早朝、太陽が昇り始めた頃から
井戸水を汲み上げて、屯所内を雑巾掛けしていく。
そして中庭をはいて道場の掃除。
その後は、炊事場に顔を出すとすでに井上さんが、
調理場にたって朝食の準備をしてくれているみたいだった。
「遅くなりました。
今から朝餉、作りますね」
癖のように決まり文句を言って
立つ者のキラリと光る包丁の刃を見つめて
手が震えだす。
震える腕で、必死に野菜を剥いて切って行こうとするものの
安定しない腕は、皮すら思い通りに剥かせてくれなかった。
「山波くん。
切るのは私がやるから」
そう言って、声をかけてくれるものの
素直に手放すことも出来ず、
必死に続けようとしていた私の手から、
その人は包丁と野菜を奪い去った。
炊事場に居場所が見いだせなくなった私は、
ふらふらと、庭に降りて隊士たちの洗濯を始める。
今までも血がついたものを
いろいろと洗い続けてた。
その時は何も感じなかったのに、
今は茶色くこびり付いた、
それにばかり目がいってしまう。
盥に沢山積み上げられた
洗濯物のあっと言う間に洗い終わると、
誰かが声をかけてきた気がした。
だけどその声に対して答える気力もなくて、
私は積み上げられた洗濯物を一人
干し続ける。
太陽の光が真上に上がりだす頃、
ボーっと見つめ続けた光に
立ちくらみを覚えて、
目を閉じると、またふらふらと歩き始めた。
やるべきことが終わって、
一人を自覚すると、
私の意識を支配していくものは
池田屋でのあの感覚。
そして……芹沢さん事件の日に振るった
あの日の感覚。
二度の感覚がリアルに蘇ってきて、
呼吸すらうまくできなくなりそうな
感覚に陥っていく。
突然込み上げてくる、吐き気。
そんな感覚からまた逃げ出すように、
中庭へと駆けだして、井戸水を汲み上げると
桶の中で何度も何度も手を洗い、
身に着けている着物をその場で脱ぎ捨てて
躊躇いもなく、その中へ付け込んで
必死に洗い続けてた。
自分でもどうしていいかわからない感覚。
だけど……池田屋事件についていくことも、
この世界で生きて行くという事も
全部、自分自身で選んだ道。
その道が辛いからといって、
誰かに甘えを吐き出すことも出来なかったし
したくなかった。
『小娘の覚悟はその程度かよ』って
斬り捨てられそうな恐怖もあったし、
瑠花にも心配かけたくなかった。
瑠花は沖田さんのことだけ今は
考えていて欲しい。
私の事なんて、
気にしなくてもいいから。
あの日から、そんな毎日が続く。
ただ何も出来ないまま、
もがき続けて、日だけが過ぎていく
一日がとても長い日々。
一人になるのが怖くて、
夜になるのが怖くて、
やるべきことがなくなるのが怖くて。
真っ赤に染まった着物と、
掌に流れる紅い血が怖くて。
気がついたら井戸水を汲み上げて、
同じことを繰り返し続けてた。
そうしないといけないような気がして。
「花桜ちゃん、カンニンな」
何度か山崎さんのそんな声を聞いて、
気が付いた時には、
自分の部屋の布団の中で
目が覚めてることが何度かあった。
熱っぽさや体のだるさを感じながらも、
その場で休み続けることも出来なくて
やるべき何かを探して、
ふらふらと屯所の中を彷徨いつづける。
「山波ふらふらしてんじゃねぇ。
目障りなんだよ」
そんな私の前に立ちはだかって、
キツイ声をかけてくるその人を
ゆっくりと見上げて視線を見つめる。
「ひ……土方さん?……」
「土方さんじゃねぇだろ。
お前、刀の手入れはしたのか?
刀は武士の命だ。
池田屋以来、手入れをしてないなんていわねぇだろうな」
手入れ?
池田屋?
