行き詰まっていたとき、声をかけてくれたのは施設の花崎園長。

 ――「君なら大丈夫です。五年間、ずっと見てきましたからね。私が大丈夫と言ったら大丈夫なんですよ」

 花崎園長の朗らかな笑顔とあたたかな言葉に救われた。どれほど言葉を並べても感謝しきれない。だから、働いて収入を得るようになってから、ささやかながらも施設への寄付を続けている。毎月給料日に自動振込みの設定をして。
 そのたびに、留守番電話が入っていた。
『涼くん、もういいんですよ? 何も見返りを求めて保証人になったわけじゃない。それでも気がすまないというのなら、お金ではなく会いに来てはくれませんか?』
 毎月、同じ内容が録音されていた。それでも、俺はあの土地に戻ることがでず、今に至る。

 大学時代は大学の近くの安いボロアパートに住んでいた。セキュリティと呼べるようなものがないだけに、保険金や通帳などの大切な書類はすべて貸し金庫に預けていた。
 無事に就職先が決まり大学を卒業すると、すぐに奨学金を完済した。
 そして、手元に残った金の三分の二を費やし、中古マンションのこの一室を買った。
 もう、誰と親しくするつもりもなかった。ひとりで生きていくと、祖父を亡くしたときに決めたから。

「彼は祖母のことが頭から離れず、医者になる道を歩き始めました。大学を出て、病院に就職が決まり、安定した職業についた彼は手元に残った金でマンションを買います。1LDKの、ちょうどこんな一室を。もう、誰と暮らすことも考えず、ひとり生きていくことを考えて。目の前にある仕事のみと向き合い、自分の命が続く限り、自分の面倒さえ見れればいいと思って――」
 少年や彼、そんな言葉を使わずとも誰の話しなのかはわかっていただろう。
 心して隣に視線を向ける。
 すぐ目に入ったのは彼女のスカートだった。スカートは水を零したかのように濡れていた。今も、目から溢れ出る涙がそこに追加されていく。顔に目をやると、彼女は手で口もとを覆っていた。まるで嗚咽を漏らさないよう、声を閉じ込めるみたいに。
「すみません――話し慣れてないもので、聞く人の身になって話すことはできませんでした」
 彼女はフルフル、と横に首を振る。
「すみません……」
 なぜ、彼女が謝るのか――
「途中で、お止めすることができなく、て……すべて、お話、くださる、まで、お止め、できな、くて……」
 閊つかえながら、彼女は言った。
 こういうとき、どうしたらいいのかなんて知らない。余命に泣くでもない、体調不良に泣くでもない。
 自分の過去の話に涙されたとき、どうしたらいいのかなんて知らない。
 同情されたり哀れまれたり、気遣われるだけで、泣かれたことなどないのだから――
 困っているのが伝わったのか、
「すみませんっ、すぐ……すぐ、泣き止みますから。泣きませんから――」
 彼女はかばんからハンカチを取り出し目にあてる。だが、涙はなかなか止まらないようだった。
「……水を持ってきます」
 床から立ち上がりキッチンに向う。その途中、洗面所でタオルを取り水に浸しては固く絞った。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しグラスに注ぐ。それらを持って彼女のもとへ戻った。
「どうぞ」
 差し出したふたつを彼女は受け取った。
 水を一気に飲み干し、濡れタオルで顔を覆う。
 タオルを顔から離し鼻をすすると、正面に膝をついていた俺を見上げ、彼女はしっかりと視線を合わせてきた。
「もう――泣きません。涼さんは……涼さんは、ひとりで生きることをおやめになられたのですよね? 私と結婚してくださるのですよね?」
 この話の展開で、どうして自分が問われているのかが謎だった。
「……それは、私があなたにおうかがいしたい」
「なぜですか?」
「こんな人生を歩んできた人間は、たいていコミュニケーション能力が乏しい。歪んだ一面のひとつやふたつあるものです」
 数にして一つや二つならかわいいものだろう。実際に、自分がどれほど歪んだ人間なのかは自分自身がわかりかねる。
「でも、それが涼さんなのでしょう?」
「……えぇ。ですから、おうかがいしたいのは私のほうです。こんな私と、本当に結婚なさるおつもりですか?」
「私は涼さんの過去を好きになったわけではありません。私は、今、目の前にいる涼さんを好きになりました。どんな過去があってもそれは揺らぎません」
 声は、途切れることも掠れることもなく発せられた。向けられた眼差しも強い。それは、狸の持つものと似ていた。
 ――そうか、親子ってこういうことを言うんだな。
「あっ、あの……。別に過去がどうでもいいと言っているわけではなくて――過去があって今の涼さんがいらっしゃるのですから、その過去は私にとってはなくてはならないものなんです。あ、でも……ご両親が亡くなったことがいいと言っているわけではなくて……その――」
 急に彼女がうろたえだす。気づけば、俺はそんな彼女を抱き締めていた。
「ともに、生きてくださいますか?」
「――はい」
「子供を産んで欲しいとお願いしても?」
「もちろんです……」
「ひとりではなく、ふたりお願いしても?」
「はい……子供が多いと、きっと賑やかなおうちになります。それに、子供もひとりよりふたりのほうが楽しいでしょうから」
「真白さん……私と結婚してください」
「はい」



