誰もが苦痛に感じる朝の満員電車も、ボクは気にならない。


逆にガタゴトと揺れるこの電車に、心臓は小躍りすら覚える。


(今日も会える)


今日のあの人のメイクは?


今日のあの人の髪型は?


会う前から想像するんだ。


あの人の声、あの人の笑顔、それだけが頭を巡るから、この鬱陶しい通勤ラッシュもボクの味方。
───プシュー


開くドアに押し流されるように、人混みと一緒に車外へ。


あとは会社に向かって、いちもくさんに小走りで急ぐ。


春の嵐のような強い風。


(雨、降るかな)


確か天気予報は午後から雨。


湿気で髪が広がるから、今日の彼女の髪はゆるカワにまとめた編み込み、かな。


ビルの谷間をくぐり、一際大きくそびえ立ってるホープ・フジイ商事。


この大手商社がボクの職場。


「「おはようございます」」


「おはよう」


受付嬢と挨拶を交わし、まだ人のまばらなエレベーターへ乗って、9階。


総務のフロアは、まだ人影も少ない。


出社にはまだまだ早いから。


それでもボクは、すぐに彼女の影を探す。
(いた…)


予想通り、長い髪をゆるく束ねた髪の彼女は、部長のデスクを拭いていた。


彼女の出社はいつも早い。


誰も指示したり頼んでもいない朝の雑務を嫌な顔一つせずに、他の職員よりも早く来てこなす彼女は───桜庭 一華(サクラバ イチカ)。


ボクより1つ上の24歳。


色素が薄いのか、茶色く澄んだ瞳に栗色の長い髪、白く透き通った頬、ほんのちょっぴりのせているチークが彼女を少し子供っぽく見せていて。


誰もが好感を抱くその容姿に、人がいない事をいい事に、ボクはしばし彼女を観察する。


デスクの拭き掃除を終えた一華先輩は、給湯室へ。


(次はコーヒーか)


これがボクの朝の挨拶のタイミング。


鞄をデスクに置き、ボクも給湯室へ足を向ける。
「一華先輩?」


「あ、平太くん、おハヨ」


「おはようございます」


「フフッ。今日も朝早いんだね?」


「その方が電車も少し楽ですから」


「うん。ちょっと待っててね?今、コーヒーいれるから」


「ども」


手早くコーヒーの支度をする一華先輩の手の小ささに、いつかその手を握れたら…なんて、考えるけど。


ボクみたいな“平凡太”には、夢のまた夢。
“平凡太”(ヘイボンタ)


これがボクの愛称。


どこにでもいる眼鏡男子、佐藤 平太(サトウ ヘイタ)“平凡太”。


あまりの取り柄のなさに、みんなボクをそう呼ぶ。


ありふれた名字、身長はちょっと高めだけど平均体重、仕事をこなす量も平均並み。


趣味、特技ナシ、英検、漢検も並、パソコンはちょっと得意かな、って思うけど、そんなのこなせる奴は現代人ならザラ。


だから平凡なボクは“平凡太”。


「お砂糖もミルクもナシ、だったよね?」


「ハイ、ありがとうございます」


プラのコーヒーカップを受け取る時にちょっとだけ触れる指先に、胸が高鳴る。


誰にでも見せるこの仕草が。


ボクだけのモノにならないかな…と思う欲が出てきたのは、入社したちょうど1年前の事だ。
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「はじめまして。今日からこちらに配属になりました、佐藤 平太です」


同期3人と入社初日の挨拶。


午前中いっぱい係長に一通りの指導をもらったボクを含め3人の新入社員は、固い気持ちを張ったまま、それぞれのデスクで昼休憩兼係長の一語一句をメモ取りしながらリピート。


(うまく馴染めるかな…)


回りの忙しさに怖じ気づきながら、緊張のせいかコンビニで買ってあったサンドイッチも喉に入らず、コーヒー牛乳だけでボーッと時間を潰してた。