脳裏に鮮明に蘇ってくるあの日の感覚に、
頭を抱えて、私はその場に座り込んでいく。
胃がひっくり返りそうになって
吐き気が込みあがってくる。
手を洗わなきゃ。
着物を洗って綺麗にしなきゃ。
何かに取りつかれたように、
中庭の井戸に駆け込もうと立ち上がった私の腕を
軽々と強い力で掴む土方さん。
「やっ、やめてください。
私は……井戸に行かなきゃ」
必死に抵抗する私を逃がさないように掴んだまま、
その人は言い放つ。
「山波、今日の稽古はどうした?
俺が直々に見てやる。
今から道場に来い」
そのまま土方に引きずられるように
道場に連れて行かれて、
放り込まれると続いて木刀を投げつけられる。
木刀は受け取られることもなく、
私の近くで、コロコロと音を立てて床に落ちる。
「山波、どうした。
木刀を取って立ち上がれ」
途端に怒鳴り声が道場に響く。
私は言われるままに木刀に手を伸ばして、
何とか構えた途端、土方さんが木刀を振り上げて
斬りつけてくる。
逃げることも、避けることも出来ないまま
体に木刀の痛みを受け、縺れた足をどうすることも出来ずに
その場に倒れこむ。
そんな時間は何度も何度も続いた。
私が意識を手放す、
その瞬間まで……。
消えない血の残像を
一人でどうすることも
出来ぬまま
暗闇の迷宮を彷徨いつづけていた。
池田屋事件から数日が過ぎた。
体に熱がこもりすぎて、
暫く床に臥せっていた総司も
ようやく熱が下がって
今まで通りと変わらない生活を続けていた。
朝から隊士たちに稽古をつけて、
壬生寺に行っては私の日課である、
鴨ちゃんとお梅さんのお墓参りに付き合って、
そのまま境内で子供たちと走り回る。
寺に集まる子供たちも
総司が行くと、
凄く嬉しそうに集まってくる。
そう……この時間だけを切り抜いてしまえば、
あの池田屋事件が起きた後だとは
思えないほど、穏やかな時間だった。
あの日から変わってしまったのは
この屯所内に、
今もまだ舞の姿がないと言う事。
舞が長州の奴と居るところを見たと証言した
隊士は、寝返ったのではないかと騒ぎ立て
私の心を逆なでした。
そんなざわめきを抑え込んでしまったのは、
斎藤さんだった。
決して口数が多いとはいけないその人が
『加賀には、俺が用事を申し付けた。
それに不満があるものは前に出ろ』
そう告げた途端に、屯所内をざわつかせていた声は
ピタリと止んだ。
それでも今も、
舞の姿が見つかることはなかった。
舞だけじゃない。
花桜もあの日から、様子がおかしい。
決して誰とも視線を
あわそうとしない花桜。
何かに怯えているみたいに、
朝、いつも以上に早くから屯所内の掃除をして、
炊事場に入る。
炊事場では、手が震えて包丁すら上手く使えなくて、
それでも誰かに任せようとしない花桜の手から
井上さんが、野菜と包丁を抜き取って食材を切っていく。
いつもはテキパキと行動できる花桜が、
あの日からずっと様子がおかしかった。
花桜の異変は、他の隊士たちも
やっぱり感じ取ってるみたいで、
必死に掃除をしている花桜を見ては、
『手伝いましょうか?』っと声をかける隊士たち。
必死に洗濯をしている花桜を見ては、
『干します』と手伝い始める隊士たち。
そんな隊士たちの言葉に、何時もは声を返しながら
一緒に作業をしていく花桜の反応がない。
そんな花桜に戸惑うように隊士たちは
気遣うものの、その思いは花桜には届かない。
その視界に何も映さないみたいに、
自分の与えられた仕事だけを機械的にこなし続ける。
まだ家事をしている時は安心できるんだけど、
その全ても終わってしまったら
フラフラと屯所内をさ迷い歩いて、
何故か井戸の前に姿を見せる。
井戸から汲み上げた水を
桶にいれては、手を洗い、
汲み上げては手を洗い続ける。
延々と手を洗い続けて居たかと思えば、
今度はいきなり着物をその場で脱ぎだして
その水の中に付け込んで、ゴシゴシと洗い始める。
花桜の手が汚れているわけでもなければ、
花桜の着物が汚れているわけでもないのに。
何かに怯え続ける花桜の傍にいって、
抱きしめてあげたいのに、私がいったら、
花桜を余計に苦しめるだけのような気がして
遠くから花桜を見つめ続けることしかできなかった。
『私が花桜に頼まなければ……』
何度も罪悪感が込み上げてくる。
だけど、そんなこと今更言っても
何も変わらない。
ねぇ、花桜気が付いて?