 診察室でもプロポーズの言葉は口にした。けれど、このときの言葉が本当のプロポーズだと思う。
 狸は、その機会を与えてくれたのだ。
 自分から娘に話すのではなく、俺に告白する機会を作ってくれた。きちんとプロポーズする機会を与えてくれた。契約から始まった交際であることも、何もかもを知りながら――
 食えない狸だとは思う。けれど、藤宮元その人を、義父に持てることを俺は誇りに思わなければならないだろう。

 抱きしめたままに問う。
「真白さん、お義父さんのお誕生日はいつでしょうか?」
「父の、ですか?」
「はい」
「クリスマスです」
「は?」
「十二月二十五日、クリスマスです」
 俺は、くっ、と笑う。
「真白さん、クリスマスはご実家にお邪魔させていただけますか? お義父さんの誕生日を盛大に祝わなくては」
「えぇ……ですが、その日はたいてい一族の人間や財界の方々がホテルに集まってパーティーをするのが恒例で……」
「では、ふたりでそのパーティーに出席いたしましょう」
 彼女は視線を逸らし言葉を濁す。この人はそういったものが得意ではないから。
「真白さん、ご安心ください。私もその手の類は大の苦手どころか大嫌いですから」
 少し身体を離し、びっくり眼が俺を見る。
 俺はくすりと笑って見せた。
「ですが、人をあしらうことは意外と長けてるほうかと思いますので、パーティーの際には藤堂さんではなく私をパートナーとしてお連れください。どなたからもお守りいたしますよ?」
 少しおどけた調子で話せば、彼女もくすりと笑う。
「私だけの騎士様ですね」
「えぇ。ですから、あなたは『宮の姫』ではなく、私だけの姫になってください」

 この日、初めて彼女を腕に抱きしめキスをした。自分も彼女も、人生で初めての経験。
 好きな人を、愛しいと思う人を腕に抱くことを幸せだと思えた。久しぶりに感じる人のぬくもり。
 それが彼女でよかったと、俺は今後何度思うことになるだろうか――

 人はいつか死ぬ。わかりきったことだが、人とは寿命ある生き物だ。それは仕方のないことだと腹は据えている。
 しかし、自分は何もできなかった幼い子供ではない。医療従事者としてできることがある。
 そして、これから手に入れることになる権力。これらを余すことなく使い彼女を守ろう。
 俺がひとりにならぬよう、彼女に寂しい思いをさせぬよう――
 彼女を守るためなら、なんでもできる気がする。

 真白さん……あなたという花が枯れぬよう、その笑顔を曇らせぬよう、私は最大限の努力をします。ですから、どうか私の側を離れないでください。
 どうか、私より先に逝かないでください――
 先週の土曜日、結納という名の誕生日パーティーを終えてから考えていた。
 本当はもっと前から――涼さんの生い立ちを聞いた日から考えていたこと。
 涼さんのご両親とおじい様やおばあ様のお墓参りをしたい、と。
 けれど、あの日以来、涼さんのご家族のお話が出ることはなくて、自分から切り出す勇気もなくて、時間だけが無常に過ぎていった。
「どうかなさいましたか?」
 運転席から声をかけられてはっとする。
「い、いえっ……」
 涼さんはくすくすと笑う。
「嘘はいけませんね。そもそも、嘘などつける性分ではないのですから、白状なさってください」
「…………」
「そんなに仰りづらいことですか? ……当ててみましょうか?」
「っ……」
 涼さんは相変わらず涼やかな顔でにこりと笑う。
 こんなことを考えてるなんて当てられるわけがない――どうして私はそんなふうに思ってしまったのかしら……。
「私の両親の墓に参りたい、ではないですか?」
 サクリと言い当てられて、私はどんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
 当てられたことに驚くとかそういうのではなく、血の気が引くような感覚だった。
「……そんな顔をなさらなくても大丈夫ですよ。毎年、命日が無理でもその前後に墓参りには行ってましたから」
「……そうなの、ですか?」
「えぇ。芹沢の墓を参る人間は少ないですからね。私が行かなければ無縁仏にされてしまいます」
 それはそうなのだろうけれど――おつらくはないのかしら?
 前方を見据え、運転する涼さんを見ていると、胸の中の疑問に答えてくれた。
「両親を亡くしたのは九歳、祖父母を亡くしたのは十二歳。先日私は二十八になりました。もう十分すぎるほど月日は経っています」
「……そうです、よね」
 言葉だけは同意の旨を伝えるけれど、心の中は複雑なまま。
 いつもと変わらずに見えたけど、誕生日のお祝いしたとき、涼さんは時々空虚な目をなさっていたから……。
 自分の誕生日が両親の命日だなんてどれほどつらいことか、と考えずにはいられなかったのだ。
「真白さんがよろしければ今から行きましょうか」
「えっ!?」
「私の両親と祖父母の墓参りに。今日はちょうど曇りですし、炎天下を行くよりはいいと思うのですが」
 フロントガラスから空を眺めて口にする。
 確かに、今日は曇り空ではあるものの、雨が降ってきそうな気配はなく、湿度も気温も残暑にしてはそこそこの日だった。
「それとも、もう少し涼しくなった秋に行きますか?」
「いえっ、行きますっ。……あ、でも、私、お花も何もご用意して――」
「大丈夫ですよ。花など、その辺に咲いてますから」
「え……?」
「寺が山中にあるんです。その道中に百合が咲いています」
「でも、それでは……」
「お気になさらず。それが芹沢家流なので」
「……お父様もお母様も、おじい様もおばあ様も、そうなさっていたと仰るのですか?」
「えぇ。そして、それを咎める住職でもありません。むしろ、野に咲く草木のほうが花のもちが良かったりします」
「……そうなのですね」
 不安を覚えながら、きゅっと手を握りしめた。

