その日、帰宅しても葵の「おかえり」と言う声はしなかった。着ていたパーカーは、丁寧にソファーの上に畳まれていて、少しだけ葵のシャンプーの匂いが残っていた。
私が岡崎さんを思って居たことを、葵は気付いていた。知らない間に私は岡崎さんの事を考えるようになって、葵があの甘ったるいメロディーを奏でなくなっていた事に気付かなかった。
いつだって傍で他愛もない話を聞いて、笑って見せてくれていたのは葵だった。今日だって家に帰ったら葵のためにご飯を作るつもりでいた。
甘ったれな葵のために、今度の休みの日に真っ白なケーキを焼いてあげようと思っていたのに。私には葵の鼻歌が子守唄になっていたのに。
 私の事を、確かに葵は暖かく包んでくれていた。
青く透明な、あの笑顔を思い出しながら、私は爪にマニキュアを塗る。葵が見てみたいと言った、あの星を散りばめたオレンジのマニキュア。
葵は命を奏でていた。思いをメロディーに乗せて、私はそれに色を付けた。
風が優しく髪を撫でていく。一瞬、葵の鼻歌が聞こえた気がしたが、それは風の音だった。

葵は風の音だった。しなやかな青い涼風に、優しいメロディーを乗せて、温かい力を与えてくれた。あの頃伝えられなかった思いを言葉に出来るように、そよ風の中から私のところにやって来た。
私は、言葉から伝わる思いの大切さを、葵からちゃんと教わっていた。
葵、あおい。私はもう大丈夫だよ。
明日、岡崎さんに気持ちを伝えよう。貴方が好きだと伝えよう。葵が残してくれた、この暖かいオレンジ色と一緒に。
 
手をかざすと、指先が星の中に溶け込んで見えた。


おわり