「終わった…」

 今日ゆかりが休んだせいで、幸枝一人で事務所を回した。

 もう一人のパートさんは、風邪を理由に休んでしまったのだ。

 外を見ると、すでに真っ暗で、事務所の時計は、夜の8時を指していて、幸枝は首を左右に振った。
 『ふぅ〜疲れた…今日に限って、何で忙しかったんだろっ』

 幸枝は給湯室に、自分の湯呑みと部長のマグカップを片付けに行った。

 「川口さん!まだいたの?」

 ガチャガチャとドアを開ける音と同時に、部長の声が聞こえ、幸枝は驚いた。

 「はっ、はいっ。今、帰るところです」

 一瞬、声が裏返ってしまった。

 部長がカツカツと、幸枝に向かって歩きながら

 「悪かったね、遅くまで…電話に出なかったから、てっきり帰ったかと思って、ゆっくりしてきちゃったよ。ごめん」

 「あ、はい。大丈夫です」

 そう返事をしながら振り向いた時には、部長が目の前に立っていた。

 「あっ!(びっくりした〜)」

 「良かったら、お詫びとお礼にメシでも奢るよ。居酒屋でもどう?」

 「え…?」

 「旦那さん、いるんだよね?怒られちゃうかな?」
 「えっと…それは…連絡して、聞いてみます。けど…いいんですか?」

 部長は左目をウインクさせながら、右手の親指を立ててグーとさせた。
 
 幸枝は部長の脇を、そそくさっと通り過ぎバックの中から携帯を取り出した。

 リダイアルボタンをプッシュし、夫にコールする。

 『あれっ?出ない…』

 幸枝は、自宅に電話し直した。

 ワンコール、ツーコール…なかなか出ない電話に、イラッとした。

 「どうした?」

 「それが、誰も出ないんです…」

 携帯を切ると、メールと着信のお知らせがある事に気づいた。

 それは、夫からのメールだった。

 (今日、お袋の家に子供達は泊まらせたから。俺は、会社の飲み会で遅くなる)

 『なーんだ…そっか』 
 幸枝は携帯をバックにしまい、振り返った。

 「大丈夫です。連れてって貰っていいですか?」

 「よし!じゃあ、行こう!」

 部長は椅子に掛けてあったコートを左腕に掛ける様に持ち、幸枝の背中を叩きながら、先に入口に向かって歩いて行った。

 幸枝もすぐバックを持ち、部長に続いた。

 「あっ、電気消さないと…」

 部長が振り返ると、幸枝とぶつかった。

 「きゃっ…す、すいません」

 「ごめん、大丈夫?」

 部長が幸枝の顔を覗き込む。

ドキッ…

 目が合った。
幸枝は恥ずかしくなって、目を逸らした。

 「だ、大丈夫です。行きましょう」

 「じゃあ、消すよ〜」

 パチンと音が鳴り、事務所は真っ暗になった。