 涼さんの故郷は、幸倉で高速道路に乗ってから一時間ほど走ったところにあった。県名で言うなら、隣の県なのだけども、場所的にはそのまた隣の県の手前。つまりは県境にある。
 高速道路を下りるなり、
「今日は私事に付き合っていただいてもよろしいですか?」
 と訊ねられた。
「はい」
 緊張したままに答えると、
「それではフルコースでお付き合いいただきましょう。あなたが一緒なら心強い」
 涼さんはほんの少し肩を竦め、クスリと笑った。
 最初に連れて行かれた場所は新興住宅地のよう。
「ずいぶんと様変わりしたものです。自分が小学生のころはまだ家が建ってない場所が多く、空き地や雑木林が多く残っていたものですが……」
「っ……!?」
「車を停めて、少し歩いてもいいですか?」
 涼さんは私に訊きつつも、すでにコインパーキングに車を停めたところだった。
 私は気が動転してしまい、車が停まってもなかなか車を降りることができないでいた。すると、
「両親と暮らした町を少し歩いてみたいんです」
 と、外からドアを開けられた。
 私はシートベルトも外さずに涼さんの顔を見上げる。
「大丈夫、なのですか……?」
「何が」というものは明確ではない。ただ、心配だったのだ。涼さんの心が……。
 涼さんの目が優しく揺れ、
「真白さん、あなたがいてくれれば」
 と返された。
 シートベルトを外し、差し出された手に右手を預ける。
 車を降りると、ミーンミンミン、とセミの鳴き声がした。その音に気をとられていると、
「藤山よりは静かでしょう?」
 涼さんはほんの少しいたずらっぽく笑った。

 コインパーキングから十分ほど歩いた場所で涼さんが足を止めた。
「ここに、3LDKの白い戸建ての家がありました。母も父も自然愛好家でしたので、家は木造建築でしたね。外装がシンプルで、花がよく咲いていた。両親共働きだったのですが、庭の手入れだけは怠らない人たちで、春夏秋冬、どの季節にも欠かさず花が咲いていました」
「……素敵なおうちだったのですね」
「えぇ……自慢の家でした。なんといっても、私が小学二年生のときに建てた家でしたからね。両親にとっては念願のマイホームといったところだったのでしょう」
「…………」
「だから……祖父母もあの家を取り壊すことができなかったんですかね」
 その家は涼さんのおじい様が亡くなるまで残してあったらしい。決して廃屋になることもなく……。
「それとも――いつか私がここに戻ってくることを考えていたのでしょうか……」
 思いを馳せるように、今は違う家が建つ場所を見ていた。
 かつて、一軒家が立っていた場所には庭などあってないようなペンシルハウスが二棟建っている。
「あの……うちにご用ですか?」
 突如、後ろから現れた人に驚く。
 二十代半ばくらいの若い男女。指に輝くリングが夫婦であることを物語っている。
「申し訳ございません。もうずいぶんと昔の話なのですが、このあたりに住んでいましたもので……。懐かしく思い、少し立ち寄らせていただきました」
 涼さんがそつなく答えると、女性が顔を真っ赤に染めた。
 今さらのように思い出す。そうだ、涼さんはとても人目を引く容姿をしていた。
「不躾で申し訳ございませんでした。さ、真白さん。行きましょう」
 背に手を添えられ、私もペコリと会釈して歩きだす。
 来た道を戻る涼さんに問いかける。
「よろしかったのですか……?」
「何がでしょう?」
「ほかに……学校などは……」
「えぇ、かまいません。次は、祖父母と暮らした場所へ行きたいのですが、よろしいですか?」
 訊かれてコクリと頷いた。
 どうやら、涼さんはお墓参りに行く前にそこへ立ち寄りたいようだった。

 国道を使って隣の市に移動すると、さきほどと同じようにコインパーキングに停める。
 そこからも、やはり十分ほど歩いた。
「その角には駄菓子屋があったんですよ。私よりも祖母が好きでしてね、よく黄な粉棒を買いに行ったものです」
「黄な粉棒、ですか?」
「食べたことありませんか?」
「……はい」
「では、今度買ってきましょう」
「あのっ……」
「なんですか?」
「あの……買ってきてくださるのではなくて――」
 涼さんの手がふわりと頭に乗った。
「そうですね、一緒に駄菓子屋へ行きましょうか」
「はい!」
 そんな会話をしながら角を曲がって数メートル。
「こちらにはマンションが建ったようですねぇ……」
「え、コレ……ですか?」
「えぇ。元は古民家が立ち並ぶ一角だったのですが……。さすがに世代が変われば家もなくなりますね」
 涼さんは淡々と口にしてはその場を引き返す。
「……大丈夫ですか?」
 恐る恐る声をかけると、
「大丈夫ですよ」
 にこりと笑顔が返される。けれど、その言葉と笑顔を信じていいのかがわからない。
「次こそ、寺へ参りましょう」
「はい……」

