ピピピ……
「ん…あ、体温計…。」
だんだん重くなる身体に耐えかねてソファーに寝転がっていると、脇に挟んでいた体温計が音をたてた。
身体を起こす事なくそれを取り出すと、驚きの数字がでていた。
「…38度…かぁ…」
妊娠中の風邪はとても危ないと聞いた事がある。
どうしよう先生に連絡するべきかな。
でも、そんな事したら飛んで帰ってきちゃうだろうし。
「…寝てれば治るよね。」
全ての家事を後へと回し、ソファーの上で毛布を掛けてから目を閉じた。
身体の外側は寒いのに、内側がすごく熱い。
早く寝て体調を整えようにも、身体がダルくて思うように寝つけない。
今は一人分じゃない身体が悲鳴を上げているような気がする。
苦しい。
熱い。
助けて。
そう言って赤ちゃんが泣いているようで。
いくら我慢強い子でも、やっぱり辛いよね。
大人の私でもこんなに辛いのだから。
「ゴホッゴホッ…」
でも、どうしたらいいのか解らない。
薬局で売っているような風邪薬は飲めないし、病院から出されている薬は貧血を抑えるもので意味がない。
本当は病院に行くのが一番いいんだけど…。
当たり前のように、今の状況では一人で行けるわけがない。
自分から先生に連絡する勇気もないし、まして子供達に助けを求めるわけにはいかない。
考えれば考えるほど、答えはどんどん遠のいていく。
どうしよう…。
このままじゃ赤ちゃんが死んでしまうかもしれない。
風邪で身体が痛めつけられていくのと同時に、心も痛められているよう。
小さかった不安は確実に大きくなっている。
誰かからの連絡を待ちわびるように必死で携帯電話を握りしめる。
身体中から流れ落ちる汗は急激に私の体温を奪い、さらに風邪を悪化させていく。
意識が少しずつ薄れていこうとしたとき、握りしめている携帯が振動しているように感じた。
メールとは違うバイブの仕方。
…これは、電話?
一刻も早く助けを求めようと、ディスプレイを見る間もなく携帯を耳へとあてる。
すると、電話の向こうからは聞きなれた声が聞こえた。
「…お嬢様?あれ、繋がっていますか?」
「う…えだ…?」
聞きなれた声の主は、小さいころから高校生まで私のお世話をしてくれた執事の上田だった。
「えっ…お嬢様?どうかなされたんですか?」
先生の声もそうだけど、小さいころから聞いていた上田の声はすごく安心する。
風邪で弱っている今なんかは聞くだけで涙が出そうになる。
「た…すけて…上田…っっ」
「え?あの…」
「お願、い……赤ちゃんが…」
「お嬢様!!?大丈夫ですか??……お嬢様っ?!」
手から滑り落ちた携帯から上田の声が聞こえる。
必死に携帯を拾おうにも、すでに身体が動かない。
「うえだ……」
助けを求める事ができた安心感からか、私の意識は真っ暗なものへと変わっていった。
『危険な我慢<雄輝side>』
―――――――――………
「冨田先生、お電話です。」
「わかりました。ありがとうございます。」
二時間目の授業を終え職員室で一息ついている時の電話。
こんな時間に電話とは…一体誰からだ?
「お電話変わりました、冨田です。」
「雄輝っ!!お嬢様の様子がおかしいんだ、今直ぐ家に戻りなさい!!」
「…じいちゃん?」
どうゆうことだ?
何を言っている?
「とにかく、早く戻りなさい。何か起きてからじゃ遅いっ」
「――――っっ」
いつもは冷静なじいちゃんがこんなに焦っているという事は、きっとただ事ではないのだろう。
麻椿の様子がおかしいって…麻椿に何が起きているんだ?
朝はいつもと変わりないように見えたのに。
「…バカ麻椿が。」
お前はまた俺に隠して、我慢をしているのか?
通話を終え、受話器を置く。
出来る事なら今すぐ走りだしたい所だが、教師という職業柄そうはいかない。
周りの先生方に迷惑をかける訳にはいかないし、授業を持っている生徒をいきなり置いていく訳にもいかない。
冷静に、かつ迅速に。
しっかりと手順を踏んでから麻椿の元へと向かおう。
座っていた自分の机を離れ、職員室の一番奥にいる教頭先生の元へと歩く。
幸い今日は一週間の中で一番持っている授業が少ない日で、残りは四時間目と六時間目の授業だけ。
前から作ってあったプリントを渡して自習の時間に変えてもらえば、大きな迷惑をかけないで済むはずだ。
「…教頭先生、お話しがあるのですが。」
「珍しいですね、冨田先生が私に話しなんて。どうしました?」
教頭先生は教師歴30年のベテランの方で、微笑む姿からは母親のような温かみを感じられる。
生徒の事も教師の事も思ってくれる、とても優しい先生で、周りからとても慕われている。
「実は、突然の事で申し訳ないんですが今から早退させていただきたいんです。」
「あら、それもまた珍しい事ですね。滅多にお休みもとらないのに。」
「…残りの授業のフォローはしっかりとしておきます。ですからどうかお願いできないでしょうか。」
いきなりの事で簡単に承諾してもらえない事は解っている。
でも、今日だけは絶対に譲れない。
我慢ばかりする麻椿を助けてやれるのは俺にしか出来ないのだから。
「冨田先生。」
焦り始める俺に、落ち着いた教頭先生の声が響く。
その声に教頭先生の顔を見ると、俺の目を一直線に見る姿が目に入った。
俺が話すのを待つかのように、少し微笑んだままジッと…。
教頭先生のこの雰囲気は少し苦手だ。
身体の内側が温かくなってくるみたいで、つい色々な事を話してしまいそうになる。
きっと、こういう所も慕われる理由なんだろうな。
教頭先生の要望に応えるように、閉じていた口を再び開いた。
「妊娠中の妻の体調が悪いようで、連絡が取れない状態にあると先程聞きまして…。ですので、今すぐにでも病院に…」
「冨田先生。」
「…はい。」
「ここ数年お休みをとられていませんよね?」
「え、あ…はい。そうですが。」
いきなりの質問に戸惑いながら答えると、教頭先生の顔がさっきよりも微笑んだような気がした。
「では、今日から数日の間お休みをとって下さい。」
「え、休み…ですか?」
早退ですら許されないと思っていたのに、休みなんて…。
「妊娠中の体調不良は不安が大きいものです。少しでもその不安を和らげてあげれるよう、傍にいてあげて下さい。」
……初めてかもしれない。
教師として越えられないと思った人は。
責める訳でもなく、深く事情を聞き出す訳でもなく。
全てを読み取ったかのように受け入れてくれるなんて…。
俺にも、こんなに大きな包容力があるだろうか。
「後の事は私が引き継ぎます。また何かありましたら連絡して下さい。」
「はい、ありがとうございます。」
「では、もういいですよ。早退を認めます。」
「っっ失礼します!!」
会話の終りに深く頭を下げ、自分の席へと戻る。
大量の仕事と身の周りのものを鞄へと入れ、帰り支度をしていく。
「皆さん、集まっていただけますか。」
すると、教頭先生の声が耳へと入った。
きっと今から俺の事情を説明し、どう穴埋めをするのか話し合うのだろう。
少なくはないが決して多くはない教師の数。
一人抜けても大丈夫なのだろうか。
やっぱり多くのひとに迷惑を……
「冨田先生!!」