私は筆を緩やかに走らせながら、ほんの一週間前のことをぼんやり思い出した。

 桜の木の下にたたずんでいた、名前も知らない人。

 私はなぜだか彼の姿を忘れられないでいた。

 校舎の窓越しに上から見かけただけ。

 名前も知らないし顔だって見てない。

 それなのに、こんなに気になっているのは何でだろう?

 私は桜の根元に筆を立てかけて置いた。

 ふう、と一息つきながら自分の描いたものを見返してみる。

 何の変哲もない校内の風景だ。

 私が見ている景色よりもいくらか淡い塗り。

 描き出した学校は、本物よりも優しく思えた。

 ――今日はこのくらいにしておこうかな。

 遠くにある時計塔の針が、もうじき昼休みの終わりを告げるだろう。

 私は丁寧に紙をしまうと、キャンパスを片付ける。

 立ち上がろうとしたとき、何かが勢いよく私の膝に飛びついてきた。

「きゃあ!」

 黒い物体。けむくじゃらで、とてもこそばい。

 猫、だった。

 呆気にとられた私の頬を、ざらついた舌がペロペロとなめる。

 ずいぶん人懐っこいものだ。

 まだ子猫らしく、ぬいぐるみのように小さい。