 お寺はそこから三十分ほど走った場所にあった。同じ市とはいえ、ずいぶんとのどかな風景。夕方近いこともあり、眼下に広がる町が西日に照らされ光って見えた。
 途中、車を停めてはトランクから何か取り出す。
「切るものを持ってきませんでしたので、特別にメスで切ろうと思います」
「っ!? お仕事の道具ですのに、よろしいのですかっ?」
「えぇ、何かあったときのために入れてある救急セットのようなものですので、後日新しいものに替えます」
 車を降りると、車道脇にオニユリ、ヤマユリ、カノコユリが彩り豊かに咲いていた。芳香の強いものは少ない。けれど、目にはとても鮮やかに映った。
「さて、どれにしましょうか?」
 涼さんに訊かれ、配色を考えつつ百合を選ぶ。涼さんはメスでいずれの百合も長めに切っていく。
「寺に行けば花切りばさみを貸していただけます。それで長さを整えましょう」
「――あのっ」
「はい?」
「お花、いけさせていただけませんか? 私に、いけさせていただけませんか?」
 涼さんは少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに快諾の意を伝えてくれた。
「願ってもない申し出です」
 花粉がつくから、という理由で百合はトランクに入れられた。そこから走ること十分ほどでお寺の入り口が見えてくる。お寺を前に道路を挟み、車が二十台ほど停められる駐車場になっていた。
 入り口にご住職と思しき人が竹ぼうきを携えて立っている。
 目を凝らし、人の特定ができる距離になると、驚いた顔をしてから頬を緩めた。
「涼くん、よく来たね。そろそろ来るころだと思っていたよ」
「ご無沙汰しています」
「そちらのお美しい方とはどのようなご関係かな?」
 にんまりと笑った人に涼さんは、
「どのような関係に見えますか?」
 と訊き返した。
「恋人、だったら嬉しいねぇ」
「では、喜んでいただきましょうか……。恋人であり、婚約者です」
 ご住職らしき人は、先ほどよりももっと驚いた顔をした。
「藤宮真白と申します」
 挨拶をすると、竹ぼうきを手から放すほどに驚かれた。
「藤宮というと……あの――」
「住職、推理はそのくらいになさってください。それより、花切りばさみを貸していただきたいのですが……」
 ご住職は、「いや、申し訳ない」と額に手を当て私に向かって頭を下げた。
「花切りばさみを持ってくるから先にお墓へ行くといい」
 と、お堂に向かって歩きだした。
 私たちは水桶やスポンジ、ほうき、ちりとりを持ってお墓に向った。
 一・五メートル四方のお墓。御影石には「芹沢之墓」と彫られており、その裏には卒塔婆が数本立てかけられている。
 涼さんは慣れた手つきで掃き掃除を始め、それらを手早く済ませると、
「水がかかりますから、少し離れていてください」
「あの、お手伝いさせてください」
「ですが、すでにそこまで花切りばさみがいらしてますので、剪定をお願いしてもよろしいですか?」
 私の後ろにはご住職が、そして涼さんが指差した場所には桶に入れられた百合があった。
「でも……」
「お願いします」
 有無を言わさない態度に困りかねていると、
「あれは彼の仕事ですから。決してあなたに気を遣っているわけではないのですよ。やらせてあげなさい」
 ご住職の言葉に私は花切りばさみを受け取った。
 私が桶の中で水切りをしている傍ら、涼さんは墓石に水をかけ、スポンジで丁寧に墓石を磨き始めた。とても丁寧に、大切なものに触れるように。
 私の水切りが終わると同時くらいに墓石を磨く作業も終わった。墓石のてっぺんから水を一かけしたあと、花器に百合をいける。
 そうして墓地の通路に出た。
 ふたり揃って深くお辞儀をし、その場にしゃがみ手を合わせる。

 初めまして。私、藤宮真白と申します。
 ご挨拶が遅くなり大変申し訳ございません。本当でしたら、婚約をする前にうかがうべきでしたのに……。
 先日、涼さんの誕生日に婚約させていただきました。
 とてもすてきな方を産んでくださり、愛し育んでくださり、ありがとうございます。
 私は出逢ったときから助けられてばかりで、この先も何度となく助けられるのでしょう……。けれど、それだけではなく、私にも何か返せたら……と思っています。
 自分に何ができるのかはわかりません。それでも、涼さんと一緒にいられたら幸せだと思うのです。
 涼さんにもそう思っていただけるように努力いたしますので――どうか見守っていてはいただけませんでしょうか。
 お願いします――