ほら、花桜にはこんなにも
花桜のことを心配してくれる隊士たちがいるんだよ。
この世界に来て、
私たち、何処にも居場所がなかった。
私の居場所は、鴨ちゃんがすぐに作ってくれたけど、
花桜は凄く大変だったじゃない?
居場所が見いだせなくて必死になってた
花桜の傍には、こんなにも沢山の人たちが、
花桜を気遣って、心配してくれてる。
花桜を必要としてくれてる。
花桜の居場所、
この世界にもしっかり出来てるんだよ。
だから……一人で抱え込んで悩まないで、
苦しんでないで、皆に吐き出してよ。
花桜がそうなったのが、池田屋事件の後だから
多分、その時に何かあったんだよね。
花桜が壊れてしまうほど、
怖い出来事が。
私が傍にいって花桜がそれ以上辛くならないなら、
花桜のその辛さ、私も分けて欲しいって私も抱きたいって思ってる。
それがどれだけ身勝手なことかもしれないけど、
そうすることで、『花桜に背負わせたと言う罪悪感』から
私も解き放たれるような気がするから。
自分自身を少しでも
許せるような気がするから。
そう思う気持ちを感じながらも、
まだ何も行動出来ないでいたある日、
私と総司が過ごす部屋の前を、
花桜が土方さんに引きづられるように通っていく。
嫌がってる花桜に無理やり何かをさせようとしている
土方さんから花桜を守りたくて、
思わず部屋を飛び出して二人の前に立つと、
通せんぼするようにゆっくりと手を広げる。
「じゃますんじゃねぇ。
どきやがれ。
そこのてめぇらも、
見せもんじゃねぇぞ」
私に怒鳴り散らした後、
土方さんに引きずられる花桜の姿を心配して
集まってきた隊士たちをも一喝する。
土方さんの声に、隊士たちは散り散りに
自分たちの持ち場へと戻っていった。
「瑠花、君もこっちにおいで。
山波の事は土方さんに任せておけばいいから」
総司は二人の前で手を広げ続ける私に、
愛刀の手入れをしながら静かに告げた。
「……総司……」
「瑠花、山波の事は土方さんに任せておけばいいよ。
あの子は、まだ覚悟が足りないんだ。
口ではどれだけ覚悟してるって言葉にしていてもね。
心の覚悟は足りないんだよ。
そう、昔の僕みたいに……。
これは山波が自分で気が付いて自分で乗り越える問題なんだよ。
だから……通してあげなよ」
総司はそうやって私を諭すように告げると、
私は広げていた手をゆっくりとおろして廊下の隅に身を寄せた。
土方さんは、また花桜を引きずるように
引っ張りながら歩き始める。
そんな二人の後をゆっくりとついていくと、
花桜は道場の中へと土方さんによって放り込まれた。
道場の扉が全て締め切られて、
中の音だけが外へと響く。
打ち付けている木刀の音と、怒鳴り続ける土方さんの声だけが
その周辺には木霊し続けて居た。
どれだけ長い時間が過ぎていただろうか。
次に閉ざされたドアが開けられた時、
土方さんの腕の中で、
ぐったりと意識を失って眠り続ける花桜を見た。
「まだ居たのか」
土方さんはそれだけ告げると、
それ以上は何も言わず、花桜を何処かへと連れて行く。
多分……花桜の部屋に連れて帰ったのかなって
直感で思った。
不器用でわかりづらいけど、
それがあの人なりの優しさだったのかもしれない。
だからこそ、あの人を良く知る総司は、
あの人の思い通りにさせようとしたのかなって思った。
花桜が元気になるまで、
屯所の事は私が精一杯頑張るから。
舞が帰ってくるように、
花桜の分まで、ちゃんと私が祈ってるから。
だから花桜も、ちゃんと元気になって帰って来て。
