毎日、キッチンに立つ杏里ちゃんの方が、テキパキと動き、手際がいい。
私なんて、久しぶりなもんだから、右往左往していた。
「杏里ちゃん…」
お手伝いさんの本宮(モトミヤ)さんが、栗原さんと杏里ちゃんの子供・千愛(チア)ちゃんを抱っこして入って来た。
キッチンに響く千愛ちゃんのなき声。
「おっぱいの時間かしら?」
「後は私がやるわ…」
「…じゃあ~私は…少し…リビングでおっぱいあげるわ」
杏里ちゃんは千愛ちゃんを抱っこして、リビングに退散。
杏里ちゃんに代わって、本宮さんが夕食の支度を手伝ってくれた。
生まれも育ちもお嬢様の杏里ちゃん。
第一印象はおっとりとした感じだったけど、千愛ちゃんを産んで、すっかりしっかり者になってしまった。
栗原さんが初めて相手だって言うし、羨ましい。
私なんて、トーマと出逢う為に、どれだけ、遠回りしたかーーー・・・
遠回りしたばかりに、自分の身体を傷つけて…子供の産めない身体かもしれない。
私だって…本当は赤ちゃんが欲しい。
千愛ちゃんみたいに可愛い赤ちゃんを産んで、トーマを喜ばせてあげたい。
瞳に涙が潤み始めた。
「どうしたの?美古ちゃん」
「玉ねぎのせいです・・・ちょっと涙…拭いてきます…」
刻んでいた玉ねぎのせいにして、キッチンを出て、御手洗に駆け込んだ。
私は誰よりも幸福なはずなのに・・・
瞳から涙がポロポロと溢れ、頬を伝っていく。
複雑な感情が入り混じる涙。
DVDの一件で、またトーマに迷惑がかかるかもしれない。
私は本当に小悪魔だーーー・・・
こんなダメ女をエリートのトーマは選んでくれたのに。
感謝しなきゃいけないと思いながらも素直になれない。
今日は早めに帰宅したものの、美古は先に就寝。
俺の書斎に、栗原が茶封筒を持ってきた。
「以前…俺が調べた美古さんの過去の調査報告書です」
「何故?こんなものがあるんだ?」
「副社長に…調べてくれと内密に依頼されました」
「叔母がお前に依頼したのか?」
「はい、でも…副社長に渡した…報告書はある部分を削って…提出しました」
「・・・」
叔母が受け取った報告書は完璧ではないのか?
「どうして…そんなコトをした?」
「それは・・・貴女方ふたりの結婚の障害になり得ると俺が判断しました…俺の独断でやりました」
栗原は俺と美古の結婚を反対したはず。
なのに、どうして…俺と美古の結婚を許すような真似を。
「これが完璧な報告書です…削った部分は…付箋を貼っております…自分の目で確かめて下さい。社長」
「ありがとう…」
「では、失礼します…」
栗原は踵を返して、書斎を出て行った。
俺はクルリと椅子を回転させて、デスクに背を向ける。
結婚の障害とは…
俺は封筒を開けて、中身を取り出した。
美古が俺には言えない秘密がこの報告書の中に。
俺は付箋の貼られた部分の報告書を目にした。
それは、14歳、17歳と二度、中絶を経験している記載だった。
ろくな男と付き合っていないと思っていたが…まさか・・・
叔母がこの記載を見れば、多分、猛反対しただろうな~。
俺に早く結婚して、次の後継者を望んでいたから。
頑なに不妊検査を拒否った理由が分かった。
俺は他の記載には目を通さなかった。
美古の過去なんてどうでもいいーーー・・・
何があっても…俺のキモチは変わらないから。
俺は静かに寝室の扉を開けて、中に入った。
小さな間接照明の光を頼りに、ベットに歩み寄る。
美古は寝息を立てて、熟睡。
俺は美古のそばに、浅く腰を下ろし、彼女の寝顔を見つめた。
社交辞令にように『子供はまだか?』と訊く連中。
結婚すれば当然のように子供ができると思う周囲の思い込みは、時として残酷だ。
笑って、誤魔化してはいたが、本音は焦りでいっぱい、強いプレッシャーを感じていた。
俺以上に、美古はプレッシャー感じていたんだな。
俺は愛しげに、美古の髪をそっと撫でた。
ケータイのアラームの音で私は目を開けた。
夢うつつの瞳に浮かぶトーマの寝顔。
私は慌てて、飛び起きた。
「・・・何?驚いてんだ?美古」
トーマは瞳を開けて、身体を起こした。
「だって・・・」
「・・・仕事が遅くて、言いそびれたコトがある」
「えっ?」
「昨日…ハンバーグは美味かった…」
「あ・・・でも、私と杏里ちゃんの合作で…」
「それに、一昨日のコト…謝りたい…悪かった…美古」
「・・・トーマは悪くないよ…」
悪いのは私だーーー・・・
「悪くない…」
ちゃんと、自分の身体を大切して来なかった自分自身が悪い。
どうでもいいと人生、投げ槍にして、一度ならず二度も…同じ過ちを繰り返した私。
きっと、神様が私には母親になる資格がないと烙印を押したんだ。
「ゴメンなさい・・・」
目が覚めたのに、再び、涙で視界が霞み始める。
「・・・お前が苦しむワケ…俺は知っている…。悪いが調べさせてもらった…」
「トーマ??」
トーマは私に両手を伸ばした。