 目を開けると、涼さんに顔を覗き込まれていた。
「ずいぶんと長く手を合わせてくださいましたね」
「そんなに長くないです……。まだお話し足りないくらいで――」
「私もです。何せ、珍しく報告することが多かったものですから」
 ふたりの会話にご住職が混じる。
「では、また来ればいい。もしくは、心の中で話しかけなさい。想いはどこにいても届くものです」
 ご住職はにこりと笑うと目がなくなってしまう人だった。
「涼くん。やはり花崎(はなさき)のところには……」
 ご住職が言いづらそうに話しかけると、
「……これから伺おうと思います。お手数ですが、電話を一本入れておいていただけませんか?」
「っ……よし! すぐに連絡を入れよう。花崎も喜ぶぞ!」
「喜ぶよりも、驚かれてしまうかもしれませんね」
 涼さんは苦笑した。
 私は「ハナサキさん」という方がどなたなのか、口を挟むことができずにお寺をあとにした。
 車に乗ると、
「もう一ヶ所だけお付き合いいただけますか?」
 と訊ねられる。
「はい……どちらに?」
「ハナサキさん」と仰る方のところであろうことはわかるのだけれども、その方が涼さんとどのような関係にあるのかはわからない。
「ハナサキ、とは植物の花に宮崎や島崎の崎という字を書きます。花崎さんは、私がお世話になった施設の園長先生をなさっている方で、かつて、大学の奨学金申請時には保証人にもなってくださいました。今でも時々連絡は取るのですが……」
 とても言いづらそうに先を続ける。
「実は、園を出てから今日まで一度もお会いしてません……」
「え……?」
「墓参りには来ていましたが、実家や祖父母の家があった場所に赴いたのは建物を壊して以来です。私は、恩義ある方にも挨拶にいかない不義理な人間です」
「……不義理な方は寄付など続けないと思います」
「……あなたは優しいですね。資金提供をすればいい、というものではないでしょう」
 けれど、そうすることしかできなかった涼さんの心はとても痛切なものだったはず。
「ですが、その不義理も今日で終わりです。私はこれからも寄付をやめるつもりはありません。それと、墓参りの帰りには園に寄ることにしようと思います」
 陶器のような肌をじっと見つめていたら、口もとが緩んだ。
「どうやら、そのくらいの余裕が私にできたようです。――真白さん、あなたと出逢ってから」
 まだ私は何もできていない。けれど、そんなふうに仰っていただけることが、とても嬉しかった。

 行く道すがら、小さなケーキ屋さんを見つけ、涼さんはそこに寄った。
「園の子どもたちは誕生日の日しかケーキが食べられないんです」
 それはきっと、金銭面での問題があるからだろう。
「今、園にどのくらいの子どもがいるものか……」
 顎に手を当て考えた涼さんは、ショーケースの半分ほどのケーキを買い込んだ。
 ケーキのほか、日持ちしそうな焼き菓子やマドレーヌなど、お店の人がびっくりするほどの分量を。
「すごい分量ですね」
「えぇ……。その時々によるのですが、園には少なくても二十人、多いときは三十人近くの子どもがいますから。それと職員を含めれば四十人ほどですかね」
 今日の私は驚いてばかりだ。
 郊外を離れた場所にある園につくと、園庭で遊んでいた子どもたちが一斉にこちらを向いた。
「……少し緊張させてしまったかもしれません」
「え……?」
「ここに大人が来るときは、新しい子どもが来るときか、養子を望む人が来るときですから……」
 そう思うと、なんともやるせない気持ちになる。
 けれど、園庭で遊ぶ子どもたちは皆笑顔で、とても賑やかな風景を作り出していた。それが心からの笑顔なのかは少し疑問が残るけど……。
 私は小さいころから大人たちにちやほやされて生きてきた。けれど、ちやほやされる私は人の目を気にし、悪い印象が残らないように、と笑顔を作る術を身につけてしまった。それが自分の本当の笑顔なのかわからなくなるくらい、精神的に追い詰められたこともある。
 そんなことを思い返せば、この子たちはどんな思いで笑顔を見せているのだろう、と胸がチクリと痛む。

