先輩と出会った頃、僕には先輩がなんでもできる完璧な人に見えてたんだ。
ちょうどあの頃の僕は、自分にはなんにもないって、なんにもなくなったって、思っていて。
先輩が、太陽みたいに眩しかった。
僕は、先輩のこと、なんにもわかっていなかった。
僕が高2だったその夏は、連日のニュースで「猛暑」だとか「熱中症」だとか騒がれていた、暑い暑い夏だった。
一学期の終業式が終わり、担任の長い話が終わると、クラスメートたちは浮かれた様子で、みんなでカラオケに行こうと言いあっていた。
「ユウトも行くよな?」
いきなり聞いてきたのは、アキラだった。
アキラは僕がみんなとのカラオケに行くと決めつけているみたいだったが、正直、僕は今、みんなとわいわい騒ぎたいような気分じゃなかった。
黙って苦笑いしていると、アキラは少し真剣な顔をして、僕を説得してきた。
「ユウト、まあ、あんなことがあったばっかだし、騒ぎたい気分じゃないのはわかる。けど、せっかく一学期最後の日なんだしさ...」
アキラが言い終わらないうちに、僕は後ろから誰かに肩を叩かれ、振り向いた。
「ユウトくんもアキラくんも行くでしょ?」
きらきらした笑顔でそう言ってきたのは、エリだ。
「もちろん!二人とも行く!」
アキラは勝手に返事をすると、こっちを向いてニヤッと笑った。
...完全にアキラの思い通りになってしまった。
...けど、エリにも誘われたなら、行ってもいいか、と僕は思った。
エリはもう僕たちのほうは向いておらず、女友達同士でキャーキャーはしゃいでいる。
そんなエリの横顔は、僕にはそこらへんのアイドルよりも可愛く見えた。
僕は...エリのことが少し好きだった。
クラスメートのみんなで、と言っても、何人か帰った奴らもいたので、結局10人くらいで学校近くのカラオケ屋に行くことになった。
最初は乗り気じゃなかったものの、みんなで喋りながら街を歩いていると、それなりに楽しい気分になってきた。
「みんなー!俺今金欠だからさー!安い店にしてくれよなー!」
アキラが言うと、エリと仲良しのマイミが、
「あたし、ベリーズの半額券持ってるよ!」
と得意げに叫んだ。
ベリーズというのは、今僕たちがいる場所から歩いてすぐのところにチェーン店があるカラオケ屋だ。
「半額ってすごい!マイミ、なんでそんな券持ってるの?」
エリが、元から大きい瞳をもっと大きくしながら聞いた。
「あたしのお兄ちゃんがベリーズでバイトしてて、お兄ちゃんのコネでもらったんだあー」
マイミは財布から半額券を取り出してニコニコしている。
半額券があるならベリーズに行くしかない、とみんなの意見が一致した。
ベリーズに着くと、受付は僕たちみたいな高校生たちでいっぱいだった。
「みんな終業式の後はカラオケしたくなるのかなー?」
そう言って僕に笑いかけるエリの可愛さに、僕はくらくらしてしまった。
「じゃあ、あたし並んで受付してくるね!」
半額券を握りしめたマイミが言うと、エリもひょこひょことついて行った。
「俺たちも行こうぜっ」
アキラに腕を掴まれ、僕も一緒に受付の列に並ぶことになった。
他のみんなは、受付スペースの手前にあるソファに座って、お喋りしたりケータイをいじったりして待っているみたいだ。
僕、アキラ、エリ、マイミ、で他愛ない話をしていると、すぐに受付の順番が回ってきた。
僕は、アキラとのお喋りに夢中で...、いや、本当は隣にいるエリの顔をチラ見するのに夢中で、受付はマイミに任せておこう、と思っていた。
すると、いきなりマイミが騒ぎだした。
「ど、どうしよう!この券、期限切れてるって!」
「なんだよそれマイミー!」
金欠のアキラは本気で残念そうな声を出す。
「あーどうしよう、今日お兄ちゃんバイト入ってないし!」
マイミが泣きそうな声で叫ぶと、受付の店員が、声をかけてきた。
「ここのバイトの誰かの、妹さんなの?」
僕はその時初めて受付のほうを見た。
その店員は、困ったような微笑んでるような顔をして、僕たちを見ていた。
「あ、あの、田島ケンイチの、妹なんですけど」
元気キャラのマイミが珍しくおどおどしながら答えると、店員はにっこり笑って、僕たちに囁いてきた。
