* * *

「それじゃ空(ソラ)、おやすみー!」

 努めて明るい声で空に挨拶をするのはもはや旭の癖だ。

「…確かに私はこれから寝るけど。朝におやすみって変な話。」
「そう思うなら生活習慣なんとかしなさい!」

 あまりに悪びれもなくそう言うものだから、旭の方も言い返す。治す気がないのは知っているが、今の空の物言いに言い返さないのは旭ではない。

「それはちょっと無理。」
「って言うと思った。じゃ、戸締りよろしくね。」
「分かった。」

 温かい春の日差しに包まれて、旭はこの〝家〟のドアを閉めた。旭とその妹、空はこのアパートともただの平屋とも言えない不思議な空間に住んでいる。この家の名前は〝レインボー〟。名付け親はもちろんここの大家である望月千草(モチヅキチグサ)。彼女のセンスは独特だ。大きなリビング、そしてそこには大きな白いソファーが2つ。
赤の小さなソファーも2つ。テレビも冷蔵庫も洗濯機も電子レンジも、生活に必要な電化製品は全て揃っている。ただしお風呂だって洗面台だって一つしかない。それなのに6部屋もある。

 この〝レインボー〟は精神科医である望月が社会不適応の人間のために作った共同生活場なのである。

『そんなところに何で住んでるか?』
『お前、全然社会不適応者に見えない。』

 よく言われる言葉だ。旭自身はもちろん社会不適応者ではない。言うなれば、空の保護者としてここに住んでいる。両親は7年前に事故で死んでしまったからだ。
 空は、大多数の人がしているみたいに社会に溶け込むことは出来ない。―――彼女は、ヒトに会いたがらない。もっと言ってしまえば『男』に。
 空はそこそこ売れっ子の小説家で(書くのも読むのもミステリーが好きだ。何故か。)、昼夜逆転もいいところという感じの生活をしている。
 そして春名旭(24)は幼稚園の先生である。それゆえに朝はそれなりに早い。

「よーしっ!今日も頑張るぞーっ!…ぶっ!」

…顔面強打。…っていうかむしろ…

「ごめんなさいっ!あたし頑丈でっ…!」

 旭は顔面強打で済んだが、ぶつかった相手は旭の頑丈さに弾き飛ばされて、小さく尻もちをついていた。