まだ、恋には届かない。

眉も目も、真ん中にきゅっと寄っているような顔で、亜紀は少しだけ唇を震わせていた。
そんな亜紀を見て町田が悪いと頭を下げ、大丈夫かと、もう一度、亜紀の目を覗き込んだ。
亜紀は、こくんと小さく頷き、自分を落ち着かせようと大きく息を吸い込んだ。

「足首だけか、あと痛むところ? 腰は?」
「尻餅、つくみたいに落ちたから、痣くらいにはなってるかも」
「立ってると腰が痛いとか、背中が痛いとかは、ないな?」
「はい」

ようやく、声が落ち着いてきた亜紀に、野田が何があったと、改めて穏やかな口調で尋ねてきた。

「お茶淹れて、上り始めたら、部長の怒っている声が聞こえて。なんだろうって上を見たら、江藤くんが、今日は休むだの何だの言って飛び出してきて、前も見ないで、階段下りてきて。避ける間もなく、どんって」
「ダメです。逃げました。あいつ。信じられねえ」

額に汗を浮かべて戻ってきた北岡が、野木にそう告げた。
一緒に追いかけて言った社員たちも口々に「なんなんだよ、あいつ」と腹ただしげに言い合いながら、事務所に戻っていった。

「会社の近くまで、友だちか誰かの車で来てたみたいで、そいつが待ってるとこまで駆けてって、車に乗ってちゃいましたよ。最初っから、今日はサボるつもりだったんじゃないですか、あいつ。何しに会社に来たんだか」

その言葉を聞き、野田と町田は忌々しげなため息を吐き、亜紀は痛いなあと零した。
町田の運転で亜紀は病院まで行き、診断書を出して貰って会社に戻った。
町田はずっと、亜紀の側から離れなかった。

火傷は、しばらくは痛みと腫れがあるだろうが、痕には残らないだろうと言われ、臀部と太ももの裏などに、数箇所の打撲が見つかった。
病院についたころには、階段の角などに打ち据えたところは、青く内出血していた。
足首の捻挫が、症状としては一番ひどいらしい。U字型のギプスを装着して、包帯を巻きつけて固定することになった。

包帯が看護士の手でグルグル巻きになったところで、付き添っていた町田が「ほれ」と亜紀が履いてきたビニール製のシューズカバーを差し出した。
用意がいいと驚く看護士に「建築屋なんで、常備品なんですよ」と答えながら、町田は鼻の下を伸ばしていた。

町田のデレっとした顔に、確かに、町田さんが好きそうな美人さんだわと、亜紀はその顔を眺めていた。





「折れてたんですか?」

北岡が亜紀の足を見て目を丸くする。

「ううん。捻挫。でも、3週間くらい、固定したほうがいいって」
「それって、けっこう、重症ですよね?」
「みたいね。看護士さんが美人で、町田さんの鼻の下がでれーって」
「うるせっ」「あはは」

町田の怒り声と、北岡の笑い声が被る。
様子を見にきた部長と課長に、町田があれこれと説明していた。
野田もその話を一緒に聞いて、渋い顔で頷いていた。

「災難だったな」

部長が亜紀にそう声をかけ、今日は帰って休めと告げた。
「松本が今抱えてる案件、まだ時間はあるんだろう」
「ええ。仕事自体、かなり前倒しで進めてあるんで、ぜんぜん余裕ですよ」
「でも、午後は町田さんの仕事、手伝わないと」
「バカか。こっちは大丈夫だよ」
「町田、悪いが送ってやってくれ」
「え。いや、ほんとに。帰るのはタクシーでもなんでも」
「あのさっ」

あーっ 面倒くせーっ
町田は髪をガシガシと掻きながら亜紀に言い諭す。
野田たちは、そんな町田に苦笑していた。

「怪我してるときくらい、少しは人を頼れよっ それ、お前の一番嫌いなとこっ 俺」
「まーちだ。大声出すな。松本、送ってもらえ、な?」

町田の大きな声に、肩をぴくんと小さく跳ね上げた亜紀に、野田は静かにそう声をかけた。
「ありがとうございました。助かりました」

亜紀が1人で暮らしているアパートは、市内バスで30分ほどの場所にある。
駅でバスを乗り継がなければならないため、時間がかかった。
バスのような遠回りルートでなければ、車なら20分もかからずに着く。
自転車で通うことも考えたが、残業も多い仕事で帰宅が夜中になることも珍しくない。
会社周辺や自宅周辺は、夜中ともなると人通りもなくなる場所なので、結局、バス通勤を選ぶことにした。

