岡崎さんはじゃあと片手を振って、改札を抜けて行ってしまった。電車の通る音と一緒に、私の思いは確かな形として走り抜けていく。
 あの、モスグリーンに揺れる影に触れてみたい。昔、銀色の猫になりたいと言っていたあの人。
 携帯を見ると、時間は二十二時を過ぎていて、葵から一件着信が入っていた。電車に乗り、阿佐ヶ谷へと帰る。ドアに寄りかかっていると、光がスピードを上げて走り去って行くのが見える。明るく、そして少し寂しい色だと思った。車内からホームへと降りた瞬間、懐かしい風が吹き込んできた。
家へと向かう足は、踵が少しだけ擦れて痛む。紺のパンプスはぎこちない音を立てていた。
 部屋の電気が付いていないので、そのまま浴室へと向かい、服を脱いでいく。私が動くたびに、岡崎さんの煙草の残り香が香った。まだ指先が火照っているのが分かる。浴槽に浸かりながら、漂う白い蒸気が思考を痺れさせる。
ベッドを見に行くと、葵が丸くなって眠っていた。ちゃんとご飯は食べたのだろうか、待ち疲れて眠ってしまったのだろうか。こうやって身体を小さくして私の事を待っていたのだろうか。
そっと葵の髪を撫でてから、私は台所に戻った。今日は素直に葵の腕の中に入ることが出来ない。台所には湿気が籠っていた。裸足で歩くと床がペタペタと鳴る。
冷蔵庫を開けてひんやりとした冷気を身にまとってから、買い置きしてあるビールに手をかける。今日は何気ない缶ビールが冷たく、重く感じる。
葵は青だったけれど、あの人は「緑」だった。深い森の、しっとりとした空気の色。
あの意地悪そうな目が忘れられない。