 建物こそ古びてはいるものの、きちんと手入れの行き届いた環境。
 園の入り口にはレンガで周りを固めた花壇があり、ダリアが見事に咲き誇っている。園庭の遊具は少ないながらも、皆が皆、譲り合って遊んでいた。
 お姉さんやお兄さんは小さな子の面倒を見、小さな子たちは洋服のボタンを留めるのに必死になっている。
「必要最低限、自分のことは自分でできるように……というのがこの園の方針なんです。高校を出れば園を出なくてはなりません。ですので、中学に上がると、炊事洗濯は中高生が分担をして行います」
 初めて知る世界の話だった。
 私は何もかも恵まれた環境で育っていて、その環境に慣れないと贅沢な悩みを抱えていたのだ。施設の方針を知って、自分が恥ずかしく思えた。
「家庭環境や育つ環境は人それぞれです。あなたが気に病む必要はありませんよ。それに、ここの子たちは皆が皆、それほど悲観してはいませんから。もっとも、施設に入りたての子は慣れない場所であり、突然のことにストレスを多分に抱えていますが、そのフォローをするのも職員や中高生の役目です。ここは意外と環境のいい施設なんです」
 その言葉を聞いて少しほっとした。
 園庭で遊ぶ子に涼さんが声をかける。
「花崎園長はいらっしゃいますか?」
「園長ー?」
「はい」
「園長ならこの時間、裏の畑でしゅうかくしてるよー。おじさんだぁれ?」
「芹沢涼と申します。この園の卒業生です」
「そうなのー!?」
「はい」
「今は何をしてるの?」
「医者を職業としています」
「お医者様……? ……ここで育ってもお医者様になれるの?」
「えぇ。たくさんご飯を食べて、たくさん勉強をすればなれますよ」
 腰をかがめ、目線を合わせて涼さんが話すと、男の子の表情はパァ~と明るいものになった。
 涼さんと私はその男の子にお礼を言って、建物の裏手にある畑へと向かった。
 畑、というだけに、さすがにヒールの靴では歩きづらい。すると、
「少しこちらでお待ちください。呼んできますから」
 私はその申し出をありがたく受け止めた。
 涼さんは足早に畑の中を歩いていく。と、数十メートル先に人が四人ほど農作業をしていた。
 涼さんに気づくと、皆が皆驚きの声をあげる。
 涼さんは深々と頭を下げ、私の方を指し示した。すると、こちらに向かって会釈をされ、四人のうちのひとりが涼さんと連れ立って戻ってきた。
「いやいやいやいや、暑い中ご足労いただきありがとうございます」
「いえ、突然お邪魔してしまい申し訳ございません」
「外ではなんですから、園長室にまいりましょう。何もないところですが、お茶くらいならお出しできます」
「それでしたら、お茶請けはこちらでご用意させていただきました。今、何人の子どもが園にいるのでしょう?」
 涼さんが尋ねると、
「今は総勢二十八人。職員を合わせれば三十五人といったところかな」
「よかった。ケーキを買ってきたのですが、念のために四十個用意して正解でしたね」
「気を遣わせて申し訳ないね」
「いえ……。それよりも、こちらを出てから一度も顔を出さなかったことのほうが申し訳ない……」
 花崎さんは麦茶をテーブル上に差し出すと、
「それだけの時間が必要だったということでしょう。何しろ、婚約者を伴って来てくれたのだから、これ以上に嬉しいことはない」
 まだ私が婚約者であることは話していない。きっと、お寺のご住職が話したのだろう。
「ご挨拶が遅れました。私、藤宮真白と申します。先週、涼さんと結納を済ませました。どうぞ、これからは私もご一緒にお邪魔させてください」
「喜んで」
 花崎さんはとても温和な方だった。
 涼さんが両親と暮らした家と、祖父母と暮らした家の界隈を歩いてきたことを話すと、それはそれは驚いた顔をなさった。
「一歩前へ進めたようだね」
「はい……。もっと早くに来れれば良かったのですが……」
「時間は問題ない。こうやって来てくれたことが何よりも嬉しい」
 本当に、涼さんが来たことを心から喜んでいるふうだった。
「そこで……図々しいお願いを聞いて頂きたいのですが……」
 涼さんが幾分か言いづらそうに申し出ると、
「なんでしょう? 私にできることがあればなんでも言ってみなさい」
「……私たちの結婚式に身内として出席してはいただけないでしょうか」
 ひどく緊張した面持ちで切り出した。
「それは……」
「私には身寄りがありません。ですが、藤宮の令嬢と結婚するにあたり、式は盛大なものになるでしょう。そんな場に呼べる人が花崎園長しか思いつかないのです」
「……私なんかでいいのかい?」
「むしろ、あなた以外が思いつきません。それと、住職にも来て頂きたく思っています。ですが、何分、住職ですからね……」
 と苦笑する。
「華やかな席に相応しくないと断られそうでしたので、先に花崎園長にお話させていただきました」
「わかりました。古藤ことうには私から話しましょう。――不躾な質問なのですが……藤宮というと、あの藤宮ですか?」
「えぇ、ご想像の通りです。藤宮グループ、現会長のご息女です」
「そうでしたか……。いやはや、実は元さんとは面識がありましてね」
「え……?」
 思わず口を挟んでしまった。
「父とお知り合いなのですか?」
「二ヶ月ほど前のことです。涼くんのことを尋ねにいらっしゃいました」
 父のことだから、涼さんのことはくまなく調べたのだろうとは思っていた。でも、まさか自ら足を運ぶとは思ってもみなくて……。
「とてもすてきなお父様でいらっしゃいますね」
 にこりと笑われて、少し戸惑ってしまう。そんな私の代わりに涼さんが、
「私などではとても太刀打ちできない方です。まだ知り合ったばかりですが、これ以上にないご恩を感じております」
「では、結婚式の招待状が届くのを楽しみに待っています。……それと、寄付金のことなのですが――」
 花崎さんの言葉の途中で涼さんは制止した。
「すみません。これは私の気持ちと思って受け取ってください。私は今後も寄付をやめるつもりはありません」
「ですが、家庭をもつのであれば、何かと物入りになるでしょう」
「それなのですが、どうやら私は婿養子に入ることが決まっておりまして、住む場所も何もかも、まったくお金がかからないのです」
 涼さんは肩を竦めて苦笑した。
 花崎さんもきょとんとしたまま固まった。
「ですから、今までと変わらず、好意として受け取ってください。それと、毎年墓参りの季節にはこちらにも立ち寄らせて頂きます」
 言うと、花崎さんはにこりと笑った。
「では、ありがたく頂戴いたします」