バスがなくなったときは、タクシーや、野田が一緒のときは、野田の通勤路に亜紀の家があるので送ってもらっている。
車通勤も考えたが、維持費など車にかかる費用を考えると、タクシーを使ったほうが安上がりだいう計算になり、バスでいいと割り切った。

駅からは離れているが、近くに大型スーパーもあり、生活に困ることはなかった。

1階と2階で外壁の色が違うツートンカラーのアパートは、1LDK プラス ロフト付きで、東側に大きめな出窓のある角部屋という条件が気に入って、入居を決めた物件だった。

明日から階段の上り下りがちょっと大変そうと、町田の手を借りながら2階にある部屋の前まで来て、亜紀はさてどうしようと考えんでしまった。


お茶ぐらい勧めるべきかな?
まあ、掃除くらいはしてあるけど。


数回の瞬きをする時間、考えて、とりあえず「お茶でも」と、亜紀は口にしてみた。

「あー。いいよ。会社戻るよ。今日はゆっくり休めって」

あっさりと町田はそう言って「無理するなよ」と言葉を続けて、じゃあなと踵を返し、歩き出した。
その背を横目で眺めながら、家の鍵を開けていると、町田の足が止まったことに気付いた。
なんだろうと首を傾げると、振り返った町田は少しバツの悪そうな顔をしていた。
何でもズケズケという町田にしては珍しく、少し言い淀むように言葉を吐いた。

「さっき。悪かったな。大きな声、出した」
「町田さんの声が大きいのは、いつものことですから」

言われたことも事実だし。
町田が何を詫びているのか、すぐにそれを察した亜紀は、いつもと変わらない軽い口調でそう言って、くすりと笑った。

町田のこういう顔を見るのは、珍しかった。
神妙に謝ると、怒られている子どもみたいな顔になるのかと、亜紀は笑ってしまった。

その笑みに、町田は面白くなさそうに舌を鳴らして、今度こそ会社に戻ろうと踵を返しかけて、またその足が止まった。

「どうしたんですか?」

今度は、髪をガシガシと掻きながら、少し困ったような顔で亜紀を見た。

「悪い。……トイレ、借りていいか?」

ダメと言うわけにもいかないじゃないですかと、亜紀は笑いながら玄関のドアを開け、町田を招きいれた。


玄関を入ってすぐに、トイレとバスルームがあり、そのまま短い廊下を突き進むと、その奥にリヒングに続くドアがあった。

町田がトイレに入っている間に、とりあえず、亜紀はお茶の用意を始めた。
今朝の騒動で、今日はまだコーヒーすら飲んでいないことを思い出し、亜紀はコーヒーメーカーにコーヒー豆と水を入れて電源を入れた。
亜紀が家でコーヒーを淹れて飲むのは、休みの日ぐらいだった。

インスタントのほうが手軽だが、近くにコーヒー豆の焙煎をしている個人店舗があった。
通りかかったとき、思い切って尋ねてみたら、個人のお客様にも100グラムから小売してますよと、少し年配の店主が笑いながらそう教えてくれたので、週末は家に引きこもると決めたときには足を運んで、店主のお薦めを試飲させてもらい、100グラムの豆を挽いてもらって、買い求めていた。

「ん? コーヒーか?」

リビングに入ってくるなり、町田はその香りに鼻をひくつかせた。
その顔が見る間に綻んでいくのが、亜紀にも判った。
インスタントではないコーヒーの香りに、勝手に頬が緩み出した。そんな感じだった。


ちょろいぜ、
町田!
むふふふふ。


やっぱり、コーヒーで正解だったと、胸の内では得意がった。

「今、淹れてますから」

まだ出したままになっていた、コーヒー豆の入った袋を手にした町田は、袋口に鼻を近づけると、クンクンは犬のようにその香りを嗅いでいた。

「いい豆、使ってんな」
「犬ですか、もう」

呆れている亜紀など気に見もせず、鼻の穴をこれでもかと広げて、町田はその香りを吸い込んでいた。
「どこの店のだ?」
「この近くに個人店舗なんですけど、焙煎専門の店があるんですよ」