皆、花桜が元気になるのを待ってるんだよ。
それぞれの優しさを抱いて。
土方さんの背中を見つめながら、
心の中で、そう呟き続けた。
「ヒドイコトするなぁー。
花桜ちゃん、心配してるでぇ~」
大木にくくられている私の耳に
何処からともなく声が聞こえて
私の前に姿を見せる隊士の一人……。
「えっと……やっ、山崎さん……」
突然の来訪者に、
戸惑いながら名前を紡ぐ。
「やっ、山崎さんって……つれへんなぁー、
加賀ちゃんは。
ほらっ、切るで。動かんでな」
そう言って懐から取り出した刃物で、
大木に括られた縄を切る。
その途端、遮るものがなくなった私の体は
真っ逆さま。
「キャー」
衝撃を覚悟した私の身には
抱きとめられた感覚が包み込んだ。
「あぁ、堪忍。堪忍
ちょっと油断してもーた。
加賀ちゃん落としてもうたら、花桜ちゃんにも、
もう一人掴みどころのない兄さんにも怒られてしまうわ」
山崎さんは、一人ブツブツといいながら
私をゆっくりとその場で、立ちあがらせた。
ゆっくりと向き直った瞬間、
今までのちゃらけてた雰囲気が、
一気に緊迫感へと変化を遂げていく。
「加賀舞、何故ここに居る?」
幸い、刃物は首元に当てられてはいないけれど
その緊迫感は、まさにそれにも匹敵する。
放たれる殺気に、
震えが止まらなくなる体。
だけど……真実は話せない。
話せない代わりに……ただ涙だけが
止まることなく溢れだしてくる。
義兄の覚悟……晋兄の想い。
もう修正することのない、
二人の決意。
変わることのない歴史。
帰ることが叶わない運命。
運命の波に逆らうことが出来ない
現実の重さ。
「なんや?」
ただただ、言葉を発せずに泣き続ける私に、
山崎さんの殺気がゆっくりと消えていく。
「まぁ、えぇわ。
加賀ちゃんを屯所まで連行する」
そう言うと、山崎さんを私を左手で
俵のように抱えると夜の闇に紛れながら、
移動を始めた。
半時間ほどで辿りついた屯所内、
私は山崎さんに抱えられたまま、
土方さんの部屋へと連れて行かれた。
部屋の前で、ようやく俵抱えから解放されて
私は床へとペタリと座りこむ。
「失礼します。
加賀を連れてきました」
障子の向こう側に体を折って、
声をかける山崎さん。
「あぁ、中に入れ山崎」
山崎さんは障子に手をかけて、
ゆっくりと開いた。
「加賀君、山崎君、入りたまえ」
奥から穏和な声が聞こえる。
ペタンと座り込んだ足に
もう一度力を込めるように踏ん張って
立ち上がると、
私はゆっくりと奥の部屋へと入っていった。
この場所に連れ戻された。
逃げようと思えば
逃げることも出来たかもしれない。
だけど私は……この場所に戻って来た。
全ての運命から逃げだすように。
義兄も、晋兄も、
もう私を必要としてくれない。
だったら……この場で私の命が尽きるのも
運命なのかもしれない。
そんな想いを抱きながら、
ゆっくりと部屋の中に
自らの足で歩いて行く。
「おいおいっ、加賀。
なんだ、その思いつめた顔は?
今から死ぬわけじゃあるめぇし」
そう言って、土方さんが私に声をかける。
「加賀君。
さて、斎藤君から話は聞いているよ。
斎藤君の使いで隊を離れていたと。
その途中、敵の手に落ちて大木に括られていたところを
山崎君に発見されたようだが」
思いがけない状況に、私はただ、キョロキョロと土方さんと
近藤さんの姿を見つめることしか出来なかった。
「舞っ!!」
聞きなれた声と共に障子が開け放たれて、
瑠花が飛び込んでくる。