 帰りの車の中で涼さんはため息をつかれた。
「……お疲れですか?」
「いえ……少し緊張していたものですから」
 私が気づけたのは最後の結婚式のお話をされたときくらいだけれども、今日立ち寄ったすべての場所に緊張しながら赴いたのかもしれない。
「手を……」
「え?」
「手を取らせていただいてもよろしいですか?」
 不意に聞かれ、右手を差し出す。
「相変わらず冷たい手ですね……」
 言いながら、両手で優しく包み込まれた。
「でも、とても心地がいい」
 涼さんの大きな手に挟まれた右手と、もう片方の左手で涼さんの手を包み込む。
「私の手を必要としてくださいますか?」
 涼さんは目を瞠るようにして私を見た。
「……必要です。私が生きていくために……前に進むために必要な手です。必要な存在です」
「……嬉しいです」
「真白さんは――」
「……必要というよりは……ずっとお側にいたい方です。十年先も二十年先も……年老いてしわくちゃになっても……」
「えぇ……共に年を重ねましょう。この命が果てるまで。……ですが、私より先には逝かないでくださいね」
 それだけはお願いします、と真剣な目でお願いをされた。
「でも、残されるのはつらいです……」
 少し文句を言うと、
「では、ふたりで長生きをしましょう」
 柔らかに笑う涼さんを見たらほわりと胸があたたかくなった。
 涼さんの目をじっと見つめると、
「口付けてもよろしいでしょうか」
 訊かれて、私は目を閉じた。
 四月一日――それは私たちの結婚記念日。
 挙式だけはなるべく親しい人のみで行いたいとお父様にお願いし、三十人ほどの参列者に見守られる中、式を挙げた。
 披露宴こそ何百人という人を招いてのパーティーとなったわけだけれども、お色直しと称した途中退場を何度か挟むことで休憩を取り、その日一日を乗り切った。
 案の定、その夜から熱を出し、一週間ほど寝込むことになったのだけれども……。

 身体を起こせるようになって数日が過ぎ、私と涼さんは初めて結ばれた。
 怖い、痛い、恥ずかしい――様々な感情が入り混じる中、涼さんの細やかな気遣いと優しさを受け、今までに感じたことのない幸せを感じることができた。
 自分のものではない、人の体温をこんなにも感じたのはお母様以外では涼さんが初めて。けれど、お母様の柔らかな肌やぬくもりとは異なり、もっと熱く、細身なのにしっかりと筋肉のつく腕に触れるのはとてもドキドキするもので……。
 涼さんの肌に触れること、触れられることが嬉しくて、幸せだと思えた。
 そんな夜を幾度となく過ごした月末のこと。
 予定日を過ぎても生理は来なかった。
 私の生理周期はというと、ごく稀にひどく体調を崩すときのみ遅れる程度で、それ以外はたいてい規則正しく来ていた。
 身体の関係をもつと周期が乱れたりするのかしら……?
 思わず首を捻ってしまう。
 とくに体調に変化もなかったことから、私は何事もないように日々を過ごした。
 そうして二週間が過ぎようとしたころ、ひどい吐き気に襲われた。
 藤堂さんに連絡をしたあとのことはあまり覚えていない。きっと貧血を起こして気を失ってしまったのだろう。
 気づけば、病院のベッドに寝かされていた。
 相変わらず身体中が火照ったような熱さと吐き気があるものの、病院という場所にいるだけで少し安心してしまう。

 控え目なノックのあと、静かにドアが開いた。
 顔を覗かせたのは涼さんだった。
「真白さん、具合は?」
「あの、私……」
「自宅で具合が悪くなったところ、藤堂さんが病院へ運んでくださいました」
「すみません……」
「なぜ謝るのですか?」
「今、勤務時間でいらっしゃるのでは?」
「えぇ、ですが少し気になりましたもので……」
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
「……真白さん、最終月経はいつでしたか?」
「えっ!?」
 急に訊かれて頬が熱を持つ。
「大事なことですからお答えください」
「あの……生理一日目でよろしいのですか?」
「はい」
「……先月の二十九日です」
 涼さんは少し間を置いてから、「検査をしましょう」と言った。
「なんの、でしょう?」
「妊娠しているかどうか、です」
「えっ……!?」
 あまりにも私が驚いているからか、涼さんは少し困ったように笑った。
「あり得ないことではありません。規則正しく生理がある方でしたら、私たちが初夜を迎えた日は排卵日前後のはずです」
 涼さんはわかりやすいように、手帳に生理周期を書いて見せてくれた。それを見たことにより理解はできたものの、気持ちが追いつかない。
「微熱に吐き気、貧血は妊娠初期症状とも言えます。下手な薬を処方する前に検査をしたほうがいいと思いましたので……」
 こうして私は婦人科の先生に診ていただくことになり、妊娠を告げられたのだ。



