「太夫は、また今日もお行きにならないんでありんすかねぇ?最近はちっとも座敷に上がられない。」

「太夫はきっと、あのお客がお嫌いなのでありんすよ。」


何の変哲もない
いつもの夕暮れ。

今夜は中秋の名月だという。


御影屋の看板、桜太夫は、銀キセルを片手に禿(かむろ)達の勝手な会話に耳を傾けていた。


「でも、あのお客はおいらにも菓子をわけてくれたでありんす。」

「確かに良い客ではありんすなぁ。でも、太夫が嫌だってお言いなら、おいらだって嫌いでありんすよ。」

椿と楓は
太夫の側で、いつもこうして、気ままに話をしている。

本来、吉原では客の悪口を一切言ってはならない。

だが太夫は違う。
普通の女朗ではないのだ。人並み外れた悲しみと努力の末に手に入れた、絶対的な地位なのだから。

日頃から愚痴をこぼすし、嫌な客には容赦をしない。嫌なもんは嫌だ。

お金を払ってわざわざ会いに来たって客に対しても、座敷に上がるのが嫌だったら行きはしない。

彼女にとってはそれが当然なのであり、これを教育方針にもしている。


禿は花魅の付き人だ。

身の回りの世話をしたり、花魅の立ち居振る舞いを側で見て、遊女としての勉強をしたりする。


だから椿と楓も、もちろん桜太夫を見て育つ。


つまりは
桜太夫が生きるように、この子達も育つ…という寸法だ。

気ままな話も愚痴も
良い子に育っている証。

桜太夫は、彼女等をむやみに諌めたりはしない主義だ。



しかし…

桜太夫「椿、楓、そのお客の悪口はおやめなんし。他はともかく、あのお人は、あちきの大事なお客様だえ。」

今夜は違った。



今夜桜太夫が座敷に上がることを躊躇している理由は、お客が気にいらぬためではなかった。

今夜の客は、祇園で茶屋を営む主人で、桜太夫も気を許す相手だ。

名は菊屋 彦五郎。

毎回京での珍しい事件を話してくれたり、祇園界隈で流行りの小物を土産に持ってきてくれたりと

なかなか愉快な客である。

けれども、その彼が半月前に御影屋にもってきたのは とてつもなく厄介な話題であったのだ。