そんな俺の内情なんて知る由もない白川が「まだ現実って思えないトコもあるんだけど」とコトリとマグカップをテーブルに置いた。


「あたしの初めての母親の記憶って、真っ赤なバラと甘い香水の匂いだったの。漠然とした記憶だけど。あれってお母さんの記憶じゃなくて、ママの記憶だったんだね。きっとあれだったんだよね」


「それっていつごろ?」


「幼稚園の年少よりちょっと前ぐらい、かな」


恵まれているように見えて、彼女は恵まれてなんていない。


求めてないように見えて、彼女はどうしようもなく求めている。


「癌って知ってたの?」


フルフルと首をふる。


「なんか体調悪そうなのは知ってたけど。ずいぶん訳ありな感じはあったけど。まさかあたしのママだったとはね。なんか笑っちゃう」


「…………」


「さ、そろそろ帰らなきゃ」


「大丈夫か?」


鞄を掴み玄関で靴に足を入れる彼女に『行くな』と言えない自分が


何も出来ない自分が不甲斐なく感じて仕方なかった。