「本当に、どこかに行っちゃうの?」
「そうだね。もうそろそろそうしないと」
 濃く、静寂が詰まった空気が、二人の間をゆっくりと流れて行く。絵の具が混ざるように、視界が滲んでいく。こめかみの部分が痛い。このままでは葵が行ってしまうのに、本当に伝えたい言葉が出て来ない。
「大丈夫。寂しいのは、すぐにあの人が埋めてくれるよ」
 木の影と、葵の影が私の中に入ってくる。
「悩ませてごめんね」
「何で葵が謝るの・・・」
行かないで欲しい。身体が嫌だと言っている。本当の答えはこれだった。「行かないで欲しい」そう葵の手を掴んで引きとめたかった。けれど何故か、言ってはいけないと誰かが止めているように感じる。
「綾女ちゃんのこと、好きだったよ」
行かないでほしいと強く思うのに、葵に好きとは言ってあげられなかった。私が岡崎さんを想う気持ちよりも儚く、それでいて愛しさが込められたその言葉に、私は何も返してあげる事が出来ない。
「うん、うん」
 必死でこの思いを伝えたかった。肩が微かに震えてくる。
「毎日、美味しいご飯をありがとう」
頬に涙が伝う感覚が、嫌に生温かくて心が軋んだ。葵を選べなかった私は、葵の気持にもちゃんと気付いてあげられなかった。
「ごめん、ごめん、葵」
 たくさん葵の名前を呼んだ。
「たどり着いたのが綾女ちゃんのところで良かった。僕の癖を褒めてくれてありがとう本当に、この一年楽しかったよ」