亜紀はそう言いながら、簡単に道順を説明した。町田の顔は、すでに店を訪ねることを決めているような顔だった。

「最近、このあたりでも増えたよな。そういう専門店やる人が。何軒か行ったんだけどな、豆って、同じ豆でも焙煎する人によって微妙に違うだろ」
「だろと言われても」

語り出した町田に、亜紀は苦笑するしかなかった。

「私はその店しか知りませんし。そこのが気に入ったから、わざわざ他で買うこともないし」
「いいなあ。お前。1軒目でビンゴじゃねえか。なかなか、自分の好みに合うとこなくてさ」

ここ、俺も気に入るかもしれねえ。
部屋に充満し始めた香りに、眦が下がりっぱなしその顔を見て、亜紀は淹れたてのコーヒーを来客用にカップに注いだ。

「どうぞ」

2人の間にある腰ぐらいの高さの収納棚の上に、亜紀はコーヒーを注いだ大きなマガカップを置いた。

キッチン、ダイニング、リビングが一続きになっているI型の部屋だった。
壁面にあるキッチンの背後に、食器棚を兼ねた、その細長い収納棚が置いてある。
キッチンと棚の間は、人が2人くらい行き来できるくらいのスペースがあり、調味料や食器はそちら側から取れるようになっていた。
その反対側には、背もたれのあるイスとスツールが、それぞれ1脚ずつ置いてあった。
テーブルを兼ねているらしいと理解した町田は、カップが置かれた位置にある背もたれ付きのイスに腰を下ろした。
「サンキュ。あー。やっとコーヒーにありつけた」

そう言いながら、さっそくとばかりに一口、くいっとコーヒーを飲んだ町田は、「あー。酸味がいいな、これ」と、その顔を眺めていた亜紀が、まだ緩める余裕があったのかと驚くほど、表情を和ませた。

そうして、コーヒーを啜り出した町田は、背後を振り返り部屋を見渡した。

テーブル変わりの収納棚を初め、家具はフローリングの床よりやや薄い色合いの木目調の同じシリーズのもので統一されて、開けられ纏まっているカーテンは、アイボリーの生地に花のシルエットがライトブルーで描かれているようだった。
2人用サイズの小さなローテーブルが、リビングの真ん中に置かれ、ベランダに続く窓の近くに、葉を沢山茂らせたパキラの木が置いてあった。

物が少ない。
そんな印象の部屋だった。


「ジロジロ観察するの、やめてくれませんか?」

空いているスツールを引き寄せ、町田の斜め向かいに座った亜紀は、少し拗ねたような顔で町田を睨んでいた。

悪いと言いながら、まあ、職業病だと悪びれることなく明子に告げた。

「もっと、いろいろ、ゴチャゴチャしてる部屋かと思ってたよ。例のヒーロー戦隊のヤローのポスターだの張りまくってたり、おもちゃみたいなのが溢れてたり。机の上にいろいろ置くだろ、お前」

某キャラクター物の食玩を集めている亜紀の机は、とてもカラフルなものだった。
全部を集めるとパン屋の店内になったり、ケーキ屋になったりするそれの最新シリーズは、全て集めると遊園地になるようだった。
野田などは、時々、土産だと言って、昼ご飯を食べに外に出た帰りに寄ったコンビニで、それを買ってきたりすることがあった。

手渡されたそれに、子どものような顔で喜ぶ亜紀を見て、ホントにガキだな、お前はと、町田はいつも呆れ笑いを浮かべていた。

「アレ、色の組み合わせとか、いろいろ参考になるんですっ 煮詰まったときとか、見てるといろいろ浮かんでくるんですからねっ」
「ダメとは言ってねえだろ。片付けろなんて言ったことあるかよ、俺」

町田にそう言われ、亜紀は唇とタコのように突き出した。

「ないです。ごめんなさい」
「判ればいい。お前、上で寝てるのか?」

町田がロフトに上がるための階段を見て、不安そうな顔をした。

「そうなんですよね。まあ、足が治るまでは、来客用の布団が一組、廊下の収納棚に入ってるんで下で休みます」
「そうしろ。その足なんだからさ」
「どちらかって言うと、お風呂のほうが面倒ですよ。濡らさないようにしなきゃならないし」

亜紀のその一言で、町田が一瞬固まったように、亜紀には見えた。

「どうしたんですか?」

一瞬、様子の変わった町田を、亜紀は不思議そうに眺めていた。町田はなんでもねえよと、肩を竦めた。

「彼氏にでも来てもらえよ」
「いないの知ってて。ホントにいじわるですねっ」

ふん、と。
鼻を鳴らす亜紀に、町田は逆にギョっとした顔になった。

まだ、恋には届かない。

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