うふふ。
カレンダーに丸をつけて、松本亜紀(まつもと あき)は笑った。
念願の舞台チケットを、真夜中、ひたすら電話を掛けまくって手に入れた。
これを喜ばずにいられるものかと、亜紀は顔をにやつかせ続けた。
喜びの笑みを浮かべずにはいられない。
そんな心境だった。
コツンと、後ろから頭を小突かれて痛いなあとこぼしつつ顔を上げると、上司の町田弘一(まちだ こういち)がそこにいて、うす気味悪そうに亜紀を見ていた。
上司といっても、亜紀とは同期で入社した男である。
ただし、明子は専門卒で。
町田は大卒で。
だから、2学年分の年の差がある。
「朝から、気色悪い笑い方してんじゃねえよ」
小突かれた後頭部を摩りながら、余計なお世話ですよと内心でこっそりと毒づくものの「おはようございます」と、にこやかな声で朝の挨拶を返した。
「なんだ? 来年の2月の土曜なんかに丸つけて」
「予定があるから。丸をつけんですよ。何か問題ありますか?」
「問題あるとは言ってねえだろ。バカ。なんだって聞いただけだろ」
「まーちだー。まつもとー。朝からうるせーぞー」
机で突っ伏すように寝ていた係長の野田健治(のだ けんじ)が、のっそりと体を起こして、2人を窘めた。
昨夜は深夜まで発注ミスなどという不始末を仕出かした新人の尻拭い作業で残業して、挙げ句終電を逃した野田は、そのまま朝まで仕事をしていたらしい。
「はーい。すいませーん」
全く心のこもっていない亜紀の口先だけの謝罪に、野田は手元にあった消しゴムを亜紀に向かって投げつけた。
「とにかく。この日は予定があるので、何があっても仕事はしません。会社が火事でも飛んできません」
さらりと、とんでもない例えを口にする亜紀に、町田は呆れた口調で亜紀を叱った。
「バカ。縁起でもねえこと言うなっ」
「会社が燃えてたら、ボクも来ません。来てもしょうがないし」
隣に座っている後輩の北岡修(きたおか しゅう)が、松本さんはホントに面白いなあと楽しそうに笑いながら、亜紀の言葉に同意した。
「なんがあるんだ、その日」
亜紀を胡乱な目つきで眺めながらの町田の問いかけに、亜紀は目を三角にして笑う。
「教えません。いいことです。うふふふふ」
「お前がそういう顔してるときは、大抵、アレだ。ひょろっとしたなんとかってヤツのおっかけだ」
これこれこれ。
そう言いながら、亜紀の卓上カレンダーの左半分を占めている写真を、指でペシペシと弾く町田に、亜紀は悲鳴を上げてその手を叩き払う。
「坂木くんですっ 坂木慎(さかき しん)くんです。なんとかなんて失礼な名前つけないでくださいっ なんてことするんですかっ きれいな顔に傷でもついたら」
「うるせっ バカ。たかが写真に一々喚くな」
ぷんと膨れる亜紀に、町田はけっと息を吐いた。
「いい年して。いつまで、そんなおっかけなんてしてるかねえ」
「ほっといてください」
「だから、彼氏の1人もできねえんだよ、お前は」
「いりませんから」
「なあ。うるせーって言ったよな。俺」
また始まったのかと、野田はうんざりしたように2人を眺めていた。
こと、仕事においては、町田と亜紀はいいコンビなのだが、仕事抜きとなると、決していいコンビではない。
仲が悪いというわけではないのだが、ケンカなのか、じゃれ合いなのかよく判らない、くだらない言い争いをよくする。
延々と、誰かが止めないと、それこそ互いに声を枯らすまで続ける。
最初の内こそは笑って聞いている周囲の者たちが、しまいには迷惑顔で顔をしかめてしまうというケンカを繰り広げる、社内の名物と化している迷惑コンビだった。
その始まりは、今から7年前。2人がまだ新入社員だったところの飲み会に遡る。
亜紀は酒に強い。
『私、今までつぶれたことないですよ』と言う言葉を聞いた先輩たちが、ならばと亜紀に飲ませ続け、挙げ句、全員が返り討ちにあって酔いつぶれた。
町田も面白がって飲ませ、つぶれた1人だ。
結局、亜紀はそのまま1人で朝まで飲み続け、翌朝、飲み会に参加した男子社員たちが二日酔いでぐったりしているにも関わらず、亜紀はけろっとして顔で仕事をしていた。
その様子に、化物だなと町田はぼやき、それを聞いた亜紀は、男のくせにだらしないと町田を笑い、それからなくとなく、お互いがお互いを、異性のカテゴリーから外してしまった。
