あの時彼女は、別れを告げた。



『ありがとう、バイバイ』




胸が押し潰されそうだった。
急に息苦しくなって。
目の前が歪んだ。
気が付けば込み上げてくる何かに呑まれ、叫びに近い声で狂ったように彼女の名前を呼んでいた。



『美月ちゃん!!!』



だけど彼女は止まってはくれなかった。
でもこの時走って追いかけていれば、何かが変わっていたのだろう。
俺の足は情けなく地面に根を貼り、動こうとはしなかった。
寒さじゃない何かに震えが生まれ、身体が震えを伴う。

どうして彼女は泣いていたのだろう。
どうして彼女は行ってしまったのだろう。

後になっては生まれる疑問。
この疑問はきっと後悔が含まれているに違いない。

口元に広がる白い息。
それが次第にに大きくなり、どんどん出てくる。
それは自分が動揺しているという証拠。

「……っ…」

冷たいものを溶かすように、頬を流れる暖かい涙。
泣くだなんて情けないことくらいわかっている。

………だけど。
悔しくて仕方がなかった。
心の中にすっぽりと穴が開いたような、何かが足りなくなる。

「っ」

ポタリと垂れた涙。
その涙は俺の手をすり抜け地面に落ちていった。
それは俺に時間がないことを教える。

だけど、焦る理由が見つからなかった。

俺は微かに滲む涙を拭う。
そして自分の透けた手をただじっと見つめる。

直に、俺は消える。
今までの記憶も全部。
昔のあの記憶も、美月ちゃんと過ごした記憶も。
この無残な記憶の断片と共に消え行くのだろうか。

ならば。
早く、消えてしまいたかった。

グラグラと揺らぐ視界。
朦朧としてきた意識が俺を呑もうとした。


……まただ。


最近、頻繁に起こる目眩に似た現象。
これが起こる時は大抵身体のどこかしら消えかかるのだ。


……もう、寝てしまおう。


俺は重たい足取りで、家へと向かった。
家に入ると玄関で乱暴に下駄を脱ぎ捨て、風呂で身体を軽く流し、浴衣が乱れたまま布団に入り込んだ。