腰かけていた身体をゆっくりと持ち上げ、松葉杖を持つ。
そして私に背を向けてから、隆也君はさっきまでとは違う小さな声でつぶやいた。
「ココア、今度は俺に奢ってな。」
「……ココア、ですか?」
「練習か試合の時の差し入れって事でさ。あ、でも、差し入れって言っても皆にじゃなくて俺にだけ持ってきて。」
「え、それって……」
「約束な、二人の。」
そう言って微かに振り向いた顔から見えたのは、少し赤らんだ頬とはにかんだ表情だった。
自分から言ったのに、照れてる。
なんか自分でも何が起きているのか整理できなくなってきちゃったよ。
『俺が足治ってバスケに復帰できるようにな………』
あ、そういえば、さっき言いかけていた事はこの事だったんだね。
「じゃ、またな。」
「あ、しゅ、手術…頑張って下さいっ」
「おうっ」
最後にもう一度笑ってから、カツカツという松葉杖の音と共に隆也君の姿が小さくなっていった。
大丈夫かな、隆也君。
私のせいで看護師さんに怒られてないといいけど。
隆也君が来てくれた事が嬉しい反面、少しだけ罪悪感。
私が弱いばっかりに迷惑をかけてしまったな…。
これは、絶対ココア持っていかなきゃ。
「永愛っっごめんな、遅くなった!!!」
「あ、お父さん……。」
私が一人いる待合室に、慌てて走ってきたお父さんの姿が目に入る。
そっか、お父さんは今まで隆也君が居てくれた事知らないから…。
私がずっと一人でいると思って、急いできてくれたんだね。
「大丈夫だよ、お父さん。」
よし、決めた。
ココアだけじゃなくて、何か手作りのお菓子も持っていこう…。
『新しい家族』
寒い時期を少し過ぎた頃、窓を開ければ暖かい風が吹き込んでくるようになった。
「今日もいい天気だぁ……。ほら、瞬輝も早く起きなよ?」
「ん――……解ってる。」
お母さんの代わりに瞬輝を起こすのも、今ではすっかり日課になってしまった。
最初は怒ってばっかりでうまく起こせなかったけど、最近はコツを掴めてきたのか瞬輝もすんなり起きて返事をしてくれるようになった。
あ、それとも、もう一つ大きな変化が瞬輝を変えたのかな?
まぁ、寝起きはまだまだ悪いけどね。
「ほら、瞬輝起きてってば。見てみたいって言ったのは瞬輝だよ?」
「………あ――…そうだった……うん、解った…起きるよ。」
今日はいつもより30分早く起きた瞬輝。
この時間は私が起きる時間で、本来は瞬輝はまだ布団の中。
そんな瞬輝が早く起きた理由は、私が毎日見ている光景を一緒に見る為だった。
「静かにね、お父さんすぐに気づくから。」
「解ってるよ、姉ちゃんじゃあるまいし。」
この弟、一回殴ってもいいかな、いいよね。
二人で静かに階段を下りていき、半分辺りの所で足を止める。
すると、私達の耳に聞きなれた声が入ってきた。
「今日は職員会議があるから少し遅くなる。でも、夕飯には間に合うようにするな。」
「うん、でも無理しないでね。」
「あぁ、解ってる。」
私が毎日見ている光景、それはお父さんの見送りをする時の事。
お母さんの妊娠が発覚した時から見てきたこの光景は、今では私の一日の始まりを告げてくれる光景となっている。
むしろ、この光景を見ないと一日が始まらないと言っても過言じゃない。
「今日の晩御飯は何か食べたいものとかある?」
「ん――そうだな……麻椿が作るものだったら何でもいい。簡単なものでいいよ。」
「そっか…じゃぁ、考えとくね。」
「あぁ。……でも、晩御飯が簡単なものでいい代わりに麻椿にお願いがあるんだ。」
「お願い?」
お父さんの『お願い』という言葉に、お母さんだけじゃなくて私達子供も耳を傾ける。
なんだろう、お父さんのお願いって…。
「まぁ、お願いというかお誘いっていうのが正しいか。今日の夜、久しぶりに二人で飲もうか。」
「えっ……。」
お父さんの言葉に、お母さんが凄く驚いているのが解る。
「…あの二人って、酒飲むんだな…。」
「ね、私もそう思った…。」
普段、家でお酒を飲まない二人。
というか、一度も飲んでいる所を見た事がない気がするなぁ。
「最近全然飲んでなかったろ?ずっと頑張ってくれてたし、久しぶりにどう?」
「うんっうんっ喜んで!!!」
「ははは、嬉しそうだなぁ。何、そんなに飲みたかった?」
「違う、そうじゃなくって!!先生と二人で飲めるのが嬉しいの!!」
「「!!!!!!」」
「うん、そうだろうと思った。」
「「!!!!!!」」
どうしよう、刺激が強すぎて耐えられない。
お母さんの可愛い発言にも、お父さんの当たり前だろ的な発言にも、もう驚きっぱなしなんだけど。
いつもは生意気な瞬輝も、今ばっかりは顔真っ赤で可愛いよ。
「じゃぁ、何か帰りに買ってくるな。」
「うん、楽しみにしてるね。」
そう言って、お父さんが玄関のドアノブに手をかける。
それは家を出るサイン。
「いってくる。」
「気を付けてね。いってらっしゃい。」
少し寂しそうな顔をしたお母さんがお父さんに近づき、ゆっくりとネクタイを直す。
そして、さっきより近づいた二人はそのまま優しくキスをした。
毎朝見ているこの光景…なんて自然な流れなんだろう……。
ぎこちなくもなく、でもどこか初々しいというか……。
もう、すごいとしか思えない。
どうやったら二人みたいな夫婦になれるんだろう。
難しすぎて想像すらできないよ…。
「いいな、あんな関係…。まぁ、子供としては見てて恥ずかしいけど。」
私の横で今の光景を見ていた瞬輝が、そう小さく呟く。
一緒の事思ってたんだ…ちょっと意外だったかも。
瞬輝の事だから恥ずかしがってバカにするかと思ってたよ。
「あんな夫婦になりたいね。」
「はっ、まずは付き合ってくれる人が先だろ。見つかんのかね、姉ちゃんに。」
「なっ!!それを言ったらあんただって……」
「おーい、父さん仕事行ってくるな。そこの二人も学校遅れるなよー。」
「「!!!!!」」
心臓が思いっきり跳ね上がった気がする。
鼓動も呼吸も、一瞬にして速くなっていく。
「えっ二人ともそこにいるの!?」
「あぁ、最初っから俺達の話し聞いてたよな?」
「「!!!!!」」
やっぱりお父さんにはバレちゃってるのか…。
どんだけ頑張っても勝てないなぁ。
逆に、どんな手を使ったらお父さんにバレないんだろ…。
「永愛、今日もお母さんの手伝い頼むな。」
「…うん、解ってる。」
「瞬輝、皆の事頼んだぞ。」
「うん、大丈夫だよ。」
私達の返事を聞くと、お父さんが私達に優しく微笑んだ。
「……行ってきます、幸穂。」
そして、もう一人。
新しく私達の家族となった幸穂(さちほ)に、お父さんは優しく微笑んだ。
「ほら幸穂、お父さんに行ってらっしゃい言おうね。」
まだ話す事も立つ事もできない生まれたばかりの私達の妹。
必死に何かを言おうと、お母さんの腕の中で動いている。
その姿は見ていて飽きないし、何といっても可愛い。
「「「行ってらっしゃい。」」」
そして、バタンとドアが閉まる音と共に、お父さんは仕事場へと出かけていった。
その音を聞き終えてから私達二人は下へと階段を降りていく。
「おはよう、二人とも。」
「おはよう、お母さん。」
「…はよ。」
「よし、お父さんのお見送りも終わったし朝御飯にしよっか。永愛、幸穂の事お願いできる?」
「うん、任せて。」
お母さんからゆっくりと幸穂を受け取り、自分の腕の中へと包み込む。
最初は抱くのが怖すぎて緊張していたけど、何回も頼まれるうちにこの重さにも慣れる事ができた。
慣れると、赤ちゃんの身体は柔らかくて、暖かくて…幸穂を抱きしめると幸せな気持ちになってくる。
「おはよう、幸穂。」
赤ちゃんって凄いね。
この時々見せてくれる笑顔だけで、こんなにも周りの人を幸せにしてくれるんだから……。