「田島さんの妹さんなら、おまけで半額にしてあげるよ。他の子には、内緒にしてね?」
「えっ、いいんですかあ!」
さっきまでこの世の終わりみたいになっていたマイミが、パッと笑顔になった。
「うん、でも内緒にしてね、ばれたら怒られるから」
店員が言うと、アキラは「お姉さん!あなた神ですか!」とか言って興奮しだした。
よかったな、金欠アキラ。
そんなわけで、僕たちは案内された部屋に入室し、みんなでカラオケを楽しみはじめた。
一曲目はテンションMAXのアキラが歌い、続いてマイミ、そして女子たちが次々に曲を入れて歌っている。男子たちは主に叫んだり踊ったりしてるばっかりで、ちゃんと歌う奴はほとんどいない。
僕は、みんなと一緒に騒いでいたけど、やっぱり心の底からは楽しめていなかった。
あのことを、ずっと考えていた。
後悔、と呼ぶにはもっとわがままな感情。
ふと、笑っているのが苦しくなった僕は、トイレに行くふりをして部屋を出た。
ドアを閉めると、みんなの楽しそうな声と明るい音楽から、僕だけ切り離されたみたいに感じた。たった一枚のドアを挟んだだけだけど。
部屋の前に立っているのも変なので、僕は受付スペース手前のソファまで行くことにした。
ソファに座ってぼーっとしていると、さっきの店員が、何やらポスターらしきものを壁に貼ろうとしているのが見えた。
...が、明らかに右上がりに貼ろうとしている。店員は大きなポスターを必死に押さえながら画びょうを刺そうとしていて、全体の傾きは見えていないみたいだ。
「あの、すげえ傾いてますよ」
なんとなく口に出てしまった。
店員はくるっと振り向くと、「このポスター?」と聞いてくる。
その顔が、なんだかあまりに悲しそうな表情で、僕は思わず笑ってしまった。
「はい、すごい傾きです...」
僕が笑いながら言うと、店員はわざとらしいため息をついて、
「じゃあ、後ろから見ててね!」
と命令してきた。
僕、客なんだけど。
まあ、ポスターの傾きを見るくらいは全然手伝うけど。
なんと言っても、この店員のおかげで、僕たちは半額にしてもらえたんだから。
「あー、あとちょっと右を下に...、あ、下げすぎっす」
僕が適当に指示を出すと、店員はちょこちょこと傾きをずらし、すぐにポスターを真っ直ぐ貼ることができた。
「ありがとう、えーと...」
店員は少し考えて、
「田島さんの妹さんのお連れさん!」
と続けた。
「長っ!」
思わずつっこむと、店員はあははっと明るく笑った。
その笑顔が、エリの笑顔とはまた違う、少し大人な、魅力的な笑顔だった。
「あ、あの、お姉さんって何歳なんですか?」
僕はなぜかいきなり年齢を聞いてしまった。
「え、あたしの?」
店員は一瞬目を丸くすると、すぐにニヤッと笑って、
「16歳から35歳くらい」
と答えた。
「え?」
よくわからない返答に僕が混乱していると、店員は今貼ったばかりのポスターを指差した。
「これこれ」
そこには<16〜35歳くらいまでの男女>と、書いてある。
よく見れば、そのポスターはアルバイト募集のためのポスターだった。そして16〜35歳は、募集対象の年齢...。
僕がポスターを見ていると、店員が近寄ってきた。
そして座っている僕の目の前で屈み、こう言った。
「今ね、うち人手足りないんだー。高校生だよね?もう夏休み始まるなら、うちでバイトしない?」
僕は、店員の言ってる内容より、彼女がちょっと屈んだせいで襟元からチラ見えしている真っ赤なブラに注目してしまっていた。
「あ、はい、わかりました...」
ブラに必死だった僕は、なんだか適当に返事をしてしまった。
「えっ!ほんとー!やったー!店長ー!」
店員はすごいテンションで叫ぶと、はしゃぎながらどこかに走って行った。
真っ赤なブラが目の前から消えて正気にかえった僕は、なんだか話が勝手に進んでいってることに気づいた。
...なんか今、ここでバイトすることになった気がする...。
僕は少し焦った。
なぜなら僕は、生まれてから一度もアルバイトというものをしたことがない。
う、どうしたものか...。
これは面倒なことになったな、と思っていると、真っ赤なブラが...、いや、さっきの店員が、店長らしき男の人を連れて戻ってきた。