「ただいま帰りました」
 そう言って涼さんが入ってくるのは病院の十階にある個室、特別室。
 私はひどい吐き気から脱水症状を起こしてしまい、体調が安定するまで管理入院することになった。
 ゆえに、涼さんが「ただいま帰りました」と言って入ってくるのは病院内の一病室。
「すみません……」
 つい謝罪の言葉が口をつく。
「謝ることはありません。真白さんがいるところが私の帰るべき場所ですから」
 まるで家も病院も関係ないみたいに言われて、そんなことがひどく嬉しいと思う。
 嬉しいのにどうしてか涙が出てくる。
「どうしましたか?」
「いえ……ただ、嬉しいと思っただけなんですけど……勝手に涙が」
 涼さんはティッシュでそっと涙を拭ってくれた。
「妊娠期間中は感情の起伏が激しくなるそうですよ。それならば、感じたままに過ごせばいい。なるべく側にいますから」
 今となっては涼さんも病院に寝泊りをしている始末。涼さんは毎晩病室に帰ってきて病室から出勤する。
 洗濯物などはすべて病院側で手配してくれるものの、何もできない自分がひどくもどかしかった。
「アイロンのひとつもかけられないなんて……」
 さらには一緒に食事を摂ることもできない。食べ物の匂いをかぐだけで戻してしまうのだ。だから、涼さんは病院の食堂で朝昼晩のご飯を食べることになってしまった。
「……気に病まないでください。その分、元気な子を産んでくださいね」
 にこりと優しく微笑まれ、私の心は溶けていく。
 愛する人の手に触れたくて、そっと手を伸ばす。と、触れる直前で気づかれ、逆に握られてしまった。
「どうしました?」
 優しく訊かれ、
「触れたいと思っただけです……」
 正直に答えると、額にキスが降ってきた。
「一緒に休みたいところですが、さすがに病院のベッドでは無理ですね」
 涼さんはクスリと笑って見せる。
 特別室のベッドは、シングルより多少広い程度。なぜかと言うなら、広すぎるベッドでは医療行為を行うのに不適切だからだ。そのため、ふたりで寝るのには手狭といわざるを得ない。
 涼さんはこの部屋に備え付けられている簡易ベッドで毎日寝ている。
「一緒に寝るのは無理ですが……」
 涼さんは手を握っている手とは別の手で、私の視界を遮断した。
「真白さんが眠るまでここにいます。そのあと少し勉強をしますが、隣のベッドで寝ていますから……。何かあれば起こしてください」
「……やっぱりご自宅に帰られたほうがゆっくり休めるのではないでしょうか?」
 ここにいる限り、涼さんはどうあっても医師なのだ。
 私が自宅にいたとしても同じことだっただろう。
 けれども今、私は入院しているわけで、本当なら涼さんは自宅でゆっくりと休めるはずなのに……。
 今度は悲しくなって涙が零れる。
「おやおや……本当に感情の起伏が激しいようですね」
 先ほどと同じように涙を拭き取り、
「では、少しお話をしましょう」
 と、ベッド脇に椅子を持ってきて私のベッドを少し起こしてくれた。
「真白さんは女の子をお望みですか? それとも男の子?」
 急な質問にびっくりする。
「あ……えっと……――」
「……妊娠したにもかかわらず、そのあたりは考えていなかったのですか?」
「……はい。今の今まですっかりと……」
 なんとも間抜けな話だ。
 妊娠がわかってから悪阻の症状がひどくなり、そんなことを考える余裕もなく入院してしまったのだ。
「涼さんは……? 涼さんはどちらをお望みですか?」
「そうですね……。女の子なら真白さんに似て優しい子になるでしょうし、男の子なら多少厳しく躾けようかと思っています」
「ふふ……やっぱり男親は女の子に甘いのですね」
「それはそうでしょう。逆に男は少し厳しく躾けるくらいがちょうどいいのだと思います」
「涼さんもそのように躾けられたのですか?」
「……どうでしょうね。両親に育てられた記憶は小学生までしかありませんので……」
「すみませんっ……」
「謝らなくても大丈夫ですよ。あなたなら、何を言っても大丈夫です。あなたの言葉で私が傷つくことはありません」
「どうしてそう言い切れるのですか?」
「……愛しているから、愛されているから、ですかね」
 その言葉に胸の奥でトクンと音がした。
「今も変わらず吐き気が?」
「……はい。でも、こうしてお話をしていると少しだけですが気が紛れるようです」
「では宿題を出しましょう」
「宿題、ですか?」
「はい。日中何もすることがなかったり何もできなかったりすると気分は滅入るものです。そんなときには子どもにつける名前や、女の子だったらどんな子に育ってほしいか、またはどんな習い事をさせたいか……そのようなことを考えてはいかがでしょう? 私はそれを聞くのを楽しみにしながら一日仕事をがんばります」
 涼さんはとても優しい。
 私の気持ちが楽になるような言葉をかけてくださる。
「では、涼さんにも宿題を出してもいいですか?」
「私にも、ですか?」
「はい。さほど難しいことではありません。子どもが生まれたらどんな場所に連れて行きたいですか?」
「……本当に簡単ですね? 今答えられてしまうくらいだ」
「え……?」
「あなたが行きたいところへ連れて行きましょう」
「……また行き先の候補を挙げてくださいますか?」
 涼さんはクスリと笑い、「かしこまりました」と答えてくれた。
 どんなに身体がつらくても、涼さんと話すだけで少し楽になる気がするから不思議。
「さ、そろそろ休まれてください」
「はい……」
 同じ病室に寝泊りしているとわかっていても、目を瞑って涼さんが見えなくなるのはなんだか名残惜しい。
 なかなか目を閉じることができないでいると、
「側にいますから」
 と、おやすみなさいのキスが降ってきた。
 まるで自分が子どものように思えてしまったけれど、でも、涼さんには素直に甘えられる自分を知って、安堵と幸せな気持ちで心が満たされた。
 私もいつの日にか、涼さんにそんな気持ちを与えられる人になりたい――