亜紀にとって町田は同期の仕事仲間。
町田にとって亜紀は同期の仕事仲間。
そういう関係になった。
2年前からは、そこに上司と部下という名詞も付属された。
互いに性を意識していないから、大抵のことはズケズケと明け透けに言いあう。
他の者に言ったら、セクハラだパワハラだと言われてしまいそうなことでも、町田は亜紀に対してだけは、そんなことを気にすることもなく言う。
対する亜紀も負けてはいない。それにきっちり応戦して、ときには町田をやり込める。男のプライドとやらが傷つこうがなんだろうが、構うことなく物を言う。
だから、言い争いが絶えない。
だが、仕事になると話は別だ。
迷惑コンビは名コンビへと変貌する。
町田は『こいつと組んだ仕事は負ける気がしない』と言い、亜紀は『町田さんとなら最高の仕事ができる』と言う。その言葉通り、今のところ2人で組んだ仕事に黒星はない。ほぼ本命と噂されている他社と競合しているコンペでも、2人は必ず勝ちを取ってきた。
野田あたりにしてみれば、うるさいこと極まりなく、できることならば引き離しておきたいところなのだが、仕事で出す結果が結果なだけに引き離すこともできず、煩くなることにも目をつぶってまで組ませてしまうのであった。
仕事であれば、お互い自分に非があると思えば素直に謝罪し、それに対して遺恨を残すことは絶対にない。
客の喜ぶ顔が見られる仕事がしたい。
そんな気持ちを共有して挑む仕事だから、仕事のときは最強の名コンビになれた。
ビジネスはビジネス。
プライベートはプライベート。
お互いにそう割り切ることで、うまくいっている関係だと、内心では理解している。
彼らの勤めている会社は、建築資材の販売や、住宅や店舗の内外装を手がける建設会社だ。
創業は明治にまで遡り、金物屋がその始まりと、社歴にはある。
もともと、建築資材を取り扱っていたのだが、20年ほど前から建築設計自体も請け負うようになった。
亜紀や町田は建築設計士として、ここで働いている。
正確に言えば、亜紀は設計補助として働いている。
大学の建築科を卒業した町田は、入社1年目で2級建築士の試験を受けて資格を取り、4年間の実務を経験すると、すぐに1級建築士の試験も受けて、その資格を取った。
けれど、亜紀は2級建築士の資格すらまだない。
受験資格はある。
専門学校では建築CGデザインを勉強してきた。
卒業と同時に、町田同様、2級建築士を受験する資格は得ている。
CADによる設計しかできない者も多い中、亜紀は手書きでもきっちりと図面を引ける。
だからこそなのか、町田や野田には、毎年のように試験を受けろと亜紀は言われている。
でも、そこまでの意欲は亜紀にはなかった。
過去には、ひそかにこっそりと、試験勉強をしていた時期もあった。
けれど、結局、試験は受けていない。
町田が亜紀に対して、1番厳しい言葉をかけるときは、試験がらみの話がでたときだった。
朝礼が終わると、亜紀は来週に予定しているプレゼンに向けてのプレゼンボートのチェックに取り掛かった。
平面図や断面図と並べて、細部を3D化したCGを作成し添えてある。
そのほとんどは、亜紀が手がけた。
依頼主との打ち合わせの際、インテリアなどの好みも、十分にリサーチしておいた。
こんな壁で。
こんなカーテンで。
こんな床で。
こんな照明で。
施主たちの頭の中には、これからできる素敵な我が家がぎっしりと、漠然としたイメージで詰まっている。
それをどう表現して、彼らに楽しい気持ちになってもらうか。
それを考えるだけで、亜紀はこの仕事が楽しくなった。
昔ながらの平屋の大きな家を、息子の結婚を機に2世帯住宅にするのだと、施主から聞かされた。
障子や襖を外せば、畳にして100畳越える広さになる座敷ができあがる家だった。
私のときは、ここで結婚式挙げたんですよと、施主の妻は懐かしそうに話していた。
その屋敷を総2階の2世帯住宅にしたいらしい。
打ち合わせを繰り返し、要望を聞き取り、亜紀はそれを図面に引き起こした。
当然ながら、彼らは同業他社にも見積もりは依頼している。
どこも必死に取りに来るだろう。
まあ。
町田さんと一緒だしね。
負けないでしょ。
そんなことを考えて、既にショボショボと疲れ始めている目に目薬を差し、瞬きを繰り返しながら亜紀